文章をめぐるとりとめもない見解

表示上はこれがnoteでの最初の文章ということになるが、実はアカウントを作ったのはずっと前で、いくつか文章も書いている。あたらしくブログ(「note」をブログにカテゴライズするのが適当かどうかはわからないが)を始めてはやめる、文章を書いては消す、というのが私のこれまでの癖である。

なぜか?自分の中に「検閲」が働きやすいのだ。書いた後で、「くだらねえ」と思い、つい消してしまう。

そして、もう一つの理由。反応がダイレクトに来ない場所に文章を書きたいのだ。そういう意味では、印刷媒体への寄稿がもっとも理想的といえる。今、『グラフ旭川』という地元誌の中で年に2回、本の紹介コーナーに文章を書かせていただいている。2015年以来何度も繰り返し依頼されるくらいだから、それほど文才がないわけではないのだろうと自分でも思う。

たくさん書くほうではない。しかし、どうせ書くのならば、とことん細部までこだわって書くのが好きだ。そうしてできあがった文章は、時間を経て読みなおすと「これは本当に自分が書いたのか?」と思えるほどの完成度だったりする。いい意味で自分の文章に「酔う」ことができる。

もとより、自分にまつわることで自信の持てるものは少ない。自分が映った写真や映像を見るのは好きではないし(客観的な容姿レベルとは関係なく)、能力にしても、これだけは誰にも負けないと言えるものもあまりない。写真はそこそこ好評価されるものの、自分で自分を酔わせることができるほどのレベルではない。そんな中で、唯一自分で自分に「酔える」ものがあるとすれば、それは文章だけだ。

そんな文章においても、まだまだ自由に書けているとは言いがたい。自分からの「検閲」と他者からの反応が、自由に羽根をひろげるようにに書くことを抑制する。他者からの反応も自己規制というブレーキに変換されているわけだから、結局はどちらも自分のせいと言える。そんなわけで、私はとにかく書くのが遅い。

書くことへの自己規制をはずすには、とにかく書き続けるしかないのだろう。これでも昔よりはずいぶん書けるようになった(昔は自分の容姿を見るのと同じくらい、自分の文章を読むのが堪えがたかったくらいだ)。いい意味でドラッグをやっているような麻痺感が訪れるまで、書いて書いて書きまくりたい。兼好のいう「あやしうこそものぐるほしけれ」の境地をめざしたい。ただし、あとで読んで赤面しない程度に。

とにかく、「とりとめもなく」好きなように書けるようになりたいのだ。学術論文的な正確さとは対極にあるような、ハメをはずした文章が(だからと言ってフェイクを拡散したいわけではない)。「とりとめもない」とタイトルに書いておきながら、実際この文章だって「とりとめもなく」書けてはいない。

書くことは私にとって「排出」なのだ。要するに、出すことによってスッキリしたいのである。だから、他者からの反応は見ない、気にしない(それではSNSと同じ轍を踏んでしまう)。また人が何を書いていようと、それは私の書く行為とはなんの関係もない。この世でもっとも意欲を萎えさせるものは他者との比較であるということを、これまでいやというほど思い知らされてきたのだから。

せめて週1で1時間程度、文章を書くことに時間を割けるようになれたらいいな。とはいえ、これ以降また数年放置される可能性もまた十分にある。それが私という人間である。

唯一の希望は、最近SNSをやめたことによって、書くという排出欲をすべてこちらにふり向けられるということである。

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