将棋ファンがなぜ『将棋ファンがなぜ藤井聡太にこれほど熱狂するのか』にこれほどもやもやするのか

 先日、Twitter経由で上記の記事を読みました。藤井聡太新棋聖誕生時の発言に対して、感動を覚える気持ち自体は共感できます。しかし全体としては、『藤井聡太二冠の物語』を美しく描くために事実を隠している、あるいは誤解を招くような書き方をしているように感じ、将棋ファンとして読んでいてもやもやする内容でした。

 本記事は、上記の記事に対する違和感をいち将棋ファンの視点で掘り下げていく(ことによって自分の中のもやもやを解消する)ためのものです。この記事自体もあくまでいち将棋ファンの感想に過ぎないことはあらかじめご了承ください。

 ※以下、引用箇所は注釈がない限り上記の記事からのものです。


羽生善治九段の将棋観

 みなさんは羽生善治さんをご存じでしょうか? 国民栄誉賞を授与された偉大な棋士です。彼が中学生でデビューしたのが1985年。このときから将棋界は大きく変わりました。
 彼の名言の一つに「将棋はゲーム」というものがあります。いや、これのどこが名言なの? と思うでしょう。今、聞くと当たり前の言葉ですが、当時この言葉は大きな意味を持っていました。
(中略)
 将棋はあくまで盤上のゲーム。そう考える彼らはめっぽう強かった。飲む打つ買うだの、「勝負師」特有の無頼派な生き方には背を向け、徹底的に「ゲーム」が強くなることだけを考えて自らを鍛えたからです。
 羽生世代によって「将棋はただのゲーム」と定義されました。ゲームならば結局は勝つか負けるかです。だとしたら、強いのは人間より将棋ソフト(コンピューター)だよねと。

 羽生善治九段が「将棋はゲームである」という趣旨の発言をしていたことは事実です。それは「酒や遊びを含めた深い人生経験が将棋を強くする」という旧来の将棋観を否定し、「将棋に強くなるためには将棋の研究をするしかない」という割り切った考え方を提示するものでした。

 しかしそれは、「将棋はただのゲームに過ぎない(から勝ち負けが重要である)」という意味ではありません。

【羽生】将棋ではトーナメント戦の場合、つねに「ここで勝たなければ次がない」わけですからもちろん勝敗は非常に大事です。しかし、勝つことだけが「すべて」になってしまうと、将棋っていうのは、あまり存在している意味がないんじゃないかなと、思うんですよね。
【中村】結果だけでなく、プロセスも重視する?
【羽生】ええ。つまり、勝ち負けだけで決めるんだったら、それこそ、ジャンケンでも何でもいいわけです。プロが勝負した過程は「棋譜」という形でしっかりと残るんです。勝負の過程で、あっこれはすごい一手だとか、これはまったく考えもつかなかった素晴らしい新手だとか、いいものをどれだけ後世に残せるのかが、僕にとっては価値のあることだと思っているのです。
【中村】これこそ、羽生さんの理念ですね。実験的な手が見られたり、勝負どころで、思いきって踏み込んだり‥。羽生さんの将棋を拝見していると、将棋の奥義を追求したい、将棋の真理を究めたい、という想いがひしひしと伝わってきます。
【羽生】勝負の面では、多少リスクを背負っても、後世にまで伝えられ、評価されるような独自の棋譜を残すように挑戦したいんです。勝負を超越した心境で、将棋を指すことができれば最高ですね。

(出典:http://www.newair.co.jp/column/interview1/idea.html、太字は筆者)

 この「勝ち負けを決めるだけならジャンケンでいい」というのは、ご本人の著書等でもしばしば見られる羽生九段のユニークな考え方です。勝ち負けよりも過程に重きを置くことによって、将棋というゲームそのものの価値を見出そうと試みていたわけです。

 また羽生九段は、自身の将棋研究の成果や対局中の思考を感想戦(対局終了後に行う検討)等で惜しみなく開示することでも知られています。自分以外の将棋棋士は対局で戦うライバルでもあるわけですから、情報を公開することは勝負の世界において損になります。それでも羽生九段は、周囲との実力差を付けることにこだわらず、周囲のレベルを高めることで自分自身も成長するという道を選びました。それは結果として、序盤研究を中心とした定跡の進歩という形で将棋自体の価値向上に繋がっています。

 羽生九段という棋士は、まさに藤井二冠の語る「盤上の物語」に対して価値を見出そうとする、そのパイオニア的存在であるように私は思います。

 余談ですが、2013年度の棋聖戦の際に製作された下記のPVでは羽生善治三冠(当時)と渡辺明三冠(当時)の将棋観が象徴的に表現されています。(めちゃくちゃ対立煽ってますが)

 「棋士は、研究者・芸術家・勝負師という三つの顔を持つ」という棋士の性質を巧みに表現した言葉が将棋界にはあります。このフレーズの生みの親でもある谷川浩司九段は、この三要素をバランスよく持ち、状況に応じて切り替えることが理想であり、それを最も上手くできている棋士は羽生九段であると述べています。(出典:https://bunshun.jp/articles/-/10276?page=2

 一方の渡辺明現名人は、「勝ちにこだわる」という勝負師の側面を強く持つ棋士のひとりです。今期の棋聖戦では1勝3敗で藤井新棋聖に敗れたものの、その1勝は挑戦者藤井七段の作戦を徹底的に対策し「90手目頃までは想定していた」という驚異の研究量によってもぎ取ったものでした。
(参考までに、1対局の平均手数は110手前後、本局の手数は142手です)

 藤井二冠や羽生九段の将棋観とは異なるかもしれませんが、渡辺名人のように勝負にこだわる棋士の在り方もまた、将棋ファンとしては魅力的に感じます。


棋士と将棋ソフト

 で、そこから棋士とソフトは「対立の時代」を迎えます。将棋ソフトvs人間の棋士の対戦が行われるようになります。それが電王戦です。
 最強の将棋ソフトvs選ばれし棋士たち、みたいな感じで、ドワンゴだったかな、ネット会社がスポンサーについて定期的に開催されました。
 最初は人間と五分と五分だったのが、徐々に人間が劣勢になり、最後にはついに名人が負けるに至りました。そして2017年、ポナンザの作者は将棋ソフト開発からの撤退を宣言します(もうソフトの勝ちは明らかだし、これ以上、将棋ソフトの開発なんてやってたって意味ねーよ、みたいな感じでしょうかね)。
 ようは人間はコンピューターに敗北したのです。ここで将棋ファンは問われることになります。機械より弱い人間の対戦を見て何が楽しいの?と。チェスも、将棋も、囲碁も、プロなんていることに意味あるの?と。
 羽生世代によって「将棋はただのゲーム」と定義されました。ゲームならば結局は勝つか負けるかです。だとしたら、強いのは人間より将棋ソフト(コンピューター)だよねと。
 ここで離れた将棋ファンもいたかもしれません。私は残ったけれども、モヤモヤしたものは当然ありました。棋界の頂点に立つ名人が機械に負けたわけですから。

 電王戦はドワンゴが主催していたプロ棋士とコンピュータソフトによる将棋棋戦(非公式)です。第1回は引退棋士であった米長邦雄永世棋聖と将棋ソフトボンクラーズの対局、その後3回の団体戦(プロ棋士5人vs将棋ソフト5種)が行われ、さらにその後は公式棋戦である叡王戦の優勝者と電王トーナメントの優勝ソフトによる対局が2回行われました。

 「名人が負けた」のはこのうち一番最後、叡王戦の優勝者であった佐藤天彦名人(当時)が将棋ソフトPonanzaに0-2で敗れた際(2017年)のことです。流石にこの頃になると、将棋ファンの間でも「ソフトは棋士より強い」という認識が十分広まっていたことは否定できません。

 しかし、電王戦が単に人間側の敗北で終わったかのような説明や、そもそもプロ棋士と将棋ソフトが「対立の時代」を迎えたという表現には違和感があります。

 最後の電王戦で敗れた佐藤天彦名人(当時)は、終局後の記者会見で次のように述べています。

── 佐藤天彦叡王は、一棋士として電王戦6年間の意義は。
佐藤天 この6年間というのは、コンピュータ将棋が人間のトップに迫り、そして追い越すような過程をそのまま表したような年月だったのかなと思います。コンピュータ将棋ソフトという存在が人間を超えていく過程というのはとても刺激的ですし、多くのドラマを生むのだと思います。実際にそれが電王戦で起こったと思いますし、それが皆さまの目に触れられたのが、本当に素晴らしい意義だったのかなと思います。「コンピュータ将棋が人間を越えていく過程」というものが、もしかしたら顕在化しないまま超えていくということもありえたわけで、電王戦が6年間行われたことで、その人間とコンピュータ将棋ソフトのいちばん拮抗した時代の戦い、ドラマが紡がれてきたと思います。それが皆さまの目に触れながら進行していき、プロ棋士もコンピュータ将棋の開発者の方々も、そして何よりファンの皆さまがそういう時代を共有しながら、コンピュータが強くなる過程を見ることに意義があるのかなと考えています。
(出典:https://kifulog.shogi.or.jp/denou/2017/05/post-86ca.html、太字は筆者)

 電王戦の結果についてはWikipediaニコニコ大百科に詳しく記述されているためここですべての詳細を述べることはしませんが、6年間に及ぶプロ棋士と将棋ソフトの対決の中では数々の名勝負・ドラマが生まれました。

 特に印象的な対局としては、誰もが棋士側必敗と認める局面から執念の引き分けに持ち込んだ第2回第4局、数百局のソフト対局練習によって序盤からほとんど時間を使わず優勢に持ち込み棋士側が勝ち切った第3回第3局、練習中に発見した将棋ソフトの欠陥を読み切りソフト側の反則負けに持ち込んだFINAL第2局などが挙げられます。

 電王戦を観戦していた私たち将棋ファンが感じたのは、将棋ソフトの強さだけではなく、敗北したプロ棋士が局後に滲ませた悔しさであったり、「この団体戦では絶対に負けられない」という壮絶な意思であったり、ある種コンピュータを超越しているようにすら思える棋士の姿への称賛や畏怖であったりしました。「人間に匹敵する将棋ソフト」の存在は、対局する棋士の個性を際立たせ、その魅力を感じさせてくれるものでもあったのです。仮に、「最初から人間に100%勝てる将棋ソフト」のような圧倒的存在が相手であれば、この魅力は生まれてこなかったでしょう。人間とコンピュータの実力が最も拮抗した奇跡的な時代だったからこそ電王戦は成立しました。これは、連綿と紡がれてきたプロ棋士の研究や、将棋ソフト開発者の方々のたゆまぬ努力の成果に他なりません。

 電王戦によってもたらされた「人間対コンピュータ」というセンセーショナルな話題は、ニコニコ生放送を中心とする多くのメディアで取り上げられ、それまで将棋を知らなかった人もニュースで結果を知ることができるようになりました。そして、「電王戦がきっかけで将棋に興味を持った」という新しいファンの流入をもたらしています。

 結果として、将棋ソフトの登場と電王戦という舞台は将棋というコンテンツに新しい価値や拡がりをもたらしました。一般のメディアで取り上げられることさえ稀だった将棋が、より多くの人々へその魅力を発信できるようになったのです。

 また、プロ棋士にとっても、強力な将棋ソフトの登場は単なる「敵」以上の意味を持つものでした。電王戦の結果を通して「将棋ソフトが人間以上の実力を持つ」ことが知れ渡った影響で、プロ棋士の研究においても将棋ソフトが活用されるようになっています。ただし、「ソフトの手をそのまま真似すれば勝てる」という単純なものではもちろんありません。ソフトが高く評価する局面や着手に対して、人間である自分がどういった評価を下し、実際の対局においてどのように判断するのか。この問題には現在も決定的な結論が出ていませんし、今後何年も議論され続けることでしょう。ひとつ確かなことは、電王戦以後の将棋界はプロ棋士と将棋ソフトの共存の時代であり、その在り方が模索され続けているということです。

 ※筆者注
 Ponanza製作者(山本一成さん)の将棋ソフト開発引退に関する経緯についてもかなり疑問があります(直接の理由は他の将棋ソフトの強化じゃなかったかな……とか)が、正直なところ筆者は将棋ソフト事情にあまり詳しくないのでここでは省略させていただきます。詳しくご存じの方がいらっしゃったらご指摘いただけると幸いです。


将棋ソフト不正使用疑惑騒動

 一般的な話として、冤罪が立証された事件に対し当事者の名を付けることは不適切だと思いますのでWikipediaの項目名で呼称します。

 騒動の経緯については、Wikipediaや下記の記事等にまとめられています。

 この件に関しては、将棋連盟の対応に対する批判や、疑惑を発した棋士の説明責任を問う声が未だに存在しています。私自身も、騒動の関係者であった棋士の先生方に対し若干の「しこり」を抱えたままになっていることは否定できませんし、和解から3年が経過した現在においても様々な意見があって然るべき問題だったと思っています。

 ここでは一点だけ、三浦九段と将棋連盟の和解を発表する記者会見での三浦九段の発言を引用させていただきます。

三浦九段は24日の会見で、「渡辺竜王も私も他の棋士も、将棋界の発展が一番だと思っている。若手でも藤井聡太さんが活躍されている。将棋界が盛り上がっているところ。これから、将棋連盟が発展するように尽力していきたいと思っている」と心境を語った。
htps://www.huffingtonpost.jp/2017/05/24/watanabe_n_16793338.html

 騒動が起こったのは2016年10月、藤井聡太四段プロデビュー直後のことでした。そして和解が成立したのは2017年5月、藤井四段のデビュー後連勝記録が20に届こうとしており、将棋界の期待の新星に各メディアから大きな注目が集まっていたときのことです。

 この事件によって甚大な被害を受けたにも関わらず、藤井四段の活躍や将棋界の盛り上がりに水を差すまいと前向きに会見へ臨んだ三浦弘行九段の姿勢には、心打たれるものがありました。


藤井二冠と盤上の物語

 こうして羽生善治によって「ただのゲーム」と定義された将棋は、30年の時を経て、令和の今、17歳の少年によって「人間同士が盤上で綴る一遍の物語」となったのです。

 藤井聡太四段の将棋でとりわけ印象に残っているのは、元記事でも書かれている叡王戦本戦での敗局です。深浦康市九段との対局で優勢の局面から大逆転され、脇息にうずくまった場面や、投了前の最後の1手を力なく着手するシーンのことは今でも覚えています。それは私にとって、圧倒的な強さを見せ続ける藤井四段のどこか超然とした印象を覆し、彼もまた一人の人間であり、15歳の少年であり、勝負に強い思いを賭けるプロ棋士のひとりなのだということを実感させるに足る出来事でした。

 だからこそ、藤井二冠を「将棋の申し子」のように描写することに対して私は異を唱えたいと思います。藤井二冠の編み出した「盤上の物語は不変」という言葉は、今後も棋士の在り方を考える上で長く語り継がれるものとなるでしょう。しかし、その言葉に至る考え方自体は、羽生九段をはじめとした多くの棋士たちが、将棋ソフトの登場や騒動の最中で変革していく将棋界、そして自分の人生と向き合いながら見出してきたものです。

 藤井二冠は、数々のインタビューで即座にスマートな回答を導き出していることからも分かるように、非常に高い言語化能力を持っています。今後も将棋界で語り継がれていくような名言・金言を生み出し、語り継がれるようなことがあるかもしれません。ただその際には、その思想が藤井二冠の中で一から生まれ表出したものなのか、あるいは過去の棋士たちから受け継がれる意思を巧みに表現したものなのか、正確に見極めた上で後世に残していくことが必要でしょう。
(もちろん、既存の考え方を的確に言語化するというのはそれ自体称賛に値する才能であると思います)
 

重箱の隅

 ここから下は私自身のもやもや解消のため本ッ当に細かいところを指摘していくだけなので殊更読む必要はありません。

 余談ですが、某掲示板では、藤井聡太は序中盤であえて「最善手」を外して指している、という噂が根強くあります。今はどの棋士もソフトで研究しているので、最善手を指し続ける限り、相手の研究で対応されてしまう。
 だから自分が不利な状況(評価値が悪く)になっても、あえて二番手、三番手の手を指し、状況を複雑化させ、研究手順から外そうとしていると。わざと悪手を指す――噂が事実ならコンピュータではなく、人間同士の戦いだからこそ生まれる高度な心理戦です。これもまた「盤上の物語」の一つでしょう。

 藤井二冠がとにかくソフト最善手を指しまくるという話はインターネット上でもよく見かけますが、逆の話は存じ上げません。
 某掲示板の現状に詳しくないので確実なことは言えませんが、恐らく「最善手でないと判断される手を指したが、その後ソフトがより深く読みを進めるとその手が最善手であると判定された」棋聖戦第2局のようなエピソード(https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotohirofumi/20200629-00185551/)を誤解しているか、羽生善治九段の指し手で時折見られる「自分が不利な局面で相手の選択肢を広げることで局面を複雑化し逆転に繋げる手」(いわゆる『羽生マジック』)と混同されているように思います。

 話を戻します。なぜたった17年間しか生きていない少年がこの答え(盤上の物語には価値がある)にたどり着けたのでしょうか? それは彼の濃密すぎる、将棋だけに人生を捧げた17年間が言わせたのです。
 聞くところによると、藤井聡太は小学校6年間、友達と将棋以外の遊びをしたことがないそうです。鬼ごっこも、かくれんぼも、女の子とイチャイチャしたこともない。

 藤井二冠は小学生の頃、木登りやらかけっこやらが好きなわんぱく坊主だったという話があります。足がめちゃくちゃ速かったとか。
 それと、人生を捧げているかどうかまでは分かりませんが、藤井二冠がかなりの鉄道ファンであることは将棋ファンにとって周知の事実です。

 藤井聡太の偉業の一つに詰将棋解答選手権五連覇があります。彼は詰将棋のことを「作品」と呼びます。問題でも、設問でもなく、「作品」です。
 彼は詰将棋というパズルを、小説や音楽のような、作者の意図が込められた一つの「芸術」だと言っているのです(詰将棋作家たちが感激したのは言うまでもありません)。

 詰将棋を作品と呼ぶのはプロアマ問わず割と普通のことだと思います。

 ※筆者注
 「プロ予備軍のドロドロした嫉妬と憎悪が渦巻く場所が奨励会です(お互いをたたえ合うような爽やかさとは無縁の場所)」「周りはクソガキを叩きのめそうとしている」といった奨励会周りの表現に関してもかなり疑問……というか不快感がありますが、筆者は実際の奨励会について詳しいわけでもないので省略させていただきます。詳しい方がいらっしゃったら以下略。


蛇足

 ここまでお読みいただきありがとうございました。主に元記事の羽生九段まわりの話に対して感じたもやもやがきっかけで書き殴り始めた記事でしたが、書きたかったことはおおむね書けたと思うので満足しています。

 勘の鋭い方は「……こいつ、羽生九段とか他の棋士のことは大好きだけど藤井二冠のことあんまり好きじゃねえな?」と思ったかもしれません。半分くらい正解です。正確に言うと、藤井二冠の活躍は心から称賛していますし「盤上の物語は不変」という言葉にも深い感銘を受けましたが、藤井二冠に負けた方の棋士に前々から好きな先生が多い(具体的には、藤井棋聖によって王位を奪取された木村一基九段など)ので、「あんまり勝ちすぎないで……(;ω;)」と思ってしまうことがあります。複雑なんです。

 将棋ファンの性質上、好きな棋士がどんどん増えると必然的に好きな棋士同士の対局が頻発するので好きな棋士どちらかが負けるところを見なければいけなくなります。だからこれ以上新しい棋士を好きになりたくない気持ちも若干……本当に若干あります。恐らく無駄な抵抗に終わります。だって藤井二冠マジで強すぎてかっこいいんだもんな……。

 閑話休題。

 将棋というゲームは、二人の対局者が盤を挟んで向かい合うことで初めて成立する競技です。たった一人の天才がいるだけでは成立しません。一方を貶して一方を褒めるような在り方ではなく、お互いをリスペクトし合い共に高め合っていくことが将棋のあるべき姿であると思います。これは将棋のみならず、あらゆるコミュニケーションの場で言えることかもしれませんね。

 盤上に感謝と最高のコミュニケーション(※)を、そして相手には感謝と最高のリスペクトを!

 ……この記事からリスペクトが感じられるかどうかは読んでくださった皆様のご判断にお任せいたします。

 改めて、お読みいただきありがとうございました。
 何かあればツイッターまで。

(※将棋連盟キャッチコピー。出典:https://www.shogi.or.jp/about/greeting.html


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