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のめり込み切れないから芸術

共同研究先に訪問がてら、
その土地の美術館に行ってきた。
久々に文系脳が捗った気がするので書き出してみる。

入り口は一面がモルタルで、モダンな雰囲気を醸している。

扉を抜ける。

吹き抜けの、足音だけが響くほど静かで、無機質な、階段だけの空間が広がっている。ボスの待ち受ける一部屋前のような予感から来る緊張が、段を踏むごとに高まる。

十分に期待させてから展示室に辿り着く設計になっていた。

最初の展示室は巨大な部屋で、いきなり教室二つ分くらいの圧巻の絵画が現れる。

静かな階段で下拵えされた期待感を迫力で喰らわせてくる。感情の導線造りが上手い。
これは匠の仕業に違いない。

今回は二人の日本人画家の企画展で、そのうちの一人の絵画が印象的だった。

遠景の山まで白い雪で染まり切った氷の大地とその上に立つ茅葺きの村を、赫赫とした夕陽が濃く照らしていて、背の高い木に残る少ない葉が金色にきらきらと輝いている。

その人は「赫」をテーマにしていたらしい。

解説文曰く、
絵の具から出る赤色ではない、深い広がりを感じさせる鮮やかで純度の高い「赫」を描いている、
とのこと。

泣きそうになるくらい、陽の熱まで伝わりそうな、臨場感のある夕陽だった。

中の世界に引き込もうとする絵画と、それはフィクションであるということを示し続ける枠の力が拮抗している絵。

結合する寸前の磁石のようなもどかしさ、どちらかの世界にのめり込み切りたくなるような駆動力を孕んでいる。


ここ最近のなんとなく考えていることに「解像と俯瞰」があって、好きな瞬間を振り返るとその二つの視点を行き来する体験だったりする。

山頂から雲海とその隙間の街を眺めたときや、カメラのフィルターを覗き込むとき、分子の働きを目に映る景色の中で再現するとき。


そしてある一瞬の人の認識は解像と俯瞰のどちらか一択でしかない、二元論だと思っていた。

解像は、その絵にのめり込みたくなる絶景、侘しさ、不気味さ、不確かさのような臨場感(具体とか熱中とか)。

俯瞰は、その絵にのめり込もうとする自分にハッとして、この絵が好きなんだなと気付く理性(抽象とか冷静とか)。

けれどこの絵を見て、芸術は解像と俯瞰を繋ぐグラデーションかもしれないと感じた。(偉そうで恐縮)

キャンバス上の仮想で徹底的に現実を再現しようとしたり、現実を放棄して懸命に人間の理解を超えようとしたり、そういう仮想と現実の逆行が芸術には含まれていて、世界にのめり込んでは追い出される優柔不断な意識を心地よいストレスとして僕は楽しんでいるのかもしれない。


仮想の側に視点を定住させた人も居るのだろうか。

日常で疲れてしまったときに森林限界の景色に戻りたいと思うことがある。僕の山に対する帰属意識もそれに近いのかもしれない。


箱根の美術館に行った数年前、数字が1から順に描かれた10枚の絵画を前にして、その意図を必死に考えた。結局よくわからない。

そのとき同行者に、「どれが一番好き?」と問われたことがずっと引っかかっていた。

僕は背景や意図を汲み取ることが好きだけど、絵を好き嫌いの軸で評価しようとしたことはなかった。

だから不可思議で解釈の難しい絵画を、好みで気ままに印象付けていいなんて発想がなくてハッとさせられた。

内心まで客観的でいようとするばかりの人生だったので、自分に人間味を感じないというコンプレックスが刺激された。


赫い絵の前に立ったとき、
今は絵を見るときの自分の視点が好きだと思えるようになったんだなと、腑に落ちた。


モルタル造りのお洒落な美術館だった。

なぜモルタルに風情を感じるのか分からないから、また考えてみたい。

旅の目的の実験の方は上手くいかなかった。

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