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その悲壮感いる?

またもや、気付かされる出来事が起きました。
私やっぱり見境なく、あらゆる人に対して、受け入れられようとしちゃってるんですわ。
特に「評価される」ときや「選ばれる」ときなど、いま現在に至っても…。
「どうにかして受け入れられなければオシマイだ」みたいな、悲壮感をただよわせちゃう。
これがねぇ、この悲壮感が、自分自身を追い詰めてきた核心だと思います。
いっつもこれを使って私、自分自身の逃げ道を奪ってきたんだ。
でも、よぅく考えてみると「オシマイって誰が決めたん?」って話なんですよね。
人生なんて、始まりと終わりはどう頑張ったって一回ずつしかなくって、その一回以外は必ず続いてしか行かないのに。
「何がどう、オシマイなのよ?」って、自分自身に聞きたくなっちゃう。

やっぱりねぇ、私まだ、ものごころがつかないような幼いころに。
でーっかいこころのキズを、負っちゃってるんですよ。
まだ、言葉すら身に着けないうちに、ムッチャ傷付いてた。
それをねぇ、ようやく認識しました。
悲しかったんです、私。
だから、必死でもがいて。
でも願いは打ち砕かれ続け、なお一層、落ち込みました。
その落ち込みをいまもなお、引きずっちゃってるんですよねぇ。
だから、無意識のうちに他者という他者に「受け入れられよう」と必死になるようになっちゃった。
でも必死になればなるほど、うまくいかなくって。
何度も何度も、うまくいかない経験をくりかえして。
やがて自分を追い詰めるツールとして、「悲壮感」をつくり出してしまったんだと思います。

でも、そもそもの話。
あらゆる他者に「受け入れられよう」としなきゃならない必然性なんて、どこにもないんですよねぇ。
だって、まったく共通点のない他者に受け入れられたって、話が合うはずもなく。
関係性を保っていこうと思ったらガマンが必要だし、それ以外にも多大なエネルギーを注がなきゃならない。
そんなことする必要なんて、あるはずないんです。
それ、「知らなかったのは私だけ」ってオチですわ。
私以外は、何でもなく知ってることなんだと思います。

でも改めて振り返ってみると、うまくいかなくって当たりまえですよねぇ。
だって「受け入れられなきゃオシマイだ」って完全に、欠乏のエネルギーですもん。
明らかに自分が持っていないものを、外側に求めようとしちゃってる。
つまり「ないないない〜っ!」って、宣言し続けてるのといっしょってことです。
そうやって、欠乏のエネルギーを発し続けていれば、そりゃ欠乏を感じ続ける現実ができてっちゃうのが必然…。
ということで、私「受け入れられよう」と悲壮感をつくりだすのは、金輪際やめることにします。
代わりに必要なのは「受け入れられても受け入れられなくても、どっちでも私は満たされている」っていう感覚ですよね。
だって私がしたいことって、創作にしてもデザインにしてもものづくりにしても、どれも一人で取り組むことばっかりなんです。
つまり私は「人といて満たされる」タイプじゃないってことだと思います。
今回の人生は、人と関わることが目的じゃない。
これを認めることは、私にとって勇気のいることですが。
ちょっとずつでもいいので、時間を掛けてでも、認めていこうと思います。
私が求めているのは、何かをつくり出す喜びなんです、多分。
だから、そのためには一人でいる時間がとっても大事で。
人恋しくなったときだけ誰かといる時間が持てれば、それで十分なんです。
そのことを、しっかり自覚して。
必要もないのに落ち込んで、エネルギーを消費してしまわないように。
これからは意識的に、自分をコントロールしていくことにします。
ありがとうございました。

では、どうなるか読めない日々が続いていますが、楽しんでいきましょう!

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