見出し画像

分ってもらおうとしない

とっても大事なことに、気付いちゃいました。
そうか、私これまで飲み屋でたまたま隣合った人に対しても、仕事で関わってる人に対しても、亡くなったパートナーに対しても同じように…。
常にどんなときでも「分ってもらおう」としてきちゃったんだ。
私がどういう人間か、分ってもらおう。
私がどんな価値観を持っているか、どんなことに興味を持ってて、どんなことが得意か、理解してもらおう…。
でもそれ、する必要ないんですね。
必ずしも、関わる人全員に私という人間を何もかも、分ってもらう必要なんてない。
みんなそれぞれ、唯一無二の個性を持っているんだから。
分かり合えない人だって、いるのが自然。
だから少なくとも、あいさつくらいしか交わすことのないご近所さんとか、飲み屋で居合わせた初対面の相手なんかには、無理に分ってもらおうとしなくてもいい。
分ってもらうことにエネルギーを割くのではなく、そのぶん気楽に、目の前の人との会話を楽しんでいいんだ。
そのことに、この歳になってようやく気が付きました。

やはりこれって、子どものときの親との関わりを、延々と踏襲してきちゃってるんですよねぇ。
本当に私、こころの底から親に受け入れてもらいたかったんだと思います。
だから、チクリと痛いひと言を浴びせられるだけだと分っていても「こんなことできるようになったよ」とか、「〇〇ちゃんってお友だちができたよ」とか、聞いてもらおうとし続けてしまった。
それを、大人になったいまも、続けちゃってるってことですよねぇ。
親がしてくれなかったことを、別の人からしてもらおうとしちゃってる。
でもそんなこと、もう続ける必要なんてないんです。
だって世の中の多くの人は、相手のことを「分ろう」「理解しよう」なんて姿勢で人と関わってない。
特に、深い付き合いじゃない人は、相手に向けている意識なんてせいぜい半分くらいがいいところだと思います。
なのに私だけが100%意識を向け「理解されよう」なんて、努力する必要はさらさらない。
そんなことは、火を見るよりも明らかだと思います。

さらに、相手を「理解しよう」とする努力もまた、必ずしも必要ではないのかもしれません。
人生の大先輩が相手であれば、少しでも多くの学びを持ち帰ろうと、真剣に話を聞きたくもなるだろうけれど。
趣味も興味もまるで違う人が相手なら、表面だけ愛想よくして、エネルギー消費をなるべく抑えた関わりかたをしてもいいのかもしれない。
そうやって、相手や自分の状態によって、自在に対応を変えられるようになれたらいいなぁと思います。
そういう「自分を調節する」っていう意識が、これまで私の中には不足してたんだなぁ。
完全に、頭の中が「ゼロか、100か」に固定されてました。
でもこれからは、常に自分自身を最優先に、ときと場合によって人との関わりかたを使い分けられるように練習していけたらと思います。
そして、エネルギー消費をできる限りセーブして。
自分のやりたいことに、より多くのエネルギーを向けられるようになりたい。
それが、いまの私の、何よりの目標です。

ホームページをつくったので、ぜひ見てみてください。
お気軽に、コメントいただけたら嬉しいです!

春も、自由な世の中も、すごそこまで来ていますから。
いっしょに、楽しんでいきましょう!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?