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損とか得とか…

100日間チャレンジ(いまでは110日間)の、28日目。
これまであまた抱えてきた、様々なこだわりから解放されて、だいぶ身軽になってきた感じがします。
ファーストステージを、だいぶクリアしてきた。
と、同時に外側の世界でも懸念材料が片付いてきて、見通しがよくなってきた感じがあって。
いよいよ引っくり返りが近付いてきてるなぁと、実感してます。
とにかく、だいぶ頭だけを働かせるような場面がなくなってきました。
いつ切り替わったんだろう?って不思議なんだけど「ピンとくる」って感覚のほうを、重視できるようになってきた。
まぁ、これは私の体感でしかないけれど、そちらのほうがずっと正確なんですよねぇ。

ってことで、今日はこのところ気付いたことを書いてみようかな。
先日、88歳の叔母に付き添って、病院に行ってきたんですけど。
叔母がね、肩を落として言うんですよ「これまでの人生、だいぶ私、損してきたわ」って。
私、それ聞いて「トホホ…」って、思っちゃいました。
というのもね、カウンセリングを始めたばっかりのとき、私もそれ感じたんですよ。
ほら、私これまで自分の好きなことや楽しいことなんかを、自ら遠ざけて生きてきたわけで。
それって「損」ってひと言で片付けちゃえばそれまで、なんですよねぇ。
でもその片付けかたってムッチャ刹那的というか、失礼な言いかたになっちゃうかもだけど、とっても狭量で。
確かに損か得かで言えば、損なことには間違いないんだけど。
これまで損をしてきたことによって、私こうして、実に多くのことを学んだわけですよ。
そして、学んだことは間違いなくこれからの人生に、生かされてくんです。

じゃあ逆に「これまでの人生、得しかしなかったわ」って人がいたとしたら、どうでしょう?
常に1円でも安いものを買い、送料が無料になるよう、あまり必要でもないものを買い足したりなんかして。
私もねぇ、つい最近までそれ、やってました。
でもある日、そのことに対してムッチャ、虚しさを覚えちゃったんです。
「むしろ、不自由じゃん」って思ったんです。
だってそんなことやって、その場ではちょっとばかり得したとしても、結局は行動をしばられちゃう。
しかもねぇ、得したことで覚える満足感って、その場限りじゃありません?
気付きを得て後の人生に生かせるどころか、ポイントカードがあるお店でしか買わないとか、余計な執着まで生んじゃいかねない。
執着は結局、苦しみの元なんですよ。
ホントひとつでも少なくしたほうが、身軽で楽に生きられるんです。

さらに言うと、損とか得って、お金だけの話に限りませんよね?
こないだこれ、マドモアゼル愛先生がおっしゃってたんですけど。
たとえばケーキを切り分けてみんなで食べるといった場面で、損を選ぶということは、他の人たちに得を譲るってことでもあるんです。
そもそもねぇ、常に「損か得か?」なんて考えて生きてたら、人として狭量になっちゃうと思いません?
だからねぇ、むしろ損を選び続けてきた人の人生のほうが、私はずっと魅力があるように感じるですよ。
しかもいま、ホントありとあらゆる人が「得しよう、得しよう」と前のめりになってますよねぇ。
ってことは、損は選びたい放題。
結局は「損して、得取れ」なのに、ねぇ。

ところで昨日「所有しないから循環が起きる」って私、書きましたけど。
それって「所有せず、シェアしましょう」っていう話とは違ってて。
いや、同じっちゃあ同じなんだけど…。
人も人以外の生きものも、モノもそうなんだけど。
みんな同じ、エネルギーであることには変わりないんですよ。
だから「人だけが偉くてモノを所有できる」とかいう話じゃあない。
そうじゃなくって「ありがたく使わせてもらう」っていう意識でいられたら、そこに執着は生まれず、自然と人とも共有できますよねってことが言いたかったんです。
伝わりますかねぇ?

では、もしも最後まで読んでくれた方がいたなら、ありがとうございました。

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