クリスマスプレゼント(人生①)

僕が8歳のときのクリスマスプレゼントは、
ひとつがDSのソフト「星のカービィ ウルトラスーパーデラックス」、もうひとつは弟の死でした。

ポエミーな文章にするつもりはなくて、それは祖母が弟について綴った詩を部屋中に貼り付けていたのと、父と母のこれまた詩的なブログを盗み見たことで、すこし冷静になってしまったから。

詩的なもの自体は好きだけど。


クリスマスの明け方に眠気まなこでリビングに行くと、なんのラッピングもないDSソフトのパッケージがあった。

次の記憶は白っぽい廊下のベンチ。まだ午前中。
プレゼントのカービィを夢中にプレイしている。

「ゲームおわって」と言われ部屋に入ると、
そこのベッドで寝ている弟がもうすぐ死んでしまうらしいことを医者に告げられた。

ほかに方法はないの!!!??って
医者に泣きじゃくったのを覚えていて、
今思うとあまりにもドラマにありそうな台詞だった。

みんな泣きながら、一人ずつ、弟を抱き抱えていった。重かった。

心電図の波が停まって、家に着くまでの記憶はない。


弟が入院している間、たまに帰宅許可が出て家に帰ってくることがあった。

当時はことの深刻さを理解していなくて(親の配慮もあったと思う)、そんな貴重な時間に友達との約束を入れたりしていた。
もっと遊んであげればよかったと凄く後悔した。

クリスマスの3日前は弟の誕生日で、
そのときも家に帰ってきていた。
3歳を迎えた次の日に容態が急変して病院に戻ったことを後から聞かされた。

ある年のクリスマスがそんな日になってしまったので以降のクリスマスを楽しめなくなったかというと、そういう訳ではなかったように思う。

ただ、どこかのタイミングでこの人生を楽しんでいいのかみたいなことを考えるようになった。

過去の積み重ねが今に繋がっているのならば、いま幸せと感じているとき、その幸せは弟の死の上に成り立っているのではないか(弟の死がなければその幸せが発生しなかったのではないか)。

中学生ぐらいのときに「それはそう」という結論になって、弟の生死から分岐したイベントを存分に楽しむことに善悪は生じない、罪悪"感"の問題だと割り切った。

(いちいち罪悪感を感じていたら弟の方が可哀想ではないかとも思ったけど、それは若干のポエム)


割り切ったことで弟のことは解決したけれど、世間との折り合わせの方が大変で、ひとは死について大して向き合わないから"不謹慎"とされる行為を設定したがるんじゃないかと思ったりした(中学生だったので)。

そんな風に捻くれたりしたけど、弟の死のあとに喪失感みたいなものがあったのか、8歳の心象がどんなものだったかは全く覚えていない。

弟ご生きていたら僕の性格が変わっていたのかも検討がつかない。


人生のなかで大きいイベントのはずだけど、
アイデンティティに関わるほどの影響があったのか。

でも、人が死ぬという現象をそこで初めて知ったからこそ、人生で身近な人は死にうるという前提を柔軟に取り込めた気もする。

色々整理できた気がします。
ここまで読んでくれた人、ありがとうございます。
人前に出す文章だからと推敲することで気付くこともあったので、noteで書いてよかったです。

こんな話が霞むほど、身内がそれぞれに地獄だったので、よければまた聞いてください。

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