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まるで私だけがサボタージュ

一歩一歩、転ばないように、足元を掬われないように、自分で道を選んで進む。時には先人の教えから学び自分の進むべき道を選ぶ。全て自分ひとりで考えなければいけないというわけではない。
自分で選んだ道が正解とは限らない。人に作ってもらった道が正解とは限らない。何が正解なのか、その一歩を踏み出した時にはまだわからない。それでも前に進まなければいけない。

元気な時、元気じゃない時、ひとりでいたい時、誰かと一緒にいたい時。体調があまり良くない時、仕事も上手くいかない時。そんなことばかりだ。
それでもどんな状況でもみんな足を前に踏み出して、時には休憩をして、ゴールを目指して進んでいく。
正直、先は全く見えない。ゴールが見えればやる気が出るかもしれない。一方で、ゴールがあまりにも果てしなく先にあるのを見たらやる気を失ってしまうのかもしれない。
とにかく進んでみるしかないのだ。足を踏み入れた時点で戻れない。戻ることはできるけれど、「そこに名前を書いたじゃないか。戻ってどうするつもり?」と、誰かが問いかける。

自分との戦いだった。

メンタルというものはどん底に落ちた後は上がる以外に道はなし、と、どこかの愛すべき田中先輩が言っているのをみて学んだ。平凡なわたしは下を向いている暇もなく、そんな言葉に日々助けられている。
落ちた後は上がる以外に道はないのであれば、上がり切ったらその先には何が待っているんだろう?上がり切ったら落ちる以外にないよな、なんてわたしは考えていた。何事もピークが永遠に続くわけじゃない。それをキープできる人間もいると思うけれど、ごく一部であると思っているから。
上を目指す過程には自分や誰かを傷つけるような痛みやストレスを伴うものですから、そんな思いをするくらいならわたしは一生地上にいるのがいいのかな、と思ったりもした。わたしは上には一緒に行けないけれど、いつでも帰ってきていいよ。いつでも待っているから。と言えるような、回復スポットのようなセーブポイントのような存在でいたいと思ったりした。

セーブポイントがあったらどこに戻ろうか。そもそも全て自分で選んできたことなので戻ろうなんて烏滸がましいことを言える立場じゃなかった。でも、もっと周りに気を遣わず、自由で、色んな人に頼ることが出来る人間に。他人からの悪意であったり負の感情に流されず、自分のペースで動ける人間に。自分で決めたことは最後までやり遂げることが出来る人間に。


標高1308m。
わたしは自分の意志で、自分の足で、たしかにそこに立っていた。
色々なことを考えた。自分との戦いだった。でも、自分と向き合い続けて、時には人に助けてもらって、自分の知らない世界がまだまだたくさんあるのだということを知った。
悩みを抱えていても陽は昇るし沈むし、月日はあっという間に流れていく。それならば好きな人に好きだと伝えて過ごしたいし、嫌いな人のことを嫌いだと思ってイライラする時間がもったいないな。
そんなことをぼんやりと、考えた。

さて、登山初心者としては頂上に辿り着くことを最終目標としていたけれど、ここからまた下りなければ帰ることが出来ないのか。業績も、気温も、気分も、メンタルも、何事も上がれば上がるほどいいと思っていたけれど、ここに来て下がることの大切さを知ることになるとは。
同じ道を引き返す時は本当に見え方が違った。それは物理的に暗かった状態で見えなかったものが見えるようになったから、なんていう可愛げのないことを考えながら下山したことをわたしは忘れないだろう。


何事も頑張ろうとしすぎていたのかもしれない。時には休んでみてもいいのかもしれない。立ち止まること、下を見ること、振り返ること、来た道をそのまま戻ることは逃げじゃない。
そんなに悪いことじゃないな、と思えた日だった。

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