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いろいろな感想

ちょっと合わなかったお笑いの感想のみ、有料ゾーンに置かしてもらってます。

ライアーライアーくらい長かった



ずっとアスファルトが濡れてる感じっていうか、夜の町の空気感が好きだった 



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たしかに「川のほとりで」はすごかった。

でも晩節のこの人は、自分は戦争に行かないで良い立場がゆえの発言だし露悪だよなーって感じがぬぐえない。「こっちはほんとうに戦争で死にたくないんだよ」の不安があると、いい気なもんだ、となってしまう。

この人しか言ってないようなこともやってないような技もたくさんある人なんだと思うけど。好きな掌編もほんとに多いし。

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ドラゴンボールもジョジョもスラムダンクもちゃんとはあんまり読んでない、と話す城戸さんが「脳噛ネウロとデスノートは読んでる」と言ったら「なんじゃそいつ」と平さんに言われてるところがおもしろかった。

大学の文芸科で一年のときに知り合った、「娯楽コンテンツを話題にするとたくさん喋れる」を気づいてからめきめき仲良くなれた子と漫画の通りかたが似てる。その人もバトルものスポーツものを通ってなくて、ドーピングコンソメスープとか言ってた気がする。ジャガーのピヨ彦があぁでこうで、みたいなことを話してくれた気もする。

家に行ったら、たけしの「みんな〜 やってるか」を見せてきた。VHSで。ジョンポリスのラジオがアップロードされてると嬉しい。

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おもしろかった。3回観た。
高校の時とかにみてたら、売れなくてもいいから(むしろ売れないことで布川さんのようにかっこよくなれるかもしれないから)、売れないお笑い芸人を10年くらいやってみたいと思ったかもしれない。〈そんなには依頼がない短歌の人を12年でこの情っけなさ〉を知ってる自分は口が裂けてももうそんなことを言えないから、過去の自分に思わせかけるのまでがギリだけど。

最後もよかった。

なんかこれと似てる時間が別の30分トークでもあったな、と思い出してたらガリットチュウの回で熊谷さんが屋敷がまだ喋る前に「そうそう!」と言って「おれまだ喋ってないですよ」のところとか、「おい、おい。おしっこしろ」のところとかに似てるんだと思った。

お笑いの人らが喋ってるときって、ほんとうにすごい時間があったりする。

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「渚にまつわるエトセトラ」を歌い出す嶋佐の時間がほんとにいい。

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死んだあとの吉良吉影の話があるとWikipediaで読んだので、どんなか知りたかった。

おもしろかったけどやっぱりジョジョ読みたくなるね、

藤本玲未さんの散文を思い出す表紙

セブンの棚で目次を見てたら「本当に無料(タダ)で乗れます」(桂修司)という題がすばぬけて怖くて、買う。話をとじて終わり、じゃなく〈凍る〉要素はこれを読んでる世界にあるから、鈍く切られた気持ちが残った。


借りて読んですみません、
特に面識ないけどなんかそう思ってしまう作者。
思えばこだまさんの本でこだまさんにお金がいく読み方をした本って「夫のちんぽが入らない」だけだ。「メルヘンを追って」は都立図書館のクイックジャパンで読んだし、

転んでジャリに頬から倒れるところの文章が本当に怖かった。
命があってよかった。

なにがなんでもウケてやろう、みたいな書く姿勢とは変わったので自分の今後の文章は以前のようにはおもしろくないかもしれない、というところで枡野浩一さんが たしか「淋しいのはお前だけじゃな」に自作【だれからも愛されないということの自由気ままを誇りつつ咲け (『てのりくじら』)】について触れて書いてた文章を思い出した。

その枡野さんが、『夫のちんぽ~』を読んだ感想で「自分がいちばん読みたかったようなところが薄かった」というようなこと書いてた渋澤怜さんのnoteに「極端な話、自分が本当に読みたいようなことは自分で書くしかないかもしれない」と感想を言っていたのも思い出した。

「これを書けば読者は笑うよな、ということを書くのにうんざりしてきた」と俳優活動がここから本格化していく頃くらいのリリーフランキーが言ってたことも思い出した。


これって絶版だったのか。本当におもしろかった。久々に、中断を入れずに本を読んだ。
三島由紀夫は「永すぎた春」だけ読んだことがある。仮面の告白、読もうかな。

写真はマナー悪いかも。怒られたら直します。

福島次郎さんの『バスタオル』で魅力に感じた要素はこういう、この人のものの感じ方だった気がする。通用する書き方、表現としての立ち方、みたいなのの萌芽がこういう場面にあったのじゃないか、と思うとこみあげるものがあった。
おもしろいなー

このツッコミ気質と、作者が性愛に積極的には踏み出せなかった感じ、はつながってるのじゃないか。

醒めた目が常にあると、おもしろいことは言えても官能にたどり着けない・・・というか「醒めたままおもしろいことを言う」の中で官能を得ようとしてしまう、っていうか。

福島次郎、他のも読もう

映画ではこうなってたのか、が最後の方にあった。

小説では、漫画家の子が実は●●●●だったところで終わってたけど、映画ではそこから先のダラッとした、セックス後みたいにだれも喋らない時間があって、サトエリに対しての救いの時間を置いてあげようとしてるのかな、と思った。

でも兄貴はサトエリのせいで最後ああなったわけだし、〈最後の最後に姉妹にも、分かり合える点と点ができた〉みたいな広さの話ではなくなってるように感じた。自分は、兄貴がああなったことを忘れれるくらいの最後の何分間かが欲しかったのかもしれない。

扇風機が回り出すところで鳴る音楽が、スーパードンキーコングシリーズの洞窟の面で聴けるみたいな曲だった。

畳の部屋の〈日光は当たってるのに寒そうさ〉の質感が「ヒメアノ~ル」に似てた。


蓮實重彦が自分の書簡パートで、クラス会に行った話のあと「我々は、幼稚園の頃に一緒だった人間でのクラス会を30年続けているグロテスクな世代」と書いてたところが面白かった。


すごいいい。ほんとすごいいい。

一生持ってて、運よく80歳くらいまで生きれたらそのときにも読んで、自分がどう思うかまで試したい。

「自転車屋」が好きだった。

話を立ち上げて→進めて→ここで終わり、の「ここ」で、話のあそこに出てきたセリフや情景をもう一度読者に見せる、って終わり方がどの話も鮮やかだった。

時間かけて、もしかしたらそれなりの大変な思いをして描いた漫画をこう終われることの思いきりの良さ、みたいなのに胸を打たれる。描いてる側としては「いやあ、そんなに大変ではないんですよ」みたいなノリなのかもだけど。

建てて、建てて、建った家を→ピンクで塗る みたいな。
あらっ?となる。

つげ義春作品と安西水丸作品の違いを考える。「テッテ的」的、なかわいい言葉、みたいなのは「モウチョウ炎」みたいな形で安西作品にもあるし。同じくらいセックスを描くし。なのに、漫画を思い出すときのかわいげと気持ちの良さが違う。つげ義春の「じとっ……」に対し安西水丸の、風の「ヒュ~……」というか。

武蔵野が舞台か千葉が舞台かみたいな話なのかな。
マジで金がないときにも読めるのがつげ義春で、残高に30万円以上あるときに初めてメロウに楽しめる安西水丸って感じ。今30万ないからなー。

血の轍の最終巻を読む。

国家は殺人を、結局のところは、国家が立ちゆかなくなるのを防ぐために禁じていると思うとケッとなるけど、これを読んだあとだと人が人を亡き者にするというのは〈ここまで行く〉ということだからだめなんだよ、とも思えるような気がした。

あの人がまた出てきてくれてよかった。

最後の写真のおかげで道尾秀介「いけない」みたいな後味を得てる。



ケンドーコバヤシがドラえもんの話をしてる時間からしか得られない幸せがある

連作短編。体感で、30話くらいあった。

「一日にそんなたくさん読めない」みたいな書き圧(あつ)なので、読める日に一編だけ読むみたいな楽しみ方でいくことにしたら、読み終わるのにまる1年かかった。でも、一つも飛ばさないで読んでよかったと思う。
最後の表題作がすごくて、それはとばさないで読んだことにより味わえたもの。ほんとうにひどい話。

『或るろくでなしの死』最後の「或るからっぽの死」とか、『他人事』の「虎の肉球は消音器(サイレンサー)」もそうだけど、平山夢明の短編集の最後の話の 静かに涼しく嫌になるかんじがいい


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この曲が好きだった。

BAD HOPのメンバーが話してた「内なるJ」という概念が好きなんだけど、


これは内なるJなんじゃないか?ってなテイストに感じた。使えるものは全部使った、と受け取ると熱い気持ちになる。


「死刑執行人の死」が読みたくて図書館で横断取り寄せ。

●●での伏字のあと(*編集部4文字削除)とかあって、かつての本ってすごいなと思った。


たきうえ そいつどいつ・松本の時間がおもしろかった。

埼玉で大学の先輩とルームシェアをしていたとき、ロンドンハーツでフルーツポンチ村上がいじられてた回を一緒に見てたら「こいつ、自分のこと好きすぎるんじゃね」と横でその先輩が呟いてたんだけど、たきうえさんの時間でそのときのことを思い出した。
「この人はみんなに好かれないだろうな」という気持ちが、自分の見る集中力を上げてくれる力学っていうか。

「才能がある人間はがんがん子供を残してもいい」って考えはほんとうに危ないと思う。

ぼくを葬る
アタメ 私をしばって!
メタルヘッド
サイドウェイ
ラブ・アゲイン
CODE46
バタフライキス
モーヴァン
花とアリス
鳩の翼
ガルシアの首
マリーゴールド・ホテルで会いましょう
ハロルドとモード/少年は虹を渡る

を観たくなった。

図書館で借りて読んだんだけど、最初の「女」の章で「二人が魅力的に感じる女性は、そのお話のなかでは悪女として扱われていたり、男に依存してなかったりするわね」「そういうのに憧れる」みたいなまとめかたのされてるページに鼻くそが貼り付けてあって、ほんとうによくないことすぎて大笑いしてしまった

最悪な男ならではの行動すぎる


サスペンダーズのネタおもしろかった。またどこかでも見たい。

裏テーマとして、「このキャラを小松海佑っぽく動かし、喋らせ、考えさせる」があったのじゃないか。すごくおもしろかったし、こういうのを見たいと思っている人が多いのが「今」なんじゃないか、と お客席の笑い声の熱で感じた。小松さんより先にサスペンダーズのこのネタが世に出た(賞レースの決勝なんかでテレビに出た)場合、それは、ここから挙がる名前の全員は優れているというのを前提ですけど、どついたるねんより先にネイチャーデンジャーギャングが有名になるみたいな、アンタッチャブル山崎のキャラより先に有田のキャラが世に出るみたいな、𠮷田恭大「光と私語」より先に千種創一「砂丘律」が出るみたいな、「あんまりは起きないほうがいいこと」の悲劇性を帯びるけど。

サスペンダーズの古川さんがそのネタの一言目に喋ることってだいたいおもしろい。「その論文のタイトル」みたいになってる。聞く耳、を持っていかれる。

現実の社交の場でも、SNS空間でもいいけど、そこに人がたくさんいる、とき、その場の「メタ」の位置に立ちたい……みたいな欲望から自分は逃げたい。もっとこの世に対し気前がよくなりたい。こんなnoteがあるのもその気まずさから。

いいね という「関与する」じゃなくブックマークして「監視する」という世界へのかかわり方がある。

自分としてはもっと気前よくなりたい。それをすることで生じる体温みたいなのとか、自分がこう思われたいってなキャラ構築のジャマ要素になるとか、本人に厚意が届いてしまう照れみたいなもんもあるとして、そこは「いいね」しとかないと、この世にいいものって増えないんじゃないか。

ママタルトのヒワラさんというかたのピンネタは、そのあたり、ピンネタだからってのもあるけど、ある種のコンビネタがどんなにおもしろかろうがどうしても後味に含む「みんなで変なこいつを見て、ああだこうだ言おうぜ」のいやさを回避したうえでおもしろく(ピンの人のネタでは全然これが起きない)、本人もそう言うネタだったけど見え方が「やさしい」。あと声すっごいおもしろいなこの人。聞くよ聞くよ、聞かせて聞かせて、となる声。

シーツのお題の時に一瞬 MCを代わる永田敬介さんの時間と居様(いざま)がキュートでしかたなかった。おもしろい、に加えて「見てて嬉しい」を持ってる人っていいな。矢野さんはほんとうにいい場を作り上げたんじゃないだろうか。「だろうか」って言い方もなんだが。

出囃子にラブサイケデリコが鳴ったとき大阪の劇場で「憂鬱なるスパイダー」をかけてたときと変わってなくて嬉しくなった。


三鷹・りんてん舎さん

横断歩道の信号が何回もかわった

みたあと自転車で駅から帰るとき「芝浜」も聴きながら帰った。
髪染めてる立川談志の回のやつ。

「枯れ葉」と「芝浜」を見た夜なのにお酒を飲んでしまったので自分にもアル中の素質があると落ち込む。 

「枯れ葉」と「芝浜」を見た夜くらいお酒を飲まない自分でいたかった。

女の人が、貰い受けた犬をめっちゃさわってるときちょっと泣きそうになった。この映画の今までで、「この人物が一番何をしていなかったか」があそこで露わになる見え方だったからだと思う。

ラストのパンッ!ってなあっさりとした終わり方も好きだった。

「これで終われるんだ」みたいな気持ちよさがあるほとんど唯一の娯楽ジャンルじゃないか。映画って。シークレットサンシャインとか。バクダットカフェとか。いや、小説もお笑いも音楽もあるか。

飲食店とかだったらクレームがつくようなおわりかたがされていること、は芸術・娯楽作品においてはむしろバンバン見たい。お金でなんぼでもおなかいっぱいになれる、気持ちよくなれる世界、へのそれはオルタナティブとなりうる。

暖房のきいた部屋で読んでると「ふんふん、」みたいな感じで、「……でもあなたはこの本に寄稿依頼をもらえるくらいのいっぱしの人、ではあるわけですよね?」ってな うがり、みたいなのが生じるんだけど、寒い台所でお湯が沸くまでのあいだ読んでたら、そのときは誰のページか忘れたけど、なんというかすごく「骨にきた」。


自分の体も弱ってるときに読むとグインとくる、ということの証左かもしれない。


短歌の人間なので、短歌の人のページがやっぱり入りやすかった。永井さんおもしろいし、こういうテーマの避けかた/ぶち当たりかた があるんだな、と大槻ケンヂさんのページとあわせて思った。枡野さんのページは重かったな…

「ほとんど毎晩」か。


phaさんのところの「キャンディを三つ集めると消せる、頭が悪くなりそうなゲーム」みたいな言われ方がおもしろかった。初谷さん→サワーマッシュも読めてよかったな。梶本時代さんの「乳首がちぎれかけてる」って『乳首がちぎれかけてる』ってことでいいんだろうか……この人が写真のアカウントにあげられてた、地面スレスレにおいたカメラをのぞきこんでる写真好きだった。

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「公園には誰もいない」 「胸焼けうどんの作り方」がかっこよかった。チャイコフスキーをいまかけてるけど、これもだんだん好きになっていきそう。聞いてると、すとーりーずを聴きたくなる。

向井秀徳の声と向井秀徳のギター、しか今のところは聞いてて「頭の中でキャラ立ちしてない」っていうか、頭に思い浮かばないから、おもしろいベースやおもしろいドラムやおもしろいリードギターは今後聴き込んでいくことで見つけていけるんだろうなと思った。


しかし、「すとーりーず」は一曲目が2つあるような(サイボーグとポテトサラダ)、かわった聞こえのアルバムだと思う。

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あの写真 最高


飛行機と飛行機雲の順接にうんざりという顔で見上げる 
桜の下のなんもしてない自販機となんかしてるっぽい季節感
グランド・セフト・オートかよってツッコミはちょっと違ったから謝った
明かりが夜を夜たらしめるまではもう話したようなことを話した
まるでそういう仕組みのように缶ジュース飲み干すときに見える三日月
僕に迷路を与えて夜は得意気だ 得意気というのは想像だ
ボニーとクライド(ボニーは暗い土曜日をひとりで過ごすことも選べた)
言葉にすると何かが欠けるとき僕は僕のゴーストライターになる

夜夜中さりとて『ハニー・バニーとパンプキン』

1988年に生まれた時点で、自分はたとえば『四月の魚』を当時の人間、として読むことはできないわけだけど、あの当時 穂村弘はあの本にこういう気持ちや高揚感を受け取ったのではないか、というような予感っぽいものが自分のなかに生まれる書き手で・私家版歌集だった。で、そういう人は夜夜中さんだけじゃなくて、「まぎれもなく、今だなぁ」今の風が吹いてるところを見せつけられるなぁ、と思う人はまだまだたくさんいるからおそろしい。

いまは「つくば集」読んでるけど、そこに書かれていることのその書かれ方であったり、瀬口真司さんを読んだり、『多脚』を読んだり、買えてないけど京大短歌や神大短歌でもこれは思えるのかもしれない。自分はどう体を使っていけばいいだろう、みたいな前向きで春っぽい気持ちになる。ってことは、それにより憂鬱にもなりそうな感じ、と隣り合わせでもあるってことなんだけど

明かりが夜を夜たらしめるまではもう話したようなことを話した

こういう、実際の過去にそういう場面があって、それをリアリティを減じさせずに短歌化させた……というよりは、短歌なんていう、長い文字数ノルマをどう、場も魂も汚さずに使い切るか、みたいな書かれ方にはげしく「今」を感じるんですね。

あらゆる感動はその瞬間、に終わっていて、それ自体が価値で、でも価値とか言うのは品が無くて、さらにはそれに装飾や修飾を加えることは短歌のなかで「勝とう」とすることだ、みたいな気まずさが自分にはあるんだけど、それの佐クマサトシ的・夜夜中さりとて的・ジョン・ポリス・パトカーズクラブ的 解決、って感じがする。

「あの夜、話したよな」(で、あれ、今も思い出すくらいの過去と空気感ではあったよな)

という歌のコア、みたいなのがあるとして


明かりが夜を夜たらしめる


こう書いて「夜」の短歌化に修飾や装飾という「短歌の中で勝とうとする」を回避し、

まではもう話したようなことを話した

でさらに回避、したときの手に持っている凧をするするする、と空にあげていってる感じがあって、この短歌には「あんまりその場から動かないで凧を空にあげた」かっこよさと気持ちよさと目撃できてよかった、がある。

ひょいっ

ってな感じで笹井賞とって、歌集出してくれないかな…
それで
かっこいいー!
って自宅(じたく)で言いたい。
丸田洋渡さんとかも。


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表紙の顔がちょっと前の彼女に似てる

何ページか入ってる、手塚治虫とのつながりが書かれたところがだいたいよかった。
「11ぴきのねこ マラソン大会」のベレー帽のネコが手塚治虫モチーフだとは思わなかった。ウヒアハが日常過ごしてる絵、みたいなのが見れてよかった。

タブロー? のイラストがほんとによかった。自分に、絵を良いとか思えるチャンネルがあることに馬場のぼるでびびりっぱなしだ。
ちょっと絵本調じゃない、ねことか馬とか横から見た魚・・・

ぜんぶ見れる本ってないのかな


ボスザMCの話はほんとにだいたいぜんぶいいですね。ECDの対談も、宇多丸の対談も読める。ケイボムさんの逸話もおもしろい。サイプレス上野の人柄を好きになる本だと思う。

読みながらon a sunday なにひとつ失わず 東京ブロンクス INDAHOOD、Er1緊急救命室、GREEN車、ラッパーズアーデンジャー、Ms.アリハンダ、キミドリの自己嫌悪、LA ZENZEN SAMBA、SCARSのTHE ALBUMをアップルミュージックに入れた。YouTubeでSUとオジロの曲を聞いた。そんなのあったんだ。ホームブリューワーズも聞いてみたいな。


https://note.com/mozuchiki/n/n4418385ed50c


望月さんのnoteおもしろかった。文章おもしろっ

蕎麦派であることからのラーメンへの言い分とか、最後のたたみかけとかおもしろい。「ドライブイン探訪」という本を読んでるあいまに読んだので、お笑いじゃないおもしろい文章書ける人ってこんなにいるのかよと団地の公園で思った。

ひとりの時間に考えごと、をしぬほどくぐらせてるとこれくらいおもしろくて静かになれるのかなと思った。いちばん自分がしてないことすぎて。

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これしか読めなくなる気持ちの落ちぐあいの日がいつか来そう。

で、そんな日があるなら、その日以降これ以外が読めるのかどうか、に自分の興味はすでに移ってる。これ出してからの作者の人、短歌の行事の社交な時間とかでダルい質問何回も何回もくらいそうで気の毒だと思う。

「意外と、こうやって会話してくれる人なんですね」とか言われそう。自分は絶対に言いたくない…


こんだけ特徴を打ち立てすぎてしまうと……

登場、がもう「特徴」だった人は大変だと思う。


映画で言うと「サウルの息子」みたいなのか。見たことないけど「潜水服は蝶の夢を見る」とかも、聞く情報てきに近いのか。

思い浮かべる人のセンス次第、思い浮かべ技術しだい、みたいな言葉の置かれかたは、映画で言うと画面に映ってるものが荒い/少ない、みたいな撮られかたにちかいと思う。

そういうのは鑑賞した人が「わかりにくかった」と偉そうに言う準備が万端になっちゃう。短歌の人、として、黙殺するのに罪悪感を抱かなくなるようなトガり具合の作風なので、逆にむしろ【端っこばっかり気になる】の多い今、としては愛好者も支持者も多くなるのかも。しかし作者に観測できない範囲で。全員静かにこの歌集を楽しむ。

何年後とかに「実は、いっときアレしか読めなくなるくらい気持ちが塞いだ時期があったんですよ」と。それは意外と作者に直接言いにこられる。

……じゃあべつにいいのか。
幸せなかたちか。


連作の最後の短歌、がけっこうその連の象徴っぽい歌にしてくれている印象なので、再読のときとか、迷子になったときはそこから読んで…   その歌を頭に鳴らしつつ読む、みたいなのが有効っぽい。


さいごのにんげんが、いまやっとねて、にんげんはさいごに、そのひとがみたゆめをみた、

/多賀盛剛『幸せな日々』


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つぎにくる車の色をあてるから、あてたから見にゆく冬のダム
鉄橋に立つと何かを落としたくなるみずいろの気持ちがわかる? 
母校愛なさすぎるなと思いつつ氷しか食べていない一日
こんな人HUNTER×HUNTERにいたよねーとかやっている眼鏡屋さんで
はじめて歌を歌った記憶 給水塔 歌わせた記憶 電波塔
夜と夜 勝手に人の太鼓の達人に乱入するこどもがいるでしょう?

郡司和斗『遠い感』(原文は【太鼓の達人】に(たいたつ)とルビ)

「受け手に伝わり、感激させてしまった」時点でそれは優秀な商品なので、そうなるとすばらしい歌集も勝負ネタも宇野なずきも泣ける映画もバズツイートも「職場」で、心が存分に動いた・喜んだとして「人の仕事中、ってあんまりだんだん落ち着かないな」 「作者みんなでダラッとする、みたいな娯楽はありえないのだろうか」となるさみしさからは逃げられない。ぜんぶに意味がある人、こと、って、哀しいは哀しいじゃないですか。

それを回避するためには、この「遠い感」の、全部をクリアには想像できない、僕側の読解にぜんぶが立ち上がらない詠みかた・言葉の言われ方をするって方法があると思ってて、「遠い感」はけっこう最初から最後までそういうのでぎっしりだった。

口語の強い作風なんで、逆に思ってしまいそうなんだけど、べつに読者にサービスをあんまりはしてない。長谷川麟とも平出奔とも佐クマサトシともちがうしかたで郡司和斗はサービスをあんまりはしてない。これがたのもしい。

(とは言え、うえで引いてるのは「優秀な商品」のような感じの強めで、郡司さんを文章で言わないといけない・・・・・・とき僕はこのあたりの「この世界の偶然性もあるあるネタも最高!」ラインに助けてもらうだろう)

けっこうなんでも部屋にドカドカものがあるように他人からは見えて、でも「絶対に置かないことにしてるものは絶対にあるんだろうな」っていうか。

この勝手にやってる感は今後なにかになるよなぁと感じた。


ガミガミ言ってくる先生のイヤさがなんかちょうど、どうなるのかわからないイヤさで(このあとなんらかの仕返しを登場人物やストーリーから受ける奴なのか、登場人物の反応からは程度が分からん、昔の映画でもあるし、これくらいの奴は当時たくさんいたのか、このイヤさが作中ではどれくらい致命的にイヤなものとされてるのかが分からないイヤさ)、

でも名作なんだろうし、ピッチパーフェクトやRHYMESTERに引用されてるし、問題のある先生もろとも最後には幸せになる、「未来はそんな悪くないよ」みたいな映画なんだろうと思ってたら、けっこう先生をガッツリ振り落として最後 生徒たちだけで未来に向かう話だった。

宇多丸がララランドや桐島部活やめるってよ評で喋ってた「カルトムービー化しやすい映画が持ってる特徴」みたいなのをもう一回思い出してみたくなる。

カメラに向かって歩いてくるところを、これを書きながらまた観たくなってる。かっこいい。きまってる。かかってる曲もだいたい好きだった。

他のかたも書いてるけど、化粧をされる前のほうがよいと思って、でもそっちが良いと思うのは「インターネットにSNSがある」時代の感じかたなのだろうかとも思った。

「学校とホームパーティーしかない」世界では化粧後のほうが良しとされてる、感じも納得と想像ができるっていうか。

化粧前の感じの人のほうをインターネットではよく見るし、「その人がしたいようにしてて、自由だ」みたいに褒められやすいし、こっちも褒めやすいし。そういうのの蓄積で、「化粧前の感じのほうがいい」と自分は楽チンで思えてるだけなのかもしれない。とは思った。

でもやっぱり自分なら、化粧前の方のこの人と喋りたいとは思う。

お好み焼きの揚げ玉みたいなのを挟んでサンドイッチを作るところがウッッッって気持ち悪くなれて嬉しかった。

坂口杏里みたいな子がかわいくて、坂口杏里と知り合って→坂口杏里の悪いところを知るまで の時期って坂口杏里からはこういう輝きが出てるのかもしれないから、坂口杏里と知り合うと好きになるのかもしれなくて恐ろしかった。



おもしろかった!
医者のネタが好きでした

スカイラーがウォルターホワイトに長台詞でキレられ続ける回のブレイキング・バッドが好きな人とかは好きだと思います

コンタクトレンズの人間には野宿ができない

Amazonプライムに来ていたので、ありがとうございます、fOULのドキュメント映画を観る。たぶちひさこさん吉村秀樹の2人を語る口調が「kocorono」でいちばん芝居がかっていた人、こういうバンドをされていたのか。

かかってる曲のどれもが、なんかこうなるかな、って自分が思う感じとは違うふうに進む曲で、みんなでシンガロン、ダイブにモッシュ、イェー、Zepp、クアトロ、日本武道館、ってな在り方じゃないこういう人たちに心が救われることもあるんだろうなと思った。

一曲目とか、おもしろかった……
これでいこう、ってジャッジを誰かが、もしくは全員がしたうえでこういう曲がこの世にあるのが不思議だった。

画像の、ベースの人に話聞いてるときの後ろの雨が良かった。

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やさしい。たまらん。11ぴきのねこシリーズにつながる〈ストレンジャーがいったん仲間はずれにされる〉の描写がけっこうどの話でも執拗にくりかえされてる気がする。

「ライオンはおりなくていいよ。」


悪いやつらの悪さが、ちょっとほんとに悪くて、おもしろい

バッドカンパニーとは戦いたくない


東方仗助はかっこいいし小林玉美(こばやしたまみ)は最悪だなー

小林玉美(こばやしたまみ)っていついかなるときでも口が言えるような体にしておきたいし、まったく忘れてしまって、ある日「小林玉美(こばやしたまみ)」って誰かに言われて笑いたくもある。

幽遊白書でいうと海藤が出てきたときのわくわくに似てた。
腕力じゃないやつにけっこう苦戦するという話運び。


猫のくだりでズタズタに傷ついた康一が帰ってきて犬を蹴るところ「おい!」ってなった

今月ちょっとお金に困ってて、古本屋に行くし杜王町編も売っちゃおうかなと思ってたんだけど、ちょっと読んでたら、髪型をからかうことで怒らせようとしてる敵のときの仗助のこのセリフの言い方でおもしろくて、やっぱり売らんでおこうと思った。

「ファブル」とかみたいな面白さに先んじて、そんなおもしろい言い方ある?には荒木飛呂彦がとっくに先んじていた。



康一のことを好きなスタンド使いが現れる回。
バトル漫画っておもしろかったんだよな、ということを久々に思い出した。空中で蹴ったりするのってやっぱりかっこいいよ。

「10円玉がねぇ~~」が笑った&かわいかった。


岸辺露伴が出てきた。間田がゲロを吐く場面で「ム」 「うそっぽくなったよ……」のところがおもしろかった。
セリフの手ざわりにほんと味がある。

透明な赤ちゃんの話とか、ほんとに「センス!」って感じ。
読んできたものの蓄積がちがうと感じる。


重ちーもエステの人も死んでしまった……
写真のなかの親父が持ってるコマの絵大笑いする。

つげ義春の「ひゃっ、ちめたぁい」級


金持ちの食べ物かと思った。
100円で買えていいおいしさじゃない。



異国の郊外で車が壊れて、修理の部品の到着をモーテルで延々 何日も待つ話がよかった。

キングオブコント2度目の「オッケーです」のネタで、この人たちと、このネタをいじりたい人しかこのネタおもしろいって言ってないじゃないか、全然おもしろくないよ、と不信感があった人(自分はそう)は読むと、悔しいけど二人がYouTube始めたときくらいのニューヨーク好きだった度合いに戻れると思う。

個人史を語られるとやっぱりどうしても弱い。

短歌にもそういうところがある。好きとか嫌いとかじゃなくて、あの短歌やあの短歌を通して立ち上がってしまった作者像とおれは「知り合ってしまった」、みたいな感覚。

誤字もたしかに多かった。家にきた友だちが借りていってなんかなかなか返してくれなかったらちょっと嬉しいかもしれない本。

KOCの「オッケーです」以降のニューヨークのネタをどう思うか問題というのがある。


嶋佐さん大好きだけど、「単独ライブの配信をもっと買ってほしい」っていう2人の願いは、ときおり見えるこういう、2人がネタにどれくらい才能や工夫などのリソースを割いてくれてるのか……が疑わしくなるこういう動画をあげることで遠のいてる気がする。

一年の最後に、ダラッと観なよ、って漫才なのかもしれないけど、毎年この動画でちょっとだけかなしくなる。

綾部が帰った日の又吉の言った「いいやつだったでしょ?」が、「いい人だったでしょ?」じゃなく、「奴」っていう冷えた呼称だったことに、このジャンルの人がいかに普段 いじりあう、を基本トーンとする格闘技の人たちなのか、を表してる感じがして、それまでのハートフルだった空気が僕の部屋のなかでピシッとなった。

芸人本人どころか、一緒にいたスタッフまで「(綾部は)ダサいなぁ」を言う世界。

これで掘っていって先のおもしろさが充実してる世界な一方で、キョロキョロしてない大天才は出にくいのかな?と外野としては思う世界。

ピースを好きでも嫌いでもなくなって、お笑い芸人、ということをドン、と思わされた。M-1の前々日。

おいしかった。


体感的には『野良猫を尊敬した日』くらいから、穂村さんのエッセイは成し遂げた、人のウイニングランに見える。

それこそリアルタイムで『世界音痴』から追ってた人には「蚊がいる」くらいからウイニングランみはあったよ、となるのかもだけど、自分は自分でバイトして自分のお金を、初めて穂村さんに落とせた、古本屋さんではなく、のエッセイが「蚊がいる」だったので興奮でそんなことは思えなかったのだ。

がんがん幸せになっていってる人の文章、そのなかに哀しさ(いつかはこの世を去らないといけない)を嗅ぎとれると嬉しい、が穂村さんのエッセイの味だとして、こちらの嗅ぎとり力(りょく)だって非常にだんだん長けてくるわけじゃないですか。だから、今読んでるこのエッセイにあの哀しさ、はそんなに混ざってなくても「うおお、やっぱ いいぜえ」と昔みたいに喜べているだけなのかも、というのがもうとっくに自分にはわからない。混ざってると思いますけどね。

でも、人にいつまでも全盛期を求めようとする気持ちも終わっていると思うし。僕のほうが嗅ぎとり力(りょく)、味わい深め力(りょく)に長けていきますから引き続きそこにいてくださいね、の気持ち。穂村さんが亡くなったら母親が亡くなったくらいつらいと思う。穂村さんが鬱っぽくなったら母親が鬱っぽいくらい無力な気持ちになると思う。ハンカチ踏む話とか、よかったな。これも文章としての良さなのか、穂村さんがそこで動いてる、が嬉しいのか、もう自分にはわからない。




TOJIN BATTLE ROYAL『D.O.H.C』を〈もっとおもしろいケツノポリス2〉とする説を唱えたい自分としては、この中で「日本三大・ボンクラヒップホップ」として述べられているライムスター・ケツメイシ・餓鬼レンジャーからケツメイシoutでTOJIN BATTLE ROYALをインさせたい。今も動いてる人たち、を前提としてこういう言及や歴史化ってのはされるんだとしても……

ケツノポリス2でボンクラなのはせいぜいケツメの作り方くらいじゃない? ケツノポリスもボンクラみがあるけど、「夕日」とかがあるし良いことも言える人たちなんじゃん、と思う。ケツメイシでおもしろいことを言ってるのはRYOだから、 それならタサツのアルバムのほうがずっとRYOだし。

R - 指定はアドレナリンのMOL53との騒動のときフリースタイルダンジョンのラスボスルームから「おれと戦いたいならここに来いっちゅう話ですよ」と言ったころから不信感がある。あれってそういう話じゃないと思う。

MOL53サイドに話をちゃんと通して、両方のメンツを保たなかったaceも終わってると思う。aceは不信感、どころか嫌いなのでアルファベットは大文字にしない。

phaさんのところが読みたくて図書館で借りた。雨宮まみさんが巻頭だった。

patoさんというかたの文章のノリが寒くて読み通せなかった。「厳重に抗議」とかの感じが。

加藤一二三さんのインタビューのあとに「*1 現行規則では外出禁止となっている。」という注釈があり、その注釈だけが書いてあるページがえらいかっこよかった。


ジッパーを閉めるみたいにタクシーが横切ったから今日は帰ろう

困ったら駅前ビルの各階が50万ずつ貸してくれること

/pha『少しだけ遠くの店へ』

この「各階」が気持ちよかった。

あとがきで、phaさん自身が書いているK音の快感に振った歌よりも、この「かくかい」それじたいのK音の気持ちよさが素晴らしいと思った。この「各階」はあんまり短歌で見たことない。鈴木ちはねさんとかがやってそうだけど、たぶんやってない。これは、

大学生ノリは世界に存在し僕らはそれを指摘していく/永井祐『広い世界と2や8や7』

の「指摘」の気持ちよさと近いんだけど、こういうのってなんていうんですかね。自分はお笑いライブの平場とかで聞けたら嬉しいような漢語、の入った短歌が好きなのかもしれない。

斉藤斎藤さんの「立場上」とか、瀬口真司さんの「実人生」とかね。気持ちいい。

左で、「違国日記」を読もうと思って読んで、右を読んでROVOのライブDVDを買った。
あと、歯磨きのあと口をすすがない歯磨きを始めて3日経った。どうなんだろう。ほんとに虫歯が減ったらおもしろいな。

マキシマムザホルモンのライブでメガネを壊されたあとのphaさんが 引き続きライブをみつづける日の日記が、おもしろかったし、自分ならもうちょっとだけきつい気持ちになるかもしれなく、でもphaさんはこうで、この一連の動きや思うことや書き方が自分の思うphaさん像だという感じがした。

ちょっと経ってまた読み返すとき、ここは絶対に読むと思う。


「ロストエイジ二十年史」のHi-STANDARDの記述があるところで、AIR JAM2000 以降リスナーにとって不可解な沈黙期間に入る、みたいに書かれてて、このバンドそうだったんだ、と気になって観る。

Hi-STANDARD
ウルトラブレイン
BBQ CHICKENS
KEN YOKOYAMA BAND

のそれぞれの経緯に始まりかたみたいなのが頭に入った。
キュビズモグラフィコファイブの人がHi-STANDARDのドラムの人だなんて知らなかった。

ライブDVDに反応できなくても、ドキュメントの動画なら楽しく見れるってのは、短歌で言うと横に鑑賞文がついてるみたいなものなのか。
ブッチャーズのKocoronoとかもおもしろかった。次はファウルのやつみようかな。

音楽性のヘルシーさからは想像もつかないくらいに、3人みんながみんな精神を損なっていくバンドだったことに驚いた。

もちろん向井さんを筆頭に、中尾憲太郎田渕さんアヒトイナザワがどうだったのかなんてほんとうのところは分からないけど、これを観ると、このようなペースで走り抜こうとしたバンドでありながら、これほどまでの空中分解をしなかったナンバーガール、ひいてはその後にインディーズのZAZENを立ち上げた向井秀徳の異様にのびのびと淡々とやっている感じが際立つ。完全に自主でLOSTAGEを進めはじめて二年後くらいにステージの上でまいっていた五味さんを見たことがある。自主、インディペンデンド、で進めたときの、本来の音楽にあわせての稼働の量ってすごい怖いことになるんだろうな。

ZAZENだってメンバーチェンジや、アルバムが10年出なかった、あたりに何らかの歪みはありそうだけど。全部を全部こうやってリスナーに見せてくれるわけでもないだろうし。

自動販売機のまえで難波さんと横山さんが話してるところが画(え)的・話されてる内容の場面的になんかグッときた。



ロッキンルーラと、ハングソングとhave you なんちゃら〜 を知ってるくらいだったので、ほとんど初めてMO'SOME TONEBENDERを見た。

「GREEN & GOLD」がかっこよかった。

佐クマサトシさんがおもしろいな、やっぱり今の人だな、と感じたんだけど、永井さんが今年歌集だしてたら、阿波野さんが今年歌集だしてたら、谷川さんが今年歌集をだしてたら、自分はやっぱり同じことを思いそうで、すごく保守的なものいいだけど歌集を出す、ことで「今」の真ん中に来れる、こらされてしまう、というのは強くあるんだろうなと思った。

田中有芽子さんの歌集も新装版、という出方であれ出ての今年が、「おもしろい人、発見!」みたいな言われ方だったのを見てて、自分がもっと、2023年にこう言ってくる人が食べやすく推せるような推し方を、最初のほうの『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』が出たときに振る舞えなかったことを気まずく思ったりした。やっぱり歌集、なのか。

でも最初のほうの『私は日本狼アレルギーかもしれないがもう分からない』も歌集だったんだぜ! と悔しくて…


このあたり、オンデマンド版、と思う。

ブックパークで出て今は入手できない歌集とかにも、たくさんの田中有芽子さんがいるんだろうなと思う。村上きわみさんのキマイラとか、増田静さんのぴりんぱらんとか、買っとけばよかったな…


松木秀『5メートルほどの果てしなさ』とかはでも、現代短歌クラシックでスルッと出そうな感じを勝手にしてる。とても、スルッと。

そんなに簡単に言うなよ!ですかね。

自分が買った現代短歌クラシックは林檎貫通式、四月の魚、寒気氾濫。O脚の膝は電子書籍で持ってて、斉藤斎藤さんの文章もついてるんだぜ。 現代短歌クラシック版はどうなんだろう。 でもだいたいが、紙で読んだほうがおもしろいとは思う。 たんぽるぽるも電子書籍で持ってるので、真の雪舟えまファンですみたいな顔はしないように気をつけて生きてる。


土岐さんが小説を書いていたというのが驚いた。
そのころの一年間の話、どこかで書かれてたら読むだろうなと思う。

書いたものについて言及されるとき土岐さんは「ありがとうございます」 「ありがとうございました」 と言っていて、いっぽうphaさんは自分の書いたものについて言及されてるあいだ特にそうではなくて、二人がそれぞれそのようである、ことについては何も「え?」とはならないうえで、土岐さんとphaさんの違いは土岐さんとphaさんの違い、という他に言えそうなことがあるなみたいなことを感じた。

それはたとえば、人前で話す機会の数だとか。身を置いてるジャンルとか。書かれたものの持ち出され方のカジュアルさと、「作品」っぽさの聖域さの違いだとか。

土岐さんもでもラテラルでたくさん登壇されているのだよな。

感電しかけた話の話、のとき土岐さんと話させてほしかったのは土岐さんがいいなと思ったからだったんだけど、けっこうラテラルに出られてることを後々すこし驚いた。

※髙良真実さんの漢字を間違えている











ここから↑は自分で見たもの


ここから以下は、お題箱で「感想を言いなさい」と言われた娯楽



これが嬉しかったので、おしえてもらった映画と曲を鑑賞することにしました

映画『転々』

大学の1年~3年のどこかで初めて観たので、今回観たのが14年ぶりくらいになる。なんとなく、大学4年の色々ある年に観れるような映画ではなさそう。今回も観ながら、「これ正月にみればよかったな」と2回思った。

14年後に観てもオダギリジョーはかっこいい。二人を玄関に待たせて延々行ったり来たりの支度をする小泉今日子の場面、あの倍あってもきれいで嬉しく観れた。レンタルDVDを返す前に吉高由里子の背中をもう一度観るために再生する、は魂が汚れる気がするのでしないでいれるようになった。

「孤独のグルメ」以前の松重豊が、なにか発言をしたあとの〈場の処理〉みたいなのが松重さんスベってるよ扱い多めなのの「孤独のグルメ」以後じゃなさ、が眩しい。今やられたらスーパーの残りの二人をどんどん嫌に思うだろうし、この作品の時点でももうかなりうっとうしい。楽しそうにしないでほしい。

感想の上位10個くらいが、俳優の見た目や振る舞いっていう素材そのものに偏るのは、割り当て台詞と会話運びがつまらなすぎるからだと思う。手数が多すぎて、毎回ちょっと凝ったことを言う・・・のぜんぜん凝ってなさが、だんだん観てるわくわくを減じてくる。人が頭の中だけで考えた会話すぎる。小泉今日子がいたスナックの名前が「スナック 時効」だったとき うっわ勘弁してくれよ!と喚いてしまった。時計屋の店員さんを、これで食えてるのかみたいに馬鹿にしたらやり返される場面がおもしろかったのは、あそこだけ「セリフでごちゃごちゃ言って処理する」じゃなかったのがフレッシュだったからだと思う。

自分はいつのまにあんな素敵なオダギリジョーをあまり観なくなったのか、のこたえがこの「転々」と「帰ってきた時効警察」にあることに気づけた。「ゆれる」とか大好きだったのに。

「南瓜とマヨネーズ」とか、ボートレースの窪塚とのCMみたいな、その映像の真ん中にいないときのオダギリジョーってどうしてあんなにちょっと嫌になるんだろう。この人かっこいいと思ったけどどうやらかわいいな、と観てる人がなるためには〈真ん中に置いて〉、〈持ち時間をだいぶ与える〉が要る人なんだと思う。

オーギョーチー屋の家庭内暴力とか、あれを笑ったりしないですよね。
というかそもそも、アワヤマンションで着実に腐っていってる嫁がいるのに、自首の横断歩道のダッシュのあと、あんなよさげのエンディング音楽を流されたって「人の生き死になめんなよ!」という気持ちになる。それともあれって、奥さんは実は死んでないみたいなバラシってどっかにありましたっけ・・・

見逃してこの感想になってるんだとしたら僕はザコです。
でも、生きてたら生きてたでじゃあこの話なんなんだよってなりません?

マウンテンデューの缶とタバコとオダギリジョーがかわいかった。

一聴して、ドラム! となりました

普段自分が聞いてるような曲とは鳴りが違うドラムで、そしてこれは懐かしい……と言って良いような〈今となっては〉な音かもしれない。爆風スランプのランナーとか思い出しました。

ビートロック、というくくりがあるのですね。
ダンダン!ダンダン!ダンダン!ダンダン! みたいなシンプルなドラム。モータウンビートとかとはまた違うことなのか 

に、ひねくった歌詞と不安になるくらいには陽なメロディーが乗っかっています 
筋肉少女帯ってこんな感じなのか
これでしか出ない元気がありそう


笑う光 耳中華

https://music.apple.com/jp/album/%E7%AC%91%E3%81%86%E5%85%89/1645226120


なにを教えてくれてるんだ、笑っちゃったよ。
名前に「笑う」って入ってるってことは〈笑えはしない〉ってことなんだろうと思ってたのに。笑うよ。おなかが笑おうとする曲だよ。

このアルバムにはどういう曲が入ってて・・・って説明さえまどろっこしい、さっさと聞いて「聞いたことがある」にしたほうがいい。各々。そしたら説明しないで済むから。


「友達が作った変な曲」って感じだな。中学のか高校のか大学のか、っていうとやっぱり圧倒的に「大学でできた友達が作った変な曲」って感じだ。
大学っていい場所だったのかもしれない、みたいにさえ音楽体験から飛び火、して思ったよ。こういうことができる時期だし、こういうものを聞いてくれるひとがいる時期ってことだから。無益であることの豊さ。とかまで言うとえらそうだけど。

耳中華の人たちはーーーー正直、そんな人たちがいるのかさえ疑ってる。イリーガルに儲けた資金をロンダリングするために、AIに音楽を作らせてそれをiTunesで配信する方法があるじゃないですか。それじゃないかとさえ思ってる。で「それ」がこれならおもしろいし良いんじゃないか。逮捕されても出獄してきたらこの曲はこの世にあるわけでしょ。みたいなくらいにも肩を持ちたくなるーーーーー耳中華の人たちは、自分とは他人なわけじゃないですか。なのに「友達が作った変な曲」の聞こえを持ってるってのは一つ、達成なんじゃないですか。友達が作った変な曲。友達が部屋で聞かしてくれたから笑ってる曲。
生まれてから死ぬまでマジでいろんな時間の使い方があるな、というものだよ。





これよかったです。なんで今まで知らなかったんだろう。
MVも気持ちいい。っていうか涼しい。今日(2023/09/24)くらい涼しい曲にバチっと合う映像。たまらん。ヌジャベスとレイハラカミとロボットニーズオイルとか入ってるプレイリストに追加しました。毎日コーヒーばっかり飲んでるから心臓が早くなるんだけど、これを聞いてたら肉の内側が静かになれる感じ、あります。




洲崎パラダイス 赤信号


調べてないけど、「東京物語」とどっちが古い映画なのかな。
こっちの方が古かったら、今までで観た一番古い映画になる。

映ってる世界がシンプルすぎて、起きてるのは波乱・・・と言えそうなことなのに不思議と癒される。

カラッとした近所付き合い、
ろくでなしの男、
無口な男、
セックスの気配を隠さない男、
というか「セックス」とかの言葉がたぶんない頃の性欲、
異様にやさしい女の人、
愛想ぜんぜんないんだけど優しくないわけではない他人、
性善説で回ってる町、
なのに土壇場での人の命の軽さ、

昔の映画を観るなら見たいなーって思ってるものがだいたい全部見れて小っちゃい感動があった。
なんでいきなり首を絞めるんだ。
川の刀、きれいだったな。
芸術だ。「なんか、そうなる」は芸術だと思う。マジで勝手にこういうことをしていい。映画はあれで終わってもいいのか。もっと勝手な見せものとして、自分も生きたり喋ったりしようと、川を流れる刀で、なんかそう思えるのは不思議だ。自由さへの至り方の一種類じゃなさ

ブルーハーツのベースみたいな見た目の男がたくさん出てくる映画



●D.A.N.の「Chance」

D.A.N.は「Ghana」と「ネイティブダンサー」と「pool」が好きです。このあいだ観たオアシスのドキュメント映画でノエルギャラガーが「生きてるだけで楽しかった」と1990年代を振り返って言っていて、すごいこと言うな。
でもそれで言うと。と倣うなら、自分は2018年ごろはこの三曲とceroのイエローメイガスを聴いてるだけで幸せでした。ということはD.A.Nだとこの3曲ばっかり聴いてしまうということで、なんというかこの「アルバムから出られなかった」。Chanceを聴きました。

Chanceを聴いて思うのは、上の3曲って〈歌詞が無かった〉んだなということ。もちろん、歌ってますよ。たまに「すべて」とかがたぶん聞こえる。でも言葉、でこれらを自分は聴いてなかったんだなと今さらハッとするくらい「Chance」は言葉の曲でした。

曲が鳴ってない今思い出そうとするとパッと浮かぶのは「あなたと居たい」という詞で、ってことはこの曲を貫くテンションがこの言葉なんだと思う。

歌詞で聞いてなかった、上の3曲のD.A.N.があんなに無時間的な空間での暗い遊び 死なない命での崖(夜)からの飛び降りごっこ みたいだったのに、D.A.N.って「あなたと居たい」ってその曲中で言いはじめると途端に世界が終わろうとするあと何分間か……で鳴ってる曲やその絶唱、っぽく聞こえるんですね。「あと10秒で」って曲ART-SCHOOLにあったな。

そう醒めると、とたんに自分が今まで、怖いものを聴いていたような気がしてきました 初めて知ってから5年くらいが経ってるけど今でも生活中(せいかつちゅう)に「poolを聴きたいな」とかGhanaの怖ぇMV観たいなとなるときがあるように、「Chance」を聴きたくなるときがそのうちランダムさのおもしろいタイミングで来ると思います。


●黒沢清の『蛇の道』


最初の道を車で走ってるところから
「あぁ、 
となりました。
安い言いかた、しかもちょっと嘘ついて「あぁ、」の続きを足すなら「これはもうすごい映画だわ」とかになるんでしょうが「すごい映画だわ」とかは言いたくない。ひとつにはちょっと嘘だし、もう一つは

「あぁ、 

のあとに意味や感情を続ける形で自分に偽の記憶を刻みたくない。言葉にすると思い出すとき、その言葉がターミナル駅みたいになっちゃいますからね。そうするわけにはいかない。どこまでもニュアンス、として自分はこの映画を観たことを記憶したくなりました。

そんな、最初の何秒かでですよ。

「あぁ、 不気味な映画だわこれは」とかで言葉に、しちゃうとそれで記憶し、てしまいますからね。だからこの映画の冒頭の道(東京23区の外、でかい公園がそろそろたくさん出てくるあたりっぽい道だなぁほんと)、の感想、を言うとしたら「あぁ、」です。この監督の名前は、仕事で依頼された歌集の解説文にも出したりしたこともあるのに「クリーピー」しかあとは知らないんですが、この「あぁ、 」は他の作品をみた際にも出る声なのかもしれません。声には実際は出しませんでしたが。

痩せてる香川。

笑うと天津木村みたいに見えて、天津木村と香川照之に「そういうえば自分はなんか好きにはなれない二人だったんだな、この二人って」とかねてからの印象、がなんか、連帯責任で言語化された。

彼の芸で笑い、彼の演技に圧倒されようが、なんか好きになれないな。「でもいるから、見るよね」みたいな二人だと思った。笑うと天津木村みたいに見えた。

「鍵泥棒のメソッド」と「ゆれる」の香川照之をみたことがある。ダーツの三発目を投げる時唇を「くいっ」と内側に巻き込む香川照之は初めて見たし、ダーツ自分の人生で5回すらも投げたことないけど、三発目を投げる前に「くいっ」と唇を巻き込む、のはあるあるネタだな、と納得できて、これはすごいことですね。いる、そして動く、だけで情報量の芳醇となる人なんだと思う。銀座の件からの休業、復活後のホームページ声明文への感想の「うわー……」が最新の印象の人になってしまったけど…


ダーツの時間の遊んでる感じ、男がやるべきこと、をほったらかして暇な遊びをしてるときの感じで「ソナチネ」に似てる感じの空気があったときもあった
「HANA-BI」の夫婦でトランプで遊ぶときとか、たしかポッキーの赤い箱とか良かったな…


計算がすごい天才少女……あんな数学だけする塾が東京にはあるんですか?……が、「このおじさん見たら電話してよ」とチラシをもらった、直後の場面で計算をとかされるとき、あ! …なるほど、この子の計算式の世界認識に、人間社会の猥雑なゴチャゴチャ、が混ざっちゃうことで数学の勘、みたいなのが狂ってきちゃう場面が観れるんだ! ……と思うとそんなこともない。

言葉で記憶するとその後に回想するときその言葉に嘘つかれる、じゃないけど「言葉」で映画を観ているとこういう早とちりが起きてしまうんだな。ここくらいからどんどん話が追えなくなっていく。単純に、正しく「アクション」と呼べるシーンになるからだし、登場人物がシンプルに増えるからだったんでしょうけどね。

でも登場人物が増えるって「声が増える」ってことで、車のなかに金城武みたいな顔の俳優を拉致した場面は、「ちがう声のやつが増えた!」ってちょっとフレッシュで嬉しくなった みてる集中力が今更新されたな、と思いました

鎖で拘束されてる場面が、あとから思い出すものよりもほんとうに長かったってことなんでしょう。
でも拘束されてる場面みてる時間のほうが楽しかった映画だったな、

横浜ベイスターズの「番長」って呼ばれてた人に似てるヤクザもんが鎖に繋がれて、「もう、(香川照之を納得させるために)テキトーな犯人でっちあげようぜ」って「アウトレイジ」で言うと小日向文世みたいなポジションの哀川翔がヤクザもんたちに空気を入れにくるじゃないですか。

そのあとの「番長」に似てる人は香川照之に、べつに犯人がいるよと語る演技を始めるわけなんだけど、そのときの彼と、演技を始めるまえの、哀川翔に「おまえのことは忘れてやるよ」っていうときの喋り方とか居様(いざま)みたいなのが全く一緒で、うわっ、ほんとに怖いんだな裏社会の人って、と「演技をまったく変えないこと」で達成できる観客への説得があるんだ、ってすごくゾッとした。『蛇の道』はここが観てていちばん僕にはマックスでした。

親切な人だ

順次、感想を書いていきます(2023年1月26日)。

↓以下は、あんまりオープンにしときたくないものの感想を置く予定です。お笑いとか。更新されると購入者のかたへ通知がいきます。

見たもの

M-1グランプリ2022
いきなりたこしげ
「テキセツの街」ゲスト回 ニューヨークの30分トーク
東京芸人水脈史/山田ナビスコ
M-1 2022 3回戦・準々決勝の見取り図のネタ
おしみんまるが若手コンビ4組にダメ出しをする回のいろはに千鳥
ざっくりチャンネルの都道府県トーク
見取り図じゃん M-1以前・以後を語る回
錦鯉・呂布カルマがゲスト回の「あちこちオードリー」

M-1グランプリ2022

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