「阿部正弘」再評価の考察
阿部正弘の評価について、お問い合わせがありました。
●阿部正弘が斉昭を採用した失策について
●水戸徳川家は参覲交代も免除されるほど、見えない優位性があったのでは?
上記のお問い合わせに対する、穂高先生の回答です
歴史を後ろからみれば、岩本馨氏のいう通りでしょうね。阿部正弘の懐柔策は、徳川家の権威を背景にしか幕政が運用できない老中政治(3-10万石・譜代大名)の限界でしょう。
かたや、剛腕な井伊直弼は阿部の死後すぐさま水戸斉昭を厳しく隠居・謹慎させて、かつ一橋派もことごとく弾圧してしまう。そして結果は、安政の大獄、桜田門外の変、徳川政権の瓦解、水戸藩は天狗党の乱で明治初期までメチャクチャになる。
もし、阿部正弘が早くに開国主義に反対する攘夷派の水戸藩の徳川斉昭たちを弾圧するか、排除していたら、「安政の大獄」のような国家分断はペリー来航した直後から始まっていたでしょうね。
なにしろ当時の家慶はやる気なし「そうせい公」といわれており、家定は精神不安定。この状況が、老中政治の背景にあった。
家康公の思召しで、『将軍家が機能不全に陥ったら、水戸藩が代行せよ、そのために常時の在府である』。神君の祖法である、と斉昭が乗り込んでくるのだから、始末に負えないですね。
家慶将軍が嘉永2年(1849年)に斉昭の藩政参与を許した。(妻同士が姉妹の情で)。老中首座の阿部正弘が反旗を翻し、クーデターで独裁政権をつくるか、史実のように斉昭にたいする懐柔策か。二つに一つ。
独裁政権は国家分裂を起します、このころ英米ロのクリミヤ戦争(1853年・ヨーロッパ大戦争といわれた)が終結してきます。となると、日本は恰好の獲物で、アジア諸国のように植民地になっていたでしょうね。
いまのウクライナ戦争が終わったら、次はアジアだ、と思えばわかりやすいでしょう。
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「寧ろ尾張・紀州よりも一段低いのでは?」これは事実誤認です。
家康=水戸藩の在府、という趣旨は神君祖法です。当時のひとは水戸藩の位置づけを知っていることです。石高の大小とか、大納言、中納言の違いではありません。
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上記のように、阿部の穏便な人柄か、井伊の剛毅な圧政か、史実を読み解く面白さでしょうね。ただ、世界史の中における日本史をみないと、当時の状況は解明できません。
いまのウクライナ戦争でも、日本人は北方領土や核装備が気になるようにリンクしてきます。歴史は自国の理由だけで進みません。
現代に、徳川御三家の一つ国粋主義の水戸斉昭がいたら、「この際だ、盗られた領土は取り返せ、北方四島を進攻しよう」と強く旗を振るかな。
結果など関係なく。ロシア・ディアナー号の500人を皆殺しにしろ、と叫んだ人物だし。
以上です。
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