さまざまな感想
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さまざまな感想を足していくnoteです
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この「ノーヘヴン・ノーヘヴン」の54秒目くらいで「この学園祭に自分も関われて、本当によかったな」みたいな気持ちになれます
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ひょうきんな大学生5人くらいが出せる歌唱力の上限みたいな聞こえの歌声なのに、そこにどうしようもなく魔法がかかってる
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聴きたくなったときに聴くとやっぱりちゃんとかっこいいね
地下風力… みたいな語彙で通してたらもっと煙っぽい聞き味の曲になってたんじゃないか・・・みたいな欲はあります
途中 「ツイッターをよく見てる奴」の愚痴になってるところが、きいてて気まずくなる
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山本文緒さんの『無人島のふたり』もそうだったけど、本の終わりかたが、こういう本でしかありえない終わりかたをしていて、怖い、と「こういうふうに終わるのも涼しくていいかも」のきもちが一緒にくる。小説だけど、藤原伊織の「ダナエ」とかも。西村賢太の「雨滴は続く」とか。
絶筆、って言いかたがかっこいいと思うのは幼稚なんだろうか。
「イカゲーム」という語句のでてくるところがあり、不思議な気持ちになる。「イカゲーム」のころには坂本龍一がまだいたのか、というのか。なんか。
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大声で笑う、だけが「笑う」や「おもしろい」じゃないはずだ、 「くぷぷぷぷ」と唇をあけないまま(別にあければいいのに)、延々おもしろい、 眺めてまう、 みたいなのも当然「おもしろい」はずなんですが、現世で流通しやすい「おもしろい」ってもっと「速い」ので、「くぷぷぷぷ」なおもしろはけっこう探し回らないと探せない。思いつく順の先着だと上牧さんとかはそうだと思う。
そんな上牧さんのおもしろさが次の段階に入ったかもしれないと思うnote。
入ってないのかもしれなくても「くぷぷぷぷ」。
なんでしょうね。
うさぎとかかえるなどというものは、保育所(ほいくしょ)の人たちのものだろうなんて勝手に消極的でいると、ビーズのつらなりの色のすずしさに 目を取られる。いいのね。絵を見るように、けっこう見てる時間長くなかったですか? 画像を。
途中の、
どうしてアイロンビーズをやるのか
とか、なんかおもしろいよな。
「どうしてアイロンビーズをやるのか」って説明しだす人おもしろいよ。うん。
上牧さんは「もちもち」という劇ユニットをされていて、仲間に冨岡さんという人がいて、たしか記憶だと冨岡さんが観覧車に乗ってる日に「観覧車に乗ってるなんて思わないじゃないか」みたいに喜んでる(というかなんというか)ときがあった記憶があるんだけど、上牧さんだって観覧車じゃないか。ありがとう。
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これの「Genesis」がかっこいい。
「痛覚が無い体で見れる世界の滅亡はすてきかもしれない」 的なはずかしいことを思うのを曲調から許される感じ
昔 「東京ガベージコレクション」というラジオの、震災から一年後の回の途中で流れてた。
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かるがも団地の「三ノ輪の三姉妹」、めっちゃ良かった。
なんだろうなこれ。なんだろう。
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あの場面、緊張感がすごくて、見てて逃げ出したくなった。
それまでは、壇上にいる人間の数がマジでガヤガヤしてるんですけど、あそこで初めて三人きりになるし、台詞も、チョケやテンポ詰めなんかの遊びがなくなるんですよね。
なので一気に静かになる。
家で観てる映画だったらあそこで、⏸️で一旦 止めて「ハァ〜。」みたいに息をついてると思う。
怖かった。ので、この緊張感のなかにいまから突入していくこの三人たちに当たってるライトと、その中にいる三人がすごくかっこよかった。
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観劇のことを自分は読書だと思ってたかもしれない。読書みたいな演目だってあるだろうけど、今日の観劇で、自分は観劇を娯楽だと思った。
見てる人に楽をさせてくれる=娯楽
楽しい時間がくるまである程度長くても頑張ってついてこいよな=読書
みたいな区別か。
場面……を本で読んでるとき、そこには「場所」や「登場人物たち」が書かれているけど、場所や登場人物たちがそこに〈在ったり・いたり〉するわけではないじゃないですか。
あくまでも読者の想像しだい。
想像「力」しだいで立ち上がる景の質は変わっちゃう。
ってなると、そもそもの能「力」の限界って話にもなるし、読んでるそのときの体「力」しだいってな場合にもなるじゃないですか。
想像「力」を費やしもらって、ことが起こる読書ってのは。しばしば。
観劇は、この「力」をある程度 壇上のひとたちが代行してくれるというか。あんまり負荷がなくなる。
食べやすく、ものを思わせやすく、してくれる。
って点で娯楽。
観劇してると、場所は絶対にその「場所」で、脚立が置いてあり、そこの前で言葉を発してる人物がいれば、それはそこに「在る」し「いる」なんだが、この「在る」と「いる」をそのまま見せる、って本当に強いんだなと思った。
だからみんな演劇をするし、観劇をするのか。
今めっちゃアホな当たり前のことを書いてるかもしれない。
不動産屋さんが「苑子さんはどういう家族がいいんですか」みたいに言う場面がたしかあって(茜と彼氏の場面だったかもしれない、ごっちゃになってて申し訳ない)、そのときって二人の立ち位置が離れてるんですよね。
で、立ち位置を詰めないまま、「苑子さんは、どういう家族がいいんですか?」みたいに聞く。
あごを突き出したり。声を張ったりして。遠くにいる人にそうするようにね。
でも実生活だとこんなことしないじゃないですか。
そんなことしたら、かなり青春っぽくなる。
青春っぽい時期にはそれをしたっていいのかもだけど、見てる自分の年齢はそうするのに本当そぐわないし、苑子と不動産の人も、実際にこの世にいるああいう人たちだったら、もっと距離を詰めて同じ発言をしあってると思うんですね。
でも壇上だと、この「離れた場所から声を張って訊く」という嘘が許される。
許されるどころか、嬉しい。自分で思い出して書いててびっくりしたけど、ここ、そこまでは決定的なシーンや発言内容ではないんですよね。(家族のありかた、についての質問だからテーマに近接した台詞ではあるんだけど、そのあとにくる、実際的なやりとりにさらに強さを持ったシーンやセリフがこの話にはあるし)
でも、そういう、壇上に在る嘘が嬉しい。
この嬉しさを味わいたいなら、そりゃあもう観劇するしかないよな。
だから観劇する人って観劇するのかな。
「三ノ輪の三姉妹」、またみたくなってるもんな。
「三ノ輪の三姉妹」、すごい良かった。
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劇が終わったあと、苑子に葉月に茜 みきこさん、って役名で言えるのは初めてかもしれない。みきえさんだったかもしれないけど。心に住みつかれた感じ。あの人たちはこれからどうしていくんだろう。
苑子で言うと、茜が良い服でバッティングセンターに行って球を打つ場面のとき、脚立のところから「ずいぶん分かりやすいことをしますね。」だったかを言うところがあるんだけど、でも実際のバッティングセンターだとあんなところに脚立は無いわけで、このあたりの超現実的なイメージと冨岡さんの鉄っぽい高さの声でこの台詞が言われるときの光のあたり具合とか、すごく冷えててよかった。
そのうえでそれは、これまで劇を見てきててどんな人間かこっちは知ってる苑子のチャーミングさに掛け算された「冷えた味わい」なわけだから、そこにいるそういう人、にちゃんと見えてるし。すごい。
病気のみきこさんの、ベッドの床に脱がれてるスリッパの「ハ」の字の開きかたのざっくり感が、マジでみきこさんの人間のざっくり感と一致してて、でもそのみきこさんはここからだんだんと弱っていくわけで、この「ハ」とかを、文章じゃなく壇上だと〈ただ置いておける〉じゃないですか。「誰々は、床のスリッパに目を落とした。」みたいに説明なんかしなくても。
これがすごいと思う。うん。
で このスリッパの「ハ」の開き具合が病状の進行とともにどんどん角度が大人しくなっていってですね……。でも最後まで「ハ」の字は「ハ」の字で…
この感じで、「お母さんは最後までお母さんだった」を言葉で言わないで〈そこに在らせてる〉わけで、あー、ほんとすごかった。
葉月もすごかったな。
植木屋にたどり着くまでの葉月を回想した、清掃業や飲食業でうまくいかなかった場面がぶつ切りで見せられるところがあるんだけど、このときの〈肩の上がりぐあい〉って言うんですか? なんだろうねあの、「いる」だけで疲れていきそうな姿勢。あれほんとうに完璧だと思う。
自分もこれ系の仕事ほんとにだめで、「学生のころ、スポーツ系の部活をしとけばよかったのかな」(たぶんそういうところでゲットできる「働きやすさに必要な体の軽さ」なんじゃないかと思うので)、って今でも人生についてこられてる葛藤なんですけど、この葛藤が消えない人間って、あれくらいの〈肩の上がりぐあい〉だし、ああいう「速さ」が求められる職場って本当に、場にハマらない限り、労働中は自尊心が削られていく一方なんですよ。
でも植木屋にハマったあとの〈肩のあがりぐあい〉から、見てて不安が無くなる。
なんか、ちゃんとやってくれる人には見える。
ハマる職を見つけれてよかった。の一方で、今度は〈この職にいる意固地な人〉にも見える。でも、親方が決めたプランとかをこっそり現実的なものに変更したりはしててね。最後パーマなんか当てさせなくても(当てさせてくれても嬉しかったけど)、この話においての葉月はあそこで一つの人生の成就を見たんだと思う。母さん問題だけが解決を見ない。でも、もう亡くなっちゃうからって解決するようなことでもないし… ってな成就しすぎない塩梅ね。うん。
葉月めっちゃいいよ。口がちょっと赤(あけ)ぇのとかも発明だと思う。かわいいし。いいラップしそう。しないと思うけど。苑子の怒るシーンもよかったな。MOL53みたいで。ちがうものを連想しだしてるから書いてて疲れてきたんだろうな。でもすごいよかった。
「茜がなんでそんな葉月を煙たがるのか」と「母さんはどうして父さんを好きじゃなくなったか」のところが、いったん、こっちの胸には理解とし落ちてこなかったんだけど、まぁこのあたりは、それぞれで、「人間ひとりひとりの、ほんとうのところは誰にも理解してもらえない心のゾーン」みたいなものとして延々 記憶に持ち続けろよ……と宿題化する感じなのかな。
この世の全員に優しくて、でもウサギ殺してる人とか、この世にはいると思うし。この劇にそういう人が出てたってことではないよ。でも、なんかそんな感じ。
「人間わからない」系の考え事のときに必ずでてくる、優しいのにウサギ殺す人、ってのが自分の中にはいる。
「お母さんがどうしてお父さんを好きでなくなったか」が、言われてることの意味としてはわかるうえで、こっちの心に入って、は来なかったのが、劇中でたぶんほとんど唯一ここの語りが「言葉だけ」で言われてることだったからなのかも。
一応その前に、葉月を苦しめた社会の他人、として、父がしてきたことの同景(どうけい)が客席には見せられてはいるんだけど、「お父さんはね、実はね、」って語りはどうしたって言葉、のことに終始してるから、「ん?」となる体力がこっちにも出来てきて、判断にも辛(から)くなるってことなのかも。でもあそこだけやっぱりどうしても、バズって流れてくるツイートみたいだったよな。
夫がこうで愛せなかった、みたいな。言葉だけ、だとゲットできない強さに迫力に説得力がある。難しいんだと思う。
公開期間が終わったらこの人たちを見れなくなるのか。それがさみしいですね。
あの三姉妹やあの町の人は、公演が打たれるかぎりこの世に現れてくれるけど、演じられないかぎりどこにもいなくて、すごいそれが切ない。でもそれがすごいきもちいい。なんか。
短歌でいうと、たまたま小田原の歌がある。
おもしろかった。ギャグも。
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「一人の人がこの世からいなくなるというのは、関係した人をこういうところまで連れていってしまうということなんだな」という、『血の轍』にかつて持ったことがある感想に向かって、違う登山口から、同じ頂上へ、辿り着かされたような体感がありました。
林由美香はチャーミングな人だ。
こんな人にこちらから差し出せる良いものなんか、ほとんど無いという気にさせられる。
チャーミングでありながら、常にイライラしているようにも見えることへ気まずさ、があるのはそんな無力感のせいだと思う。
【男ってダサい】としてどう・何を・そこに積んでって、そんなにはダサくなくなれるのか
あるいは
どう、ダサいまま、へんな形の命になっていって
関わる人たちに、「もうあいつはしょうがないよ」的に諦めてもらえるのか
みたいな考えに心が延々へばりつかれる。
林由美香のお母さんが慟哭するシーンが本当に怖い。
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いろんな人間が入れ替わり立ち替わりで出てきて「あの人は天才だった」を言う本にはセラピー効果がある
けどこの気持ちよさは「あの人」のいなさ・戻ってこなさを絶対に呼んでくるので、じわっと元気がなくなっていって、でも眠れる感じ
「敗戦教官芥川龍之介」がおもしろくて朗読までした
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ひとつ、竹書房の怪談本みたいな終わり方の話があってそれが好きだった。雨宮まみ(さん)の書かれてないことってまだザクザクと出てくるんですね
棺桶とキスの話、
死んだ後の笑い声
「忘れたころに誰かが笑ってる」だけが、この世の外、の場所に立てると思う
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笑った。
今のところ最後のキングオブコント決勝……のネタ中にスクリーンへ【紙幣を持っている嶋佐】が映ったときから、この人たちのネタへの信頼感を回復できていない。
「ヤクザ」や「シェアハウス」や「ストリートミュージシャン」だったときを勝手にこの人たちの基準としてしまうと、どうも時折アップされる新しいネタに喜べないのはもうしょうがない。
「吾郎ちゃん」のネタをこの世に生み出してから「つよぽん」のネタを作るまでもちょっと、味しめたっぽい早すぎさがあると思うし、週一のニューラジオの途中にはさまれる単独ライブ映像を配信するのの宣伝動画の途中の副音声で「仲居くんが来たので逃げそうになった」ということを毎週連呼してるとかも、今のこの人たちにとってのネタの流れていく場所や、流れていきかたってこういう俗っぽい後日譚に繋がっていくような感じなんだな~~と思わせて、それが、ネタへの期待感の低さが低いまま安定してる理由なんじゃないか。
本人たちがときどき言う、「後輩たちにナメられたくないから単独ライブはする」という発言も、向いてる方向そっちなんだ、と思ってしまうのでそんなこと言うのやめたらいいのに……と思う。
お笑いを頑張る自分たちをそのまま出すことへの照れ、がこういう見せ方を選んでしまう、というのはわかるしシャイな人は好きだ。信じてしまうし、そうだよね、ほんとうはね、と何回でも思う。
あと、「NATURAL」があんまりおもしろくなかったのもある。
ニューヨークのネタを今度会場で観る。
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おもしろかった。
この世から持ち帰る嫌気って、大部分がおじさんによってもたらされる嫌気だし、自分も引き続き気をつけていきたいんだけど、こういうファニーな描かれ方は【こういう見え方】がこの世のおじさんたちに対して与えられるということなので、「そうはいってもファニーなところもおじさんにはあるよな」みたいに、この世を歩いてるあいだそう思えるチャンネルを増やしてくれるわけですね。
持ち帰る嫌気にも、じゃっかん違う成分が混ざるんじゃないか。
これが2013年ごろの本で、あの時代からくらべるともっと、ここに描かれてるおじさんなんかもでも、もっと愛せないささくれ方にせっぱつまり方をしてるかもしれない、みたいなことは思った。
嫌なおじさんが書かれてる箇所が二つある。二人とも沖縄のおじさんだったことに、そうかー……となった。
でもこのくらいのおじさんを引いてしまう最悪な日も絶対にあるしわかる。
冬の駅でソフトクリームをたべてるおじさんの絵がほんとうにかわいかった。それ以外のおじさんも。
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関寧花さんの、映画『ピンポン』でのあの一言についての文章。好きな映画なのに、思ったこともないことが書かれてておもしろかった。
復帰→復活→覚醒後のペコの強さの一方で、その間のスマイルにも、競技人として突き詰まっててもらわないと、最終戦での「到達感」みたいなのが薄まるのか。という文旨だと読んだ。
決勝戦の、試合としてのそもそもの質、的なことを自分が思わずに済んでたのは(対チャイナ戦・対ドラゴン戦はむしろ「そこ」を観てたのに)、自分が、「遊び」を最上のものと考えたい夢があるからだと思う。
夢。
それか癖(くせ)。
二人が二人のやり方で卓球を突き詰めた最後に、才能や身体能力や技術の駆け引きを越えて〈そういうことじゃなくなる〉瞬間、もしかしたら初めて卓球が楽しかったいつかの二人の瞬間に、決勝戦という場で至れる……ってのを自分はハッピーエンドだと思いたいから、スマイルの客観的な実力、みたいなことが関さんの文章で初めて思うくらいには思考のブランク部分にあった……
でも確かに(「確かに」って、関さんの元文章がそういうことを書いてるかはきちんと言えないけど)、〈そういうことじゃなくなる〉を決勝のスマイル戦で見ようとする前に、その直前のドラゴン戦が〈そういうことじゃなくなる〉試合なんですよね。役割と機能と期待されてる効果がスマイル戦のそれとカブってると、単に映画の中で蛇足の反復が行われてることになる。
風間「うるせぇ!」
猫田「笑っとったぞ、今」
は胸が締め付けられるくらいに良いシーンだもんな。
これは風間にもハッピーエンドを与えてる映画でもある。
ドラゴンvsペコ戦の〈そういうことじゃなくなる〉に加えて、もう一味(ひとあじ)くらいを想像できつつ決勝戦のスマイルvsペコを観れたとき、自分は『ピンポン』を関さんのように完全体で観たこと、になるのかもしれない、と思った。
たぶんそれには、ペコばっかりを観るように、スマイルばっかりを観つつ『ピンポン』を観る必要がある。
ペコがゲームセンターにいたときスマイルは何をしていたのか。
努力、訓練、鍛錬、の象徴としての「走りこむ」が、ペコの場合だと〈映像でみたときにおもしろい見栄えである〉階段で、スマイルは〈なにもおもしろみのない〉圧倒的な長距離、みたいな対比も知らず知らずに敷かれてある喩なんだと思った。
ペコじゃない人間だからスマイルは夜の歩道を走る。ペコはペコなので、階段という「天」に向かって走る。
まだまだ、鑑賞に似合う季節の真っ最中であることに気づいた。
自分は『ピンポン』、どこかの夜でまた観てるだろう。
早朝でもいいな。
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なにかを食べながら観れない映画
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黄色いトレーナーの赤いキャップのときの兄ちゃん、いい音楽しそうですよね。カクバリズムとかにいそうな。
6分くらいある、ルーズな曲のトレモロでフロアをうっとりさせてそう
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平山さんのトークイベント&サイン会に行きたくて買った。行ったけど、サインはいろいろ考えてもらわないで帰った。なんか間違ったことを言って帰ったら、自分は今世では「平山さんの目に間違いながら映った奴」になるじゃないですか。
それが芯から怖かった。
ギンティさんの文章を初めて読んだ。ぶち壊れてるテンションが、平山夢明とはまた違うぶち壊れでおもしろかった。
なんか、『近畿地方のとある場所について』みたいなことを平山さんがやってたな。
モノクロ写真のページがきたときの怖い感触とか。
『いけない』もそうだけど、本読んでて、怖がらす目的の白黒写真ページがあると嬉しいね。
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『不安の種』が人気で嬉しかった。『後遺症ラジオ』にはハマれなかったんだけど、また買ってみようかな。
春日武彦さんの文章が一番おもしろかったけど、『あのとき~』とネタが一緒だった。
怖いショートムービーと、木下さんのページで挙がってたやつを観るときのカタログとして家にあると思う。
家に怖い話って今「東京伝説」しか無くて、そういう趣味だと読んでて「そういうことじゃないんだよな」があった。でも『東京伝説』的な怖さが味わいたいなら、「実際にこの世で生きて、いろんな人間と関わってみる」とかになるかも、と思った。怪談本やフェイクドキュメンタリーじゃなく。そこに、たまにやばいやつがいる。すさんだ国になるなら、そういう人はもっと多くなる。そうなると怖がれる確率も増す。
いいし、めちゃくちゃ嫌だなあ。
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鷺ノ宮図書館のリサイクル図書にあったのですぐ持って帰ってた。図書館の除籍本で帯紙がついてるって珍しくないですか?
とんでもないタイトルだな、あらためて見てみると。
自分が「春喜と美恵子」という題の本を出すことになる未来を想像してみたら、おれどんだけこっから頑張らないといけないんだってゾッとする。
で「菊次郎とさき」はこの世にある。
というくらいまでこの世へ「北野武」は場所を得れた存在だった、みたいなことを思う。
「たけしくん、ハイ!」は大学のときに読んだ気がする。メッセンジャー黒田の幼少期のエピソードトークをたくさんするライブのタイトルが「たもつくん、ポイ!」だったことを知って、元ネタが気になって読んだ。そっちはもうちょっと視界に紗がかかったようなノスタルジーって記憶がある。こっちの本はもうちょっと、クリアに書かれてる感じ。
このくらいまで日本がまた貧しくなったら、またたけしみたいな人間が出てくるんだろうか。時代が生んだ巨人の、その「時代」の荒っぽさに感じ入る。自分だったら一秒も居られないような世界が書かれてる……
「KIKUJIRO」の章と「SAKI」の章と「北野さきさん 死去」の章があって、母親を書いた「SAKI」の章のおもしろさと、「KIKUJIRO」の章のそっけなさの違いがすごい。この差だけでかなりのところを言えてると思う…
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このツイートをしたあと、「陽気な夜まわり」がおもしろくなっていった。
書いてるあいだずっと〈マップアプリで自分が今いるところのピンが動かない〉書き回しっぷりっていうか、ドライブ感があるというか、なんでこんな、いろいろな人間と喋らせたり移動させたりをしないでそもそも文章が書き続け進められるんだ、が恐怖な作家だった。
途中、このままの書き方じゃないけど、「いや、待てよ。夜警も夜警でつらいのではないか。」みたいな、自分で自分の思ったことに怒り始めるところから圧倒的におもしろくなった。なんでこんなに怒れるし、反論できるんだよ。自分がさっきから勝手に考えてることに。
このへんも中原昌也っぽかった。
相手への反対意見を言う、形で進む漫才の黄金パターンのようなものをここで見た。反論が続いていく、を脳は見たいのかもしれない。そういうのの、実践を見た。
小説の中で移動しなくても、どの他人とも話さなくても、そもそもものを思うことで発生するグルーヴ感……についてを突き詰めてる人なのかなと思った。
次は、「映画化されてる古井由吉」を読んでみよう。
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31〜34℃の9:30〜12:00を屋外で走り回って働いたあとに食べた体でもしょっぱかった!
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図書館のリサイクル棚にあったので、お、と読む。
高校生のとき 昼ごはん代に500円をもらって、それを使わずにご飯だけ家から持っていって、定食屋さんから卵とじのカツだけかって、浮いたお金の何日かぶんで文庫本を買うのが好きだった。そのときに森博嗣とか筒井康隆とか土屋賢二と並んで、買ってた気がする。土屋賢二、今読むと「ずっと一緒じゃないか」と思うんだろうなぁ。
帯紙に、「これは私が書いた中で最高の短編集です。」みたいなことを書いてあったと思う。横で友だちが「ハードル上げてるな」と言っていた。
当時 読んだときは、限りなく透明に近いブルー・コインロッカーベイビーズのようなものを書く作者にしては淡白な書きぶりに(その2冊とも読んだことなかったのに、この2冊がジャキジャキに飛ばしていることだけはなんでか知ってたのだ、なんでだ)、よくわからなかったんだけど、約20年経って、離職も無職も納税も転居も離婚も経験した体で読むと、書いてあることのだいたいが下地にしていることも読みながら空気みたいに鼻から入ってきながら読み進めれて、そうなると本当におもしろい時間だった。離婚はしたことない。書いてる速さで嘘ついちゃった
この内容の文章がどうしてこう、読んでてうれしい時間を作るのかがわからない。これはたしかにおもしろいわ。
「空港にて」が最高の短編かはわからないけど、それぞれほんとに読んでて快楽がある。町の空中から録ってるリアルタイムな防犯カメラの映像が延々おもしろく、人々の内心まで画面下にテロップみたいに出てるとしたら、これくらい嬉しいんだと思う。そんなカメラはなくて、そう書ける村上龍がこの世には いる。
すごいぜー
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色川武大の2冊目。色川武大、おもしろいですね。
2016年〜2018年ごろに自分の周りにいた人でこの作家を好きな人がいて、そしてこの人はものすごく自分に対して攻撃的で嫌な人だったので、この未読の作家ごと遠ざけてたんだけど、おもしろいじゃないか。べつに、読んどけどばよかった。
おもしろかったんだけど、女の人の口調っていうかこの時代的なっていうのか……たとえば今なら「今日は泊まっていかないの?」と書くようなところが「今日は泊まっていかないの」「今日は泊まっていかない」というふうになっていて、これはLINEしてるときに母親から来る口調の見た目のまんまなので、こういう男女関係を書いた話のなかで出会うと一瞬 没頭できないところがあった。でもべつにこれはこっち側の都合。
年配の人って「?」を使わずに疑問文にしてくる感じある。
そして別に今も、そんなに「?」は要らないのかもしれない。花村萬月とかがすでに言ってそうなことだけど。
自分の親たちが壮年だったころにしていた、家庭生活や、もしかしたら爛れた恋愛話なんかを、100% EDになるだろうけど、聞いてみたくさえ感じた。
ラーメンズのコントで「映画はおもしろいな。映画は全部おもしろい。」というセリフが片桐にあるんだけど、そんな感じで、昔の話はぜんぶおもしろいと思う。
最近何を読んでいても「自分にもおもしろいことが書けるかもしれない」と思ってしまうので、頭がおかしいのかもしれない。
次は「狂人日記」を読む。
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おやすみプンプン 10巻〜13巻
再々々々読……くらい。
全巻を集めたあと「自分はもうこれを読んで落ち込むほど、若くないな」と思って売ったり人にあげたりする、を何回かしているけどべつにぜんぜん、これに落ち込まないようにならないな。
地元で一回、大学の図書館で一回観たときにたけしの『菊次郎の夏』を、自分はこれから毎年 夏になるたびこれを観よう、窪塚の「ピンポン」も、と思ってたけど、毎年は観れてない。おやすみプンプンはでも、夏になると読んでる気がする。三年に一回くらい。菊次郎の夏は、なんだったら図書館以来みてない。エロい人もかっこいい人も見られないからかな。
最後のシーンはみたい。思い出すだけで「達せれる」。
三好さんのこれ めっちゃ好き。
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遠野遥『AU』
遠野遥 初めて読んだ。又吉直樹に対するものくらい、今のうちなら全部読めそうだしおもしろそう、と思った。
「パラサイト 半地下の家族」でにおいを馬鹿にされる場面の陰口を、自分は主人公側になった気持ちで聞くけど、この話のセックスと交友録を読んでるあいだはそれに似た、自分がこんなふうにセックスをしたことがないことと、異性に対して淡々とできないことに落ち込むような気持ちがあった。
比べて落ち込む暇もないくらい妙なことで頭をいっぱいにしたいが(今ならLet's わたしさんの「オップスライム」というツイートはなんでおもしろいのか とか)、それだと「ここ」に適宜 戻れないくらい狂ってしまうんだろうなとも思った。
べつに、比べて落ち込めばいい。落ち込まんでもいい
セックスってあんまりできなくなったなー
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おもしろかった。「離婚」「狂人日記」も図書館予約した。
人がポンポン死んでいく。
ポンポンではないか。人が「ドツン。………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ドツン。………………………………………………………」くらいで死んでいく。
人間が死んでしまうこと、をこれくらいの重さと速さで見れる人が書くもの特有のおもしろさが満載でした。
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マネー・ザ・ギャザリング
苦しくて、わりとすぐに見るのをやめた。
鈴木おさむからLINE着信があったくらいのところ。
映画とか漫画なんかの架空の話でも、人がお金で困ってる場面が見られない。
この番組は「そういう実験」って意味で架空なわけだけど、巻き込まれる先輩や業界人とのやりとりは本当にこう動いている心の様子なわけで、そんなものまで見たいとは自分は思えなかった、ってことなのかもしれない。
街裏さんはこういうことをしてないでもおもしろい人だと思う一方、街浦さんにいろんな仕事がくることでしかいろんな街裏さんを、街裏さん自身も含め、見ることはできない。
街裏さんじたいにとっても、いろんなことが起きたほうが楽しい。たまに苦しいね。
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穂村弘 迷子手帳
通勤電車で読むものが思いつかないので、穂村弘の「迷子手帳」の二回目を読む。
おもしろい。妻の人が出てくるエッセイがぜんぶおもしろく、「仲が大変よろしいのねぇ」みたいな感想をこれらに抱く人がいるとすればそんな感想は悲しすぎる。
あきらかに、穂村さんひとりじゃ起こらないこと・出てこない言葉の総動員をこのかたが仕上げてきてるじゃないか。
書かれてあるものを読んでるってぇかは、目の前でどんどん現実が、どろどろと流れていってる、みたいな読んでての快感がある。
現実そのものみたいな、伏線もオチも作家性の手癖も踏み込めない、なにかそう目の前に書かれてるもの、の喜びがある。
穂村さんのエッセイは次の段階に入ったんじゃないか。
読んでて、関係ないおれまで嬉しくなった。
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おもしろかった。
「感電しかけた話」の短歌にこの人を嫌に思うやつを載せたことを後悔した。
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祝山(加門七海)
「近畿地方のある場所について」の鬱憤を、頼んでもいないのにかなりのところ解消してくれた。
山の名前の由来がわかるところ、評判を事前に聞いててもびっくりした。
「彼岸」に旅立ってしまったあとのあのキャラからメールが来るところいいですね。怖い。あんなの来たら固まるしかないと思う一方、恋をしてるときの自分はこれくらいの長文を0時を過ぎた変な深夜に送ってることもあるし、言ってることも飛び回ってるから、これくらい怖いかもしれない。と思って、さかのぼって自分な恐ろしくなった。
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黒い家(森田芳光・2000年)
人から、会話上のものの例えとしてめっちゃ聞く映画をやっと見れた。(訪ねていったら、「黒い家」くらい酷い目に遭う とか)
もっと「リング」「らせん」「呪怨」くらい延々と家の中の話なのかと思ったら、けっこう会社と道路だった。
出てくる人間の数がほんとうに多いと脳が「Jホラーっぽい」と思えなくなっていく、ということを知った。
「黒い家」は別にJホラーじゃないね。
ムロツヨシが怖いのってなんだっけ…
そこと混ざってる気がする。
評判どおり、西村雅彦も大竹しのぶもおそろしかった。宅配の仕事をしてるとときどきこういうお客さんを「引いてしまう」ことがある。そんな日は、昼ごはんを食べる時間が無くなるくらい、向こうに「私たちが得をするための要望の主張」に時間をとられる。
こうなるとほんとうに恐ろしい。
m-flo の、絶対に覚えられない英単語がタイトルの曲が最後に流れておもしろかった。大竹しのぶとm-floで、m-floのほうが強いことがあるなんて
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UNDER5 AWARD 2024
キャプテンバイソンの一本目がおもしろかった。
宣材写真でレオンみたいなサングラスをかけてる、平子みたいな人の居様がちょっとおもしろい。大声を出さない感じ。しっとりしてる。平子より好きだ
審査委員も果敢におどける賞レースってぜんぜん好きじゃない。
ネタ終わりのみんなが司会との「からみ」ではなく「くだり」をやるようになった頃のオールザッツ漫才くらいから、このような軽さを好まない。そんなに、おもしろいことばっかりの時間じゃなくてもおれはべつに見るのをやめないのにと思う。
いいお笑いライブってべつに「笑った回数が多かったライブ」ってわけじゃないでしょう、と思う。
ドカ盛りがいい料理の必須条件じゃないみたいな感じ。
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あちこちオードリー・金属バット&マユリカ ゲスト回
見取り図盛山と、マユリカ中谷のたとえツッコミは〈お笑い〉じゃなく〈攻撃〉に見える。「世界一なんとかな何々」とか。世界一をここで・あなたが・そうやって当たり前に決めるんだ、っていうか。それに心を動かしたくないっていうか。
この視点を共に楽しもう、ってよりは「これで客を屈服させよう」の出力としてこちらへ届く。これからがんがん売れていこうとしてる人にはしょうがない攻撃性なのか。
攻撃的じゃないものも楽しめるような年になれてよかったと思う。
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ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ (20240622 放送回)
133発連続くらいで、細かすぎて伝わらないモノマネ。市川刺身が優勝。ゲストの山下智久と満島ひかりの感想コメントごとに湧いてくる哀しさがあった。
このようではない感想を言えるわけがなさ、っていうか。
「つまらないですねー」や「下着を盗まれた過去を持つので、これを観たら嫌な気持ちになる人……のことは始めから〈お客〉からはじかれてる構造ですよね、」みたいなことを言うわけも言えるわけも放送されるわけもない、ある枠の中での「感想」、を魅力ある人の発する言葉として聞きたくなさがけっこう毎回のコメント毎にあった。
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体重を乗せた「気持ち」を言える場面も、そもそも「気持ち」にも、それぞれ限りがあるよなーみたいなことを思うと、おそろしくなってくる。
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シーシャを吸うお店に行った。
すみれワッフルという味にした。ミントとかジャスミンのほうが喉には楽しかったけど、甘いものは甘いものでハードなお香みたいなふうで目がトロンとする。
酔っぱらっていくときの自分を、たとえば同行者との雑談の中に感じた。
ノンアルコールビールで酔っ払う人もいるけど、そんなふうに「自分は今これをしてる」を自分に見せていくことで外れていく気持ちのリミットってあるけど、じゅうぶんその「今これ」、そんな場所、として機能していた。自分はリミットを外したがる奴なんだと思う。ハイチュウバーとかあって、たとえば紫色が、パナップみたいに柄として乗ってるハイチュウを食べても今日みたいになれると思う。
シーシャバーの店員さんは柔らかい喋りが印象に残りました。ディズニーランドのクルーさんっぽさの柔らかさ
やわらかさの感じで言うと、喋ってる間 この感じに片手が横腹にくっついてるアンニュイな喋りかたというか
(実際にはくっついてなかったですよ)
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少女が主人公の話ばかりである理由を訊かれ、
「男は大きな決断をする機会から徹底的に遠ざけられており、作劇上の起伏を与えられないから」
と宮﨑駿がこたえた国で奥野さんは、怖いくらいおじさんばっかり書いてくる。っていうか「見せてくる」。 読中(どっちゅう)、そんな言葉はないけど、読中(どっちゅう)、僕にはこのおじさんは作曲家の新垣さんの姿で思い浮かべられる。ちなみに別れる際、家財のあらかたを持っていく女は田畑智子で思い浮かべられている。 猪狩は酔い、トイレスリッパで帰り、ちゅうをし、女を呼び出すためのフリック入力をし、部屋で待ち、うろうろし、前回 出先で借りたタオルハンカチをディスクユニオンのビニールで女に返す。
いま並べたうちのどれかは猪狩じゃなく、自分=伊舎堂がかつてにしたことかもしれない。読んでて、このように行動が、話の「こっちとあっち」で混ざっていく。そんな感じが『女たち』にはある。
般若は、特定のこういう妖怪がいる……というわけではなく、女性に必ずストックされている表情としてこういう見た目がある、というプロパガンダ・クリーチャーらしいけど、まぁ ざっと言って3回、恋に失敗するころ 男はおじさんになる。
畢竟、恋に3度 失敗する頃 男には、猪狩の見た目とくよくよが内外へ、般若のように住みつく。
なので男のボディで『女たち』所収の各話を読むとき、「自分ならこのときこうするだろう」や「こんな時間になるまで飲んでいた自分からはこういう臭いが胴から出ているだろう」が、実際の猪狩(「実際の猪狩」?)とともに自分のなかでも起こり、それは目の前で今 書かれてもいることのように既成事実化していく。
奥野さんは、頑丈な増幅装置を見つけたということなのだろう。祝福を送る。送りまくり。田村正和における古畑任三郎。邦衛における富良野の五郎。こんなのはもう、庭から石油が出たようなものだ。書くために、モーターを回す必要がなくなる。しかしモーターを回さず書いているわけがないので、話のなかで勝手に猪狩が動いていく、ように見えていることが達成している読者空間の快適さは計り知れない。「それが、プロやねん。」と紳助の声で古田敦也が言う。
『GTO』の内山田教頭のようにかわいそうな猪狩の動向をしゃぶるように読んでいくと、あるところで、かわいそうがれない、それもさすがに気の毒だからではない、読んでて頭があたりまえに尊重している部分が出てくることに気づくだろう。それは、〈猪狩は音楽を作れる〉というゾーンだ。ここに対する作者の、不思議といじめてあげなさが読後、幽霊のように残る。褒めてもいない。しかしいじめても決して、いない。ここをいじることはしない。納期を守った猪狩を褒めない。しかしその成果物のクオリティを、作者という神の手、でボーナスタイムのように殴らない。あげつらいもしない。それが得意技の作者なのに。猪狩は曲を作ってくる。読んでいくと、曲がある。当たり前にある。ここのあたりを、奥野さんは殴らない。
もちろん、TikTokでのバズ→社会現象化 の「→」のあたりで起きたむごい事件により、猪狩の作った音楽、はその所感に対し、その後 取り返しのつかない毀損を負うかのように書かれている箇所はある。実際 かぶったペンキもあると思う。しかし、聴くものはそれでも聴く。追うものはしつこく追う。今は知らなくても、いつかにぜったい掘りおこしてくる。餓鬼みてぇな顔で。生まれて初めて読んだ本 から 2024年に 奥野紗世子『女たち』まで辿り着けた者たちは、そのしつこさを、餓鬼のような表情を、自分の顔のように知っているはずだ。「聴く人はべつに、聴く」みたいに、「読む人はべつに、読む」ということを、奥野さんは知っているのではないか。
ここにあるのは信仰だろうか。それとももっと「やめられないとまらない」的に喃語な。おもしろいものからでている引力への素朴な。礼賛だろうか。
もうおじさんな場合、おじさんは「おじさんが作った音楽」しか作れない。しかし音楽じたいはおじさんの顔をしていない。
作ったのがおじさんだから、「ところどころ恥ずかしく古い音楽」は当然ある。しかしおじさんそのもののようには絶対臭くない。〈おじさんそのもの〉から人は、クリエイティビティによってどく、ことができる。これを希望と思うのは素朴すぎるだろうか。
◯
最後の「ザボン」において、奥野さんはかつての『逃げ水は街の血潮』の二人たち、に猪狩という外部を点として追加し、自作をぐるりとした輪線(りんせん)で繋いでみせた。これによりひと段落を置いたとも見えるし、自作たち、という『女たち』を自分の過去のなかへ決定的に閉じ込めたとも言える。
……の名手、あつかいされていた本多孝好があるとき、恋愛小説を「キャリアの二周目への準備のために、いったん封印する」と宣言したとき、なんでだよーと思った。ずっと恋愛小説書いてくれよ。でも今、同じように、猪狩をずっと動かしてくれよーと言えない。
たぶん奥野さんは、ここで二周目に入った。
おれは勝手なことを言う。
◯
しっかりしろ!
⚫︎
「某」の使われかたがひとつ残らず下品だと思う
⚫︎
https://note.com/hashida_toyoya/n/n442b08da4ccb
一回 そのまま読んで、つぎにハンバート ハンバートの『虎』を聴きながら読んで、それからまた静かな中 読んだ。
こういう読みものにはすぐに飛びついてしまってごめんなさい、の気まずさがある。かなりそうとう読まされる文章だったけど「かなりそうとう読まされる」じゃねーんだよ、と横でおれのヤンキーバージョンみたいな奴に怒られる感じもある。
(そのヤンキーは、インターネットの人が好むある種の典型すぎるくらい露骨にキャラクタライズされた思慮深めさを持ってもいる)
吉田さん出演回の「堂園食堂」で連作・流砂海岸について話してる時間があって、これを書いてる今、なんかあのときの、体をこっちに向けて喋ってる動画のなかの二人の姿がある。
流砂海岸の吉田さんを思い続けるように頑張りながら「西武新宿沿線に住む」の歌や「クリスマス・ケーキが好きだといふのはガチだ」のような路線の短歌を読むとおもしろさが最大化するので、みんなもああいうときの吉田さんを読むときは、おれくらい「流砂海岸」と思うようにしててほしいなあ、という勝手な古参の人間感がある。(略歴を読むと、もっと古参な人は当然いることが直ぐにわかる。歴史を学ぶとヘタを打ちにくくなるから歴史を学ぶのはいいなとかも思う。)
で、さらに勝手な思いを重ねれば、吉田さんが「西武新宿沿線に住む」や「クリスマス・ケーキが好きだといふのはガチだ」のようなことを短歌で言ってくれる、ようになってきたことは、なんか、リンクの略歴を3回読むと言葉じゃないところで分かる気がしてくる。
2012年に短歌を始めた自分には、吉田隼人も藪内亮輔も「先にいたゴツい人」だった。
子どもの頃、自分の部屋の地球儀ではコンゴ民主共和国だった国のところが、おじいさんちの地球儀では「ザイール」と書かれていたとき、説明のできない怖さがあった。吉田さんと藪内さんを思うときの恐ろしさは、その感じとちょっと似ている。
先にやってた人は怖い。
これから来る人に負けるくらい、あの怖さと比べれば、なんだい、とさえ思う。
●
phaさんの書きものは不思議で読んだあとの時間に、
いい気分
やる気
自分にも何かができる感じ
と同時に、
落ちこみ
やる気のなさ
何もしなくてもひとまず大丈夫な感じ
を持ち帰らされる感じがある。村上春樹や橋本治やECDのそれともまた違う【自分でも何かを書くか】の気分が来る。自分でもなにか書いてる人の読んでる率がすごいんじゃないか。本は自分のために読むんだけど、そこにさらに加えられている「自分のために読んでいる」がある気がする。
の一方で、この人にはまだまだどこまでも行ってほしいな、のお布施のような気持ちで本を買っている気分もある。そんなことも中では書かれてた。
読んでて目がとろんとしてくる。
猫の話が特に。 日本はそろそろ外食が庶民のものではなくなるかもしれない、ということを書いてるところでかなしくなった。そうなってからのこともこの人は書くだろうし、その文章のことだけは楽しみだ。
自分の知ってる人全員で今してること辞めて、そのみんなで農業をやりなさいと言われて、それができたらちょっと嬉しいんじゃないかと思うことがある。
食料自給率を上げれたらもっと楽しくなるんじゃないか。
お腹が減るかもしれない、と思いながら暮らすのは本当につらいから。
⚫︎
水野しず『正直個性論』と並んで、あとがきといえば、の本に最近ではなった。
脇川飛鳥さんが短歌をまとめた冊子。短歌については、いつか評したくなったときにドバドバ言うと思う。「この人は元気がよいな」とこっちでかってに思ってた人の短歌が数でまとまるとこう言う静けさを得ることあるよね。谷川由里子「サワーマッシュ」とか。絹川柊佳「短歌になりたい」とか。
読んで寝て、朝 出勤するまえにまた座って「あとがき」→ P65 →他の短歌もちょっと、って感じで読んだ。
P65、 ここまで〈短歌に副音声がついてる〉みたいな効果をあげてる一文は無いんじゃないか。
ちょっと、似てるものも思い出せない。ここばっかり思い出してる。
こういうふうのものを読んだあとで、それでも何かを言っていくことの不潔さ、みたいなものさしが自分に増えるでしょう、こういうものを読むと。その後にできるのは、それを無視するか利用するか。
ああ……。
『ソラニン』で芽衣子が「種田ぁ…… これって別れの曲じゃん?」って言ってたなー。
時間がたくさん過ぎたねー、とただただ思う。
ちょっと後悔にもこれは似てる。
⚫︎
◯フジファブリック 「ベースボールは終わらない」
詞は「ベースボールは終わらないよ」なのに、乗ってるメロディは<試合が佳境にさしかかったよ>みたいな気持ちになれる鳴りをしてて、音楽はこういうことができるんだなと驚く
佳境も平坦も含んだ日常の永遠性、でも終わる、みたいな青春性に、確実に手が届いてる名曲だと思う
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未成年の自分が3月に、「きみの新学期はすばらしいものになるよ」と無根拠に断言されてるような気持ちになってくる曲
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大学の後輩がこの人のファンで、何かを嗅ぐ話のとき必ず「くんかくんか」と言ってたのを思い出したくなく、知ってる歌もある、自分では聴かない、な人だったんだけど移動中に楽しくなって聴いてみたら凄かった
曲を思いつけたときの人、両方の穴から鼻血が出てたんじゃないか
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学生ぶりに聴いたら、記憶よりもう一段階声が高くなるので笑けてくる
これだけ、上手(じょうず)さをブン回してるみたいな歌声だと安心して頭をあほにできるので、恥ずかしいことをバンバン思える。顔が美しい男に生まれて、雪の中で死んでいく気分になれる
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無い映画のエンディング曲みたいに聞こえたあと、その映画のことまで好きになる曲
ボートで「ザコ 2人組」みたいに逃げる場面で終わりそう
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リコーダーの音と草原が浮かぶけど鳴ってないし、詞にも出てこないのに浮かぶ
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かっこいい 勇ましい
黒い服の15人くらいで歩いてる気分になれる
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この世に一人も知り合いがいなくなった気持ちになれる
石畳の町を早朝に歩いてる自分を空中から見てる感じ
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ある種のバンドサウンドには、「この人たちはも
しかして〈いつか死んでしまうということ〉をこういう詞で・こう鳴らすことで・言おうとしてるんじゃないか」と思えてくるものがある。
曲の外側が消え、ひたすら「今」に責められるような空気感のあと、爆発的な開放感が来る。
⚫︎
ブッチャーズの「7月」とかにも感じる。
自分はこれを、人が生まれてから死ぬまでのことが言われてる曲だと思ってる
⚫︎
三月から読んでて、ようやく読み終えた。(5/25)
一回 北海道旅行にも持っていってた。ずっといらいらしてるトーンの人が語り手なので、これと『六〇〇〇度の愛』(鹿島田真希)を並行で読んでるときはどっちがどっちが分からなくなる瞬間があった。
仕事から帰ってきての娯楽勝負だと、YouTubeや間食やTVerや好きな本の再読にこういう話は引けを取る。でも、こっちのほうの時間しか体に残していかないものは絶対にあるんだよな。
読んでよかった。
最後の30ページくらいまで本当にきつかった。
最後の30ページくらいがほんとうによくなる。
美文、 なんて言いたくなる。
美(び)ではないのか。
でも、この話を立ち去りがたくなった。
一人の人間の思考をそのまま延々、ドン、みたいな書かれ方だと、途中はどうしても「こいついつまでおれん家いるんだろう」的うっとうしさを通るのは避けられないのかもしれない。
でも最後30ページの間「もうお別れか、」みたいになる。
途中まで→おしまい の劇的な読み味変化は、染野太朗『初恋』とけっこう似てる。
まぁでも、夏前に読み終えれてよかった。みたいな謎の「まぁでも」がある。266ページがいい、
ここから一気に終わっていった。
⚫︎
いろんな温泉漫画が入ってるアンソロジー。上村一夫と湯けむりスナイパーシリーズを他に読みたくなった。
「女の人が一人客だと自殺か殺人かが起こる」話ばっかりになっていくまでが意外と早い。つげ義春の、猿がかわいそうな話はやっぱり他の作家の温泉漫画と併せて読んでもおもしろいが負けてないと思う。
「プリンセス・メゾン」ってこれのことなのか、を気づいてなくて初めて読んでいた。『ラジおもち』で冨岡さんか上牧さんが良いと言っていた。
ベッドに浴衣で寝てる絵のコマのベッドの広さと「く」の字の人間の小ささが、こっちの体調しだいでは泣けそうだ。
⚫︎
「アンバランス」のシングルにカップリングで入ってる『サヨナラサヨナラ(イーゼ)』とシングル版のサヨナラサヨナラ、アルバム『magic number』版のサヨナサヨナラって全部違うんだけど、
アンバランス版のサヨナサヨナラはすごいことを久々に頭が思い出した。
これ、アンサーとまでは言えないかもだけどギドラに言われた件でこの人らを発奮させたんじゃないか、って思いたくなるくらいなんか熱量がすごい
なにかが尋常じゃない。
⚫︎
「熱帯夜」はイルマリがすごくて、
【かなり甘美なムードに夢うつつ 既に酔ったみたい乱れつつ】の「つっつ」の、もったり感で油断させといて
↓
【「レッ」スンで運ぶ「手」順なんて無視して夢中でI want you】、のつんのめり感に繋いで聴こえをスリリングに変えて
↓
【もう元に戻れないぜ二人のまれ 町中熱く染まるファンファーレ響くぜ】の「のまれ」⌒「ファンファーレ」のハネ感のドラマチックさがほんとうにすごい。
自分はこれまでの人生でどれだけの色男でダテ男だったか、というのをフロウと展開で納得させてくるようなリリックだと思う。
イルマリって、サクッと稼いだお金で遊んでる人間の色気も、一文無しなんでその晩の代を人に出してもらってるのになんか空気が成立してる奴の色気、 両方があるからおそろしい。
エロい場面や扇情的な言葉の詞が並ぶ一方で、自分は〈水着姿でエロい女性〉みたいなイメージを全く思い浮かべないでこれを聴いている、ことに愛聴歴16年くらいで初めて気づいた。
ラップ < セックスな瞬間がこの人たちには当然あるうえで、そんな表現情動の源泉と方向性が彼らにこの曲を作らせたんだとはいえ、セックスよりも〈それをラップすること〉にこの人たちは淫している、という喜びがラップじたいのうねりから伝わってくる。だからこれはエロの曲ですらないと思う。そして同時に、めちゃくちゃエロさを含んで一曲になっている〈聞こえ〉で満ちている。
febbのインタビューの「エロい曲を作りたいんですよね」とかも思い出す。
もしかして、この感覚のことを言ってるんだろうか。
⚫︎
最近では一番 考えながら読んだ文章のかたまりだった。
考えながら読むのは当たり前じゃないか、なんだけど、趣味が本読みだと、考えないでも体には入れれてしまう読書に文章というのがあって、というかそこばっかり選って読んでる時期に突入してたり僕はするので、特に具体的な話の羅列、だと「考える」をすっ飛ばして食っていけることがあるから、脳に入れる必要・・・・・・がある文章だし考えかただしこの本に水野さんがかけてる元手(もとで)、という感慨を持ちました。
そんなふうに言われていることを脳に運んで、積んで積んで積んで、としてたら137ページに
という一節が出てきて、ここでもうやばかった。
それまで積んだ時間にありがとう、くらいの破裂で笑ってた。「実力」が、音で、「じつりょく」というおもしろい声で聞こえた。音としておもしろいんですね、「実力」って。M-1・2010のスリムクラブの漫才の決め所にありそうなワードだ。ほんとうにおもしろかった。年配の人が、人格者のことを「あいつは、人物だよ」というふうに言ったりするけど、実力(じつりょく)は人物(じんぶつ)くらい音として意味としておもしろいんだなと思った。
『親切人間論』もさかのぼって読みたくなった。あとがきもすごい。
瀬戸夏子さんとか斉藤斎藤さんとかで受けたことがある「自分はいま読んでいいものを読んでるんだろうか」のわくわくがあった。
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NIPPSがかっこいい時みたいな喜びが読んでてある。
https://youtu.be/9F0B-DEQWK0?si=Ru7chKpjdpwJnO3U
家で7度のお酒を飲んでたら、山下さんのことを思い出した。
おもしろいことを言っていた人の死への落ち込みって直後にはなくて(言った「おもしろいこと」はこの世に引き続きあるから)、なんかへんな間があって「あぁ、」的に不在感がくる。
立川での「かばん」の吟行で、一度だけお会いできた。
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