徒らな時間
徒らとは、存在・動作などが無益であるさま、役に立たないさま、むだ。という意味である。
だとしたら僕たちの日常のほとんどの時間は「徒ら」な時間だし、僕自身も「徒ら」な存在であり、これを読んでいるあなたもまたこれから「徒ら」な時間を過ごすことになる。
現代において多くの人が「徒ら」な時間を過ごしていると到達する二つの景色がある。
汚れたカーペットを永遠に洗っている風景と、プレス機で何かを圧縮している風景。これが「徒ら」の二大巨頭である。
もしくは、何の興味もない格闘ゲームの必殺技集であったり、知らない素人カップルのなれそめであったり、鳩が永遠に罠にかかる様子だったりする。
でも同時に、僕たちは知っている。
これを見ている時、僕たちの中に絶えず焦燥感がたまっていくことを。何をやっているんだ俺は、という内なる声が少しずつ自分を突き動かしていくのを。そしてその声がコップの水からあふれ出して、「徒ら」ではない時間に流れ出てくれることを、僕たちは他人事のように願っている。
だとしたらこういう動画を見ている時もきっと、「徒ら」な時間なんかではないのだ。そうだ、無駄な時間なんてない。何もしていない時間も、全ては助走にすぎない。高く飛ぶために膝を曲げているのだ。起きるために寝ているのだ。煙草をやめるために煙草を吸っているし、いつかの一攫千金のために僕は今日も競馬をするのだ。無駄な時間、無駄なことなんて一つも存在しない。
数年前のある日、23歳の僕はオリンピックの競技プールにも匹敵するほどに、何かしなくては、という内なる声をためて、その声が流れ出た先に「劇団スポーツ」という劇団を立ち上げた。
墓とバナナ#1
大学の同級生だった内田に呼び出されて、僕たちはその日のうちに「劇団スポーツ」と言う名前をつけて、第一回公演の日程を決めた。(東葛スポーツのことなんて知らなかった)
小屋は適当にホームページを調べて、電話してみたら取れた。舞台監督さんと一緒に照明図を書いて持ってきてくださいと言われたので、僕が舞台監督ということにして照明図に無作為に◯とか△を書き込んで持っていった。
適当なサークルの名前を使って大学の部屋を借りて稽古をした。誰も来ないことを恐れてチケット代を500円に設定した(後に40万ほどの赤字を生む)。生まれて初めて脚本を書いた。二人きりで稽古のようなものをした。SNSのアカウントを作って頑張って宣伝した。
わからないことしかなかったが、全てが楽しかった。一つずつ不安要素を潰して、周りを巻き込んでいく。少しずつ物語が出来上がっていく。俺たち、こんなやばいことしてるんだぜ、というナルシズムを自覚しながらそれも含めて心地よかった。
今を、生きている。
「徒ら」な時間なんてもう存在しない。今僕の人生の物語は、僕を主役として回り出したんだ。
どうしても面白くならなかった二人の兄弟の回想パートも、僕と内田が代わる代わる兄弟の役を演じ分けることで解決した。ひっきりなしに二人の役が交代していくことで、お客さんを飽きさせない。
一つ問題があるとすれば、内田がその時に役の名前を覚えられないことだった。役がお互いにすごい速度で交代していくため、混乱して役の名前を間違えてしまう。
だがこの問題も、役を名前ではなく、お兄ちゃん、弟、と呼ぶことで解決した。兄弟の話しだったのでここは役名ではなく、お兄ちゃん!弟よ!などと呼ぶことにしたのだ。そうして何度も稽古をした。二人きりで汗を流しながら、もちろん何度も喧嘩をしながら、この目まぐるしく役が変わるシーンを繰り返し練習し、完璧に仕上げた。
そもそも僕は全く心配していなかった。内田はすごく魅力的で天才的な俳優である。頭の機転も早い。彼は本番になればきっと、僕なんかよりよっぽど上手く演じてお客さんを虜にすることを僕はわかっている。実は僕は主人公ではなく、内田という物語の第一章の脇役であることも。
無事に稽古は終わり、小屋入りをする日になった。演劇なんてほとんどやったことない友達5人で小屋入りをした。
事前に照明さんに習った通りに照明を設置し、音響さんに習った通りにコードを接続した。音が出た時には声を出して笑ったし、照明がついた時には感動した。微々たるお金しか払えないのに、ちゃんとした照明さんも音響さんも途中から手伝いに来てくれた。ゲネも予定通り終わり、いよいよ本番の日が訪れた。
始まった後は僕の思った通りだった。僕たちは稽古よりも遥かに完璧に物語を進めていく。お客さんも大いに笑って、会場が熱を帯びて僕らを見ているのを感じる。内田も天才的なアドリブを入れてどんどん笑いを足していく。僕はもうこれが演劇であるということを忘れて、完全に舞台の中に入っていた。
気づくと、兄弟の回想のシーンに入っていた。二人して目まぐるしく役が変わっていく。兄と弟が次々と入れ替わる。何度も失敗していた場面だが、本番はなんの問題もない。むしろ稽古よりさらにハイペースで、お客さんも内田でどんどん笑っていた。こうなることを僕はわかっていた。全てが自分の掌で動いてるような万能感があった。
回想パートが終盤に差し掛かる。あとは内田が、「お兄ちゃん、どうして…!」というセリフを言って終わりだ。
…内田が目を丸くして固まって僕を凝視している。また何かアドリブのセリフを足そうとしているのか、大丈夫、上手く返してみせる。俺を信頼して言ってくれ。
「…お前!どうして…!」
内田は、お兄ちゃんが言えなかった。直前で頭が真っ白になって、お前と言って乗り切った。全く変ではない。お客さんは一切気づかない。僕だけが、一旦舞台からはけて吐くほど笑った。
あんなに練習したのに、あんなに色々考えたのに。
「お前」でよかったのだ。
何を僕たちは喧嘩をしたりしてたんだろう、なんのためにあんなに稽古をしたんだろう。全くもって無駄な時間であった。
今日も早起きして、タバコを吸って、コーヒーを飲んで、仕事をして、稽古に行く。日々はただ、「徒ら」に流れていく。
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