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長州戦争とは何か

長州戦争とは何か。『長州・毛利家と孝明天皇軍の戦い』である。
禁門の変が起きて、長州・毛利家が朝敵になった。いつの世も、朝廷は軍隊を持っていない。孝明天皇が、江戸から家茂将軍を京都に呼び寄せ、征夷大将軍として長州を討て、征伐せよ、と勅命したものだ。
それを受けた家茂将軍は、天皇の軍隊として出動した。

第一次長州征伐は、15万人を動員し、長州を取り囲んだ。「血は流したくない」と和睦の道を選んだ。
もう一つの理由は、戦争は金がかかるし、徳川家は金山・銀山も掘りつくし、財政が悪化していた。過激派攘夷が外国人を殺すたびに、膨大な損害賠償が要求された。それらを支払ってきた。
例えば、薩英戦争でも、イギリスに膨大な賠償金を払った。長州が起こした下関戦争でも、膨大な要求がなされた。

徳川家の金庫はもはや底をついていた。戦争は金がかかる。だから、戦わずして解決した。

長州第2奇兵隊が同年4月に倉敷代官所を襲った。先制攻撃を受けたことから、江戸の幕閣が怒り、長州を包囲する皇軍が戦争に突入した。
大坂城の家茂将軍が心労で急死した。一か月は発表を伏せていた。

慶喜が勝海舟に、征夷大将軍が不在だ、これ以上は天皇軍として戦えない、「長州と休戦協定を結んで来い」と指図した。
勝は宮島(広島県)の大願寺で、長州の幹部と休戦を取り決めてきた。

慶喜は、徳川本家の相続だけを受けた。
しかし、征夷大将軍は受けなかった。そして、孝明天皇に、「征夷大将軍がいないし、長州征伐はできません」と申請したのだ。
 
この段階でも、孝明天皇が、「長州征伐の休戦はまかりならぬ」と勅許の履行を迫った。これは歴史的事実である。
それほどまでに天皇は、長州・毛利家への征伐に執念を燃やしていたのだ。しかし、慶喜は拒否を貫いた。

当事者の毛利家は、天皇の恨みが解(と)けていないと認知していた。だから、宮島の休戦協定の後から、皇軍(官軍)を敵にまわした反撃などできない。現状の凍結で軍事活動はやらなかった。

同年12月に、孝明天皇がご崩御され、明治天皇が引き継いだ。このときも、長州は天皇の敵のままだった。いつか第三次征伐をやらねばならぬ。この長州問題は最後の最後まで、尾をひいてしまったのだ。
慶応3年の小御所会議の王政復古で、明治新政府ができて、朝敵が解除された。

最近の歴史関係書は、長州征伐から、長州征討、四境戦争、とよりあいまいに表現を変えてきている。その実、学者は本質を解っているのだ。第一次も、第二次も、とりもなおさず孝明天皇の討伐勅許が出されたもの、幕府はその名代だった、と。

歴史には公平感がとても重要である。

戊辰戦争では、錦の御旗(官軍)と賊軍の会津との戦いとする。ならば、当然ながら、長州戦争では『賊軍長州と官軍幕府』として取り扱わなれければ、辻褄(つじつま)が合わない。
同時代だけに、歴史的な公平感が欠けている。

穂高健一ワールド 更新日:2017年5月19日
『【近代史革命】長州戦争は、孝明天皇・官軍と毛利家・賊軍の戦い=だれが歴史をわい曲したか』より
http://www.hodaka-kenich.com/history/2017/05/19140634.php

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