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本能の方向。

 「この人の子どもが欲しいと思った」という感覚を、テレビや漫画や人から聞いたりもする。

 …するのだが、未だにその感覚になったことがない。そう思える人と出会えていないのか、自分の精神が稚拙でその感覚に至るだけの成長をしていないのか。多分後者だな。


 本能を忘れてしまうくらい趣味にのんのんと勤しめている。

 いまの現状をありがたいと思うべきか、楽しみながら子孫を絶やしていくことを憂うべきか。うるせーな今が大事なんだよ!!!!!!と思うオタクです。

 これだけ見た目も中身も趣味嗜好も身体的特徴も違う人類が、そもそも子孫繁栄という本能が共通してあること自体、結構奇跡だと思うのだ。本能だって多種多様でいいんじゃないの?

 子どもが欲しい、というのは性的欲求と結ばれて考えられがちだけど、本当は別だろう。無性愛者であっても子どもが欲しいと思う人はいるだろうし、性的欲求が過多な人は子どもが欲しくてそうしているわけではないだろうし。
 けれどこれだけ多くの人が結婚し子を授かり、少子化ながら子どもたちが育っているということは、子どもを切望したり緩やかに祈ったりして繋いできたという確固たる証拠で、それがナショナルスタンダード本能なのだろう。

 本能の方向が違うのだ。

 愛すべき存在を大切にしたいと思う心は同じでも、子どもを生み育てることではなく、すでにある存在に対して心血を注いでいるのだ。とはいえ私は子どもが嫌いというわけではなくて、むしろ大好きで、だからこそ産むのが怖い。無責任に産めない。

 自分ところに生まれてしまったがために不幸な目に合ったり嫌な思いをしたり、大切に育ててもいじめにあったりいじめをしたり、そういう時に自分が適切に対応できる自信が無いし(自分の子がいじめられたらいじめたやつを殴ってしまいそうだ)、何不自由なく過ごすためには安定した2人分以上の収入と家とが揃っているほうがいいと思っているし、悲しいかな子を育てる人へ潤沢な支援が受けられる国ではないし。
 そういうことを考えると私には無理だ。こういう色々な問題を乗り越えてまで、子どもを大切に育める自信がない。自分すら大切にできていないのに。

 「この人との子どもが欲しい」という感覚は、そういう責任や自信や、将来のあまり起こってほしくない陰鬱な問題を超えてまで、強く願うものなのだろうか。子どもが欲しいと思わせたその人となら、諸問題を超えられると本能が察知したからなのだろうか。

 私にはわからない。

 道楽者には子育てが向かないから、そういう本能のスイッチがオフのままなのかもしれない。

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