一基
頭が空っぽの落語家の、その洞に出囃子が鳴る。とたん彼は軽い調子で高座へと歩み、下半身を座布団に張る。彼はまったく動かない。声も出ない。今は観客も揃ってひそやかで、何を囁き合うことすらしない。出囃子が止み、無音のときを幾許かして、舞台は覚めなければならなくなる。すると弟子が袖からゆっくりと現れ、演目を知らせに上がる。この使いは何に堪えかねたわけでもなく、ただ唯一、静穏な空気に自由であるから告げに出たのだ。耳打ちのあと初めての沈黙があり、達人の間をもって第一声が発される。迫真の圧にやられていればすぐにオチがつく。終幕後の観客はみな、気に入った言葉などを繰り返し、やがて醒めやる。次に補遺として、上演に係るすべての時間は零倍速であって、そのとき確かに心が場を離れていたのだと覚え、その恍惚感を追憶の形式にのせてのみ思うことができる。舞台裏ではちょうど落語家が同じことを考えている。
気の知れた人との会話が途切れると、不意に上のような心象に迫るときがある。きっかけは判らないが、ある沈黙の次に、私たちはもう自動式で語るようになる。二人は向き合っていながら、互いの冴え返る独壇場をそれとなく見ている。相手への心配り、それに添える生花も忘れず、ただ言葉の接続だけが気味悪いほどに上手くなる。この上等なコミュニケーションに取り込まれるとき、相手の姿が見えているかどうかはもはや問題ではなく、常に二人は盲人である。閉じているのは目だけではない。二人の身体は運動能力を失って象徴の一本に貫かれ、そこにのみ開く。そこで一切に感動している。ならば語り手と聞き手をあえて分けて考える必要はない。片方が声を出し、もう片方がその声にあてられて身体を震わすという役割の違いが即物的な違いを超えることはないし、両者が似たように達しているのならばこの意味で平等であるからだ。
言葉無くして放心はなく、放心の前に恍惚はない。つまり沈黙はもちろん、逆に発話も上手く扱えばすべて恍惚になる。こういう快楽に当たるとき、言葉が借り物かどうかは心底どうでもいいと思う。借用の意識はいつも聖性の邪魔にしかならない。
文:髙野皓太
劇団ケッペキ
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