教育の力 苫野一徳

まず本書を読む前に2つの問いについて自分なりに考えてみた。
①教育とは何か?
教えるものと教わるもの、教わるもの同士の双方向的な学び合いによって思考力や主体性、協調性など生きる力を育んだり、多様な考え方、価値観を学ぶこと。

②よい教育とは何か?
逆によくない教育ってなんだろうと考えたら、
教わる側が受け身の姿勢、当事者意識を持てない状態なのかな。楽しくないし主体的じゃないからモチベーションも低い。同じ時間を過ごしててもモチベーションが高い人に比べて学びの質が落ちるし、そういう受動的な姿勢は他の人に負の影響を与える。
そこから考えたら、よい教育というのは教える側が、教わる側が当事者意識を持って主体的に取り組めるような内容、働きかけをし、教わる側も「なんとなく」取り組むのではなく、「何のためにやっているのか」目的意識をしっかり持って取り組むことが大切だと思う。
ただ、その教える側と教わる側の意識づけはどうやったらいいんだろう?という疑問を持った。

概要 

公教育とは何か?

すべての子供に『自由』に生きるための力を育むことを保障するものであると同時に、社会における「自由の相互承認」の土台となるべきもの
→これを十分に実現させられる教育が良い教育

「自由の相互承認」だけが、私たちが「自由」に、そして平和に共存するための最も根本的な社会原理。子供たちがその感度を育んでいくために教育が存在する。これにより万人の万人に対する闘争(ポップス)への逆進を防ぐ

平等か競争、多様化か→その議論が不毛
平等(教育の機会均等、教養の獲得保障の平等)のためにこそ多様な手段を取る必要がある。

第一部 よい学びを作る

時代の変化
どうせすぐに忘れてしまう細かな知識を詰め込むよりも、必要なのは自ら考え自ら思考する力、学び続ける力
→教育にも育成が求められる「必要な時に必要な知識、情報を的確に学び取る、そしてそれを持って自らの課題に立ち向かっていける力」

学習資本主義
学ぶ力がないと、個人が市場において低い価値しか与えられない社会。
学校の教育力よりも各家庭における教育力のほうが学ぶ力に対する影響力を強めている

☆「学ぶ力」としての学力を、できるだけすべての子供達に育むには?

現状の問題点
学習指導要領による学びの画一化
→多様性がなく非効率、一人一人の学びの質を保障できない、細切れの時間割、学力格差の拡大
🔴学びの個別化
ドルトンプラン
→生徒の自主的な学びを促す、自ら学習計画を立てる
サドベリーバレースクール
→生徒がやりたいからやる環境を尊重
反転授業
→学びの個別化と協同化の融合
→知識詰め込み型の教育による格差問題の解消

🔴学びの協同化
先生は過度に介入せず、学び合いをファシリテート
協同化においては、「得意な子も不得意な子も全員ができるようになる」ことが目標
学びの相互触発による学力向上、相互理解を深める

個別化を通して学びの効率性を高め、協同化を融合することて子どもたち全体の学力を向上させる

🔴学びのプロジェクト化
デューイ(米)が提唱
子どもたちの4つの本能的欲求
物を発見したい、物を作りたい、自らを表現したい、コミュニケーションしたい
これを生かした教育のあり方

キルパトリック
目的ある活動こそが「自ら学ぶ力」を育てる
やらされている勉強からの転換

イエナプラン教育(蘭)
1960年代に画一的な一斉授業から個別学習、グループ学習への転換を国レベルで達成
・学年、年齢をバラバラにしたグループ学習
・国がプロジェクト型の学びを開発
・国が教員育成
 
オランダやフィンランドは日本と対照的に学力格差か極めて小さい
学びの個別化や協同化は学力格差の縮小に寄与する可能性

大学の多様化と初等中等教育の多様化の相互作用
学ぶ力としての学力をどうすればすべての子供たちに育むことを保障できるか=義務教育において今後第一に考えるテーマ

第二部 よい学校をつくる

相互承認の感度をどう育むか?
自己承認、他者承認、他者からの承認
そういう場としての学校であるべきなのに、いじめや体罰、空気を読み合う人間関係といった相互不信、相互嫌悪の場になっている

学級制→
・子どもたち一人一人の質の高い学びの保障<管理の効率性
・群生秩序の問題…価値観の多様化により、価値の拠り所を失ってしまった集団の中で同質性を求め、空気を読み合う人間関係を作るようになってしまった。
・人間関係の流動性がない

これからは学びの個別化、協同化、プロジェクト化を中心にした学びのあり方、人間関係の流動性を担保した学校のあり方、学校建築そのもののあり方 を考えいく必要がある。

これからの教師
・省察的実践家であるべき
そのためには教師自身がつねに「学び続ける」こと。
何か一つの方法に固執するのでなく、その時々の状況に応じて、何が最善の行為であるかを考え、見出そうとすること。
子どもたちにとって必要な他者からの信頼、承認を与えること。教師からの信頼、承認が子どもたちの自己肯定感を高める。
・親同様に子どもたちにとっての安全基地であるべき
子供に裏切られるのは多くの場合、子どもたちに対する自分の期待が裏切られたに過ぎず、それはこちらが勝手に押し付けた期待。信頼すべきは子どもたちの成長

競争主義、成果主義の教育現場は教員の資質を切り崩す恐れ→信頼し合い、助け合える環境であるべき

第三部 よい社会をつくる

過酷な競争に勝ち抜くための教育より、自分なりの生き方を見出し営むための、人生の様々な転機において再チャレンジするための力を育むべき

また、複雑化した現代社会においては競争より協同する力を育むべき

これからの教育が育むべき「教養=力能」
対立する意見を考え合わせた上で、できるだけみんなが納得できる建設的な「第3のアイデア」を見いだせる力
「あちらかこちらか」で争うのでも「正しいことなんて何もない」で済ませるのでもなく、どうすれば相互に「共通了解」を得られる考えを見出し合っていけるかと考えること。

感想

AIとの共存がこれからの時代のテーマの一つである中、今は人間にしかできない仕事の価値がどんどん高まっている。
日本は、知識詰め込み型の教育やいかに早く正確に問題を解くかという能力を問うセンター試験のような入試対策向けの授業がこれまで一般的であり、そこでは計算力や暗記力、スピードが重視されてきた。しかし、これらの能力は全てAIが人間より優れた部分である。
よって、これからの教育はAIにはできず人間にしかできない創造力や思考力、課題解決力などの能力を育んでいく教育が行われるべきだし、まさにずっと前からそれは改革中なのだろう。筆者も言うように、学びの個別化・協同化・プロジェクト化や学校空間の再設計などによって学びの効率性や多様性を高め、それにより学力格差を小さくすること、
生徒が「やらされている」のではなく「自らやっている」という意識を持って伸び伸びとやりたい勉強をやりたいときにやることができる環境作りを大人が作っていくことが大切だと思った。
また、オランダや北欧の教育先進国や日本でも先進的な取り組みをしているところの成功事例からノウハウを学ぶことができるのは幸いなことだと思う。

僕は学生時代、地理が好きだった。地理の授業中はワクワクが止まらないのだがチャイムが鳴ると教科書を机にしまい、次の授業である苦手な数学の教科書を準備しなければならない時は「え〜、もう50分経ったの〜」「まじか、これから数学かぁ、、」という物足りなさや悲しさなどの複雑な感情が溢れてきて、地理によって極限まで高まっていた集中力とモチベーションが一気に終了のチャイムによって崩れていくのだった。
しかも数学は主要3科目だから地理よりも1週間の時間数が多い。
たしかに苦手に向き合い、克服するプロセスも大事だし数学的思考を身につけることも大事だとは思う。
だけど好きな勉強よりも嫌いな勉強を多くやらなければならない制度というのは少し子どもたちにとってはかわいそうだと大人になってみて思った。
もし、1週間のうち地理が毎日それも2時間くらいあったらなぁと思うことはよくあったし、それだけやってたらもっと深みを味わうことができただろうし、もしかして全然違う道に進んでいたかもと思う。
少しでも好きなことや興味のあることがあったらその気持ちは大切にしていきたいし、そういう子どもたちの好きを思う存分突き詰められる教育や環境が増えればなぁと思った。

「なんか楽しい」「なんか面白い」といった気持ち。それは大きな花を咲かせる前の小さな小さな芽なのかもしれない。