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「幕末史」はいつできたのか。

「幕末史」はいつできたのか。
それは昭和14年の完成である。この時代背景を考えるべきだ。

幕末史の編さん事業は当初、明治時代の半ばからスタートした。薩長閥の政治家がまず文部省と宮内庁に編さんを命じた。『幕末とはペリー来航から廃藩置県まで』と定義した。この定義そのものが薩長閥には都合がよかった。

編さん事業は遅々として進まず、途中で中断したり、外務省に移ったり、東京帝国大学に移管されたり、また政府機関にもどったりする。歴史事実を素直に記載せず、政府に都合よくしようと歪曲する意図があるから、異論も出るだろうし、いつまでもまとまらなかったのだ。
 
長州閥の多い政府だから、歴史学者が長州や薩摩に媚(こ)びて編さんしている。例えば、長州藩が全くからんでいない事象でも「薩長」という言葉でごまかしてしまう。

昭和11年「大日本外交文書」が刊行されてから、さらに編集を重ねて昭和14年に「幕末史」が完成した。

昭和14年とは、どんな時代だったのか。
満州事変、五・一五事件、国際連盟脱退、天皇機関説事件、二・二六事件、盧溝橋事件、日中戦争の勃発、国家総動員法、そして昭和14年が治安維持法の制定である。つまり、厳しい言論統制の時代に入った年に、政府刊行の「幕末史」が完成したのだ。

「幕末史の、ここは事実とちがいます。事実誤認があります。真実と真逆です。朝敵の長州はさして倒幕に関わっていません」
そんな異議を吐く学者がいれば、治安維持法により逮捕される時代である。むろん、研究論文など発表すれば、それは逮捕の証拠品になる。
 
そして、2年後には太平洋戦争の突入、やがて特攻隊、ガダルカナル、ミッドウェーと進んでいく。この期間となれば、政府刊行の幕末史に異論など言えるはずがない。

『歴史は思想教育に利用されやすい』もっとも顕著な学問だ。

明治・大正・昭和(太平洋戦争終結まで)の官製歴史教育は、国民皆兵(徴兵制)、「祖国の為に死す」を美化するものだった。さらに昭和14に完成した「幕末史」は正しい、と金科玉条(きんかぎょくじょう)のごとく扱われ、国定教科書の基本になった。

つまり、幕末史が、薩長閥政治家に都合よく、軍事教育、および思想教育に使わてきたのだ。
幕末史は6年間の無修正のまま終戦を迎えた。戦後教育のおいても、日本史の教科書がこの無修正「幕末史」がベースになっている。そのまま現代につながっている。
だから、私たちが学んできた文部省選定「日本史」は、年表は事実でも、内容には虚偽が多く、公平性に欠ける。だから、いまだに日本史が必須科目にならない。

歴史作家たちが描く幕末物も「幕末史」を利用してきた。だから、教科書も、娯楽歴史小説も、出典元はおなじである。 

「阿部正弘は、砲弾外交に蹂躙(じゅうりん)されて、おろおろして開国した」と論じる。軟弱な阿部正弘だと決めつけた、偉そうぶったブログにはなんども出合い、嫌悪をおぼえてきた。自説として掲載しているけれども、治安維持法のできた年・昭和14年に完成「幕末史」をまったく疑ってもいない。実際に、いつできたかも、知らないのではないか。

ただ、教科書も表現がちがっても、「砲弾外交に屈して開国した」と書いている。出所は、幕末史で同じなのだ。

「歴史から学ぶには、歴史は真実でなければならない」

長編歴史小説「阿部正弘」の執筆を終えて、あなたは日本の歴史教科書を信じますか(1)』より
http://www.hodaka-kenich.com/history/2019/08/20093331.php

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