北朝鮮の撃術に影響を与えた一人の武術家の話

 主体撃術(撃術とも)とは北朝鮮で人民軍や諜報機関などで訓練されている武術の名称です。元朝鮮労働党作戦部工作員の安明進によると、その訓練は太い縄で体を打ったり、コンクリートや藁で作った打撃台を打ったりする壮絶なもので、死人が出るそうです北朝鮮の中でも、上陸工作の時に工作員を護衛する「案内員」と呼ばれる工作員や、朝鮮人民軍総参謀部偵察局所属24偵察大隊(平壌に駐屯。平壌の緊急時に出動する)には撃術の優れた遣い手が多いと言われています(wikipedia情報)

日本から見た撃術

 この北朝鮮の撃術の起源について、日本では拳道会空手やITFテコンドーと考えられています。拳道会空手はかつてはアカ空手とも呼ばれた空手で朝鮮学校の空手部で指導されている流派でした。総帥の中村日出夫(姜昌秀)は伝説的な空手家でしたが、同時に朝鮮総連の幹部として名前を知られていました。死後は北朝鮮の愛国烈士陵に遺骨が安置されており、朝鮮総連関係者にも弟子が多い事から、撃術に多大な影響を与えたのではないかと考えられています。中村は大山倍達と並んで格闘漫画グラップラー刃牙に登場する愚地独歩のモデルと言われており、徹底的な部位鍛錬で得た拳足を用いた垂木切りを始めとする試割の技術は北朝鮮の撃術との深いつながりが見えてきます。

 また、ITFテコンドー創始者の崔泓熙は朴正煕大統領と対立して亡命した後に北朝鮮に渡ってテコンドーの師範を養成しており、撃術に大きな影響を与えました。

謎多き武術家ユン・ビョンイン(尹炳仁)

 しかし、韓国では北朝鮮の撃術の成立について日本では知られていない一人の武術家が大きくかかわっていると見られています。韓国の大手新聞社である朝鮮日報の記事に、武術家ユン・ビョンインについて面白い記事があったので、その内容について紹介したいと思います。

 韓国テコンドーのルーツである5つの道場(青濤館、松武館、武徳館、朝鮮練武館、YMCA拳法部)の中で、彰武舘、講徳院の母体となったYMCA拳法部を創設したのがユン・ビョンイン先生だ。
 ユン・ビョンイン先生は満州拳法と沖縄空手を学び、1945年から1950年までソウルYMCA拳法部で拳法と空手を教えた。ユン・ビョンインの代表的な弟子としては、彰武舘のイ・ナムソクとキム・スンベ、講徳院のパク・チョルヒとホン・ジョンピョなどが挙げられる。国技院長と世界テコンドー連盟総裁を歴任したキム・ウンヨンもユン・ビョンインの弟子といえる。
 ユン・ビョンインは慶東中学校で体育教師をして生徒たちに拳法を教えたが、この時慶東中学校を通っていたキム・ウンヨンもユン・ビョンインから拳法を学んだ。
 ユンビョンイン先生については比較的知られていることが少ない。朝鮮戦争の時に北朝鮮に拉致されたと知られている為だ。
 米国ヒューストンに居住しているキム・ビョンス師範が長年ユン・ビョンイン先生に対する研究と取材を通じて大切な情報を込めた内容を自身のホームページ(www.kimsookarate.com)を通じて公開した。キム・ビョンス師範は講徳院のパク・チョルヒ先生とホン・ジョンピョ先生の弟子だ。

 ユン・ビョンイン先生は北朝鮮でどんな活動をしたのだろうか?
 ユン・ビョンイン先生が学んだという満州拳法は何だろうか?
 ユン・ビョンイン先生と日本の空手家、遠山寛賢との関係はどうなのか?

 依然として研究すべき課題が多いが、キム・ビョンス師範はユン・ビョンイン先生の足跡を以下の様にまとめている。

グランドマスター ユン・ビョンイン

以下、キム・ビョンス師範の文章を要約しながらユン・ビョンインの足跡について紹介していきます

 ユン・ビョンインは1920年5月18日、満州奉川でビール醸造所を運営するユン・ミョングンの3人のうち2番目に生まれました。ユン・ビョンインの祖父であるユン・ヨンヒョンは朝鮮の両班(朝鮮における貴族階級の名称)出身でした。1909年、帝国主義の日本が朝鮮を占領すると、ユン・ヨンヒョンは地位を失い日帝との葛藤を避けるために家族を連れて満州に移住しました。ユン・ヨンヒョンの家族は経済的に困難を経験しました。後に長男のユン・ミョングンがビール醸造所の運営に成功して、一族は貧困から抜け出しました。

 ユン・ビョンインは小学校に通っていた時代にモンゴル族の先生から拳法を学びました。ユン・ビョンインの第二のいとこであるユン・ビョンブの証言によると、当時のほとんどの満州における拳法の師匠はモンゴルから来たといいます。ユン・ビョンブはユン・ビョンインについて「典型的な武人」と表現しました。

 ユンビョンインは彼の拳法修練を中学校でも持続しました。ユン・ビョンブは「ユン・ビョンインはとても強かった。戦わなければならない時があれば戦ったが、相手をひどく傷つける事はせず、相手の行動を制圧する程度にとどめた」と付け加えています。

 ユン・ビョンインは比較的穏やかな幼年期を過ごしたのですが、右手に深刻な傷を負って苦労しました。やけどによって右手の指の半分を失わなければならなかったのです。彼はこの傷を見せないために大衆の前に立ったり武道指導をするときに常に白い手袋をはめていました。後に彼の弟子たちは、師匠に対する尊敬を表わすために師匠に倣って白い手袋を着用していました。

1938年、ユン・ビョンインは高校を卒業し、東京の日本大学に留学することになります。日本大学は当時は名門大学であり、ユン・ビョンインは学業成績にも優れた学生だった事が伺えます。一般的に東洋文化では長男が特別な扱いを受け、海外留学も長男が行くことになる筈でしたが、次男のユン・ビョンインは彼の家で日本留学を行った唯一の人でした。

 ユン・ビョンインは日本大学で1939年から1941年まで農学を専攻しました。ユンビョンインは日本大学に通っていた時に空手の名人である遠山寬賢と、ある事件をきっかけにして知り合う事になりました。

 遠山寬賢は当時日本大学の教授であり、日本大学空手部の先生でした。空手部には韓国人留学生もいました。そんな空手を学ぶ韓国人留学生の一人がガールフレンドと遊んで空手修練をサボりがちになるという出来事がありました。日本人修練生たちはこの韓国人修練生を殴って道場から追い出したのです。この韓国人修練生はユン・ビョンインが拳法を修練することを知っていました。ユン・ビョンインは大学庭園にある大きな木を殴りながら着実に修練していた為です。ユン・ビョンインが殴った木はどんどん底に傾いていくほどでした。この韓国人修練生はユンビョンインに空手学生たちから自分を助けてもらうよう頼みました「あなたも韓国人であり、私も韓国人だ。空手部員が私を殴らないように助けてください」ユン・ビョンインはこれを受け入れ、韓国人修練生をいじめようとする空手学生に向かって自分の拳法を持って行動に乗り出しました。ユン・ビョンインは空手の生徒たちとの対決で上手に彼らの攻撃を避けて制圧し、敗北を認めた空手の生徒たちは、この事実を師匠の遠山寬賢に語りました。

 幸いなことに、広大な度量を持っていた遠山寬賢は、ユン・ビョンインを招待して自分の弟子たちを倒した技術について語ってもらうよう要請しました。

 ユン・ビョンインは満州で学んだ拳法を遠山寬賢に説明しました。遠山寬賢は台湾で7年間中国の拳法を学んだことがあったため、拳法をよく理解できました。

 この出来事をきっかけに遠山寬賢とユンビョンインは武術的な学びを交流することにしました。ユンビョンインは遠山寬賢に拳法を教え、遠山寬賢はユンビョンインに修道館空手を教えました。後にユン・ビョンインは日本大学空手師範となり遠山寬賢から空手四段を認められます。当時、遠山寬賢は空手五段だったが、これを見るとユンビョンインが弟子の中では最高のレベルの一人だったことが分かります。

 1945年8月15日、日本が敗北した後、ユン・ビョンインは韓国に戻りました。ユン・ビョンインの家族は当時北朝鮮にあったが、韓国に定住することに決めました。ユン・ビョンインの兄であるユン・ビョンドゥは兵役義務によって北朝鮮軍に入隊し、1946年から1950年まで服務することになります。

 ユン・ビョンインはソウルに定住した。ユン・ビョンインには日本大学空手時代から親しい2人の友人が居ました。チョンサンソプとユンゲビョンです。チョン・サンソプは朝鮮練武館の空手部の師範でした。

 当時、朝鮮練武館は日本柔道講道館の朝鮮代表支部でした。チョン・サンソプはユン・ビョンインを朝鮮練武館に招請し、拳法と空手を教えるようにしました。ユン・ビョンインはYMCAに招待されるまで朝鮮練武館で6ヶ月間教えた。

 1946年頃に発刊された遠山寬賢の本には、ユンビョンインが朝鮮YMCAの責任指導師範と表記されています。この本はユンケビョンが韓武館の責任師範と表記されている。ユン・ビョンインとユン・ケビョンは共に4段で記録されています。

 ユン・ビョンインはYMCAをはじめ多くの場所で教えました。彼は成均館大学、京城農業学校などでも拳法と空手を教えました。ユン・ビョンインは韓国の初代大統領である李承晩の警護員に任命されたのですがこれを拒絶してしまいました。拒絶した理由の1つは、右手を挙げて敬礼しなければならない軍隊式敬礼法によるものでした。ユン・ビョンインは幼い頃に負ったやけどで右手の指が欠けており、これを恥じて隠すことを望んだためです。

 ユン・ビョンインは1949年にイム・スンドクと結婚。ユン・ビョンインの妻はすぐに妊娠し、1949年12月5日に娘ユン・ヨンスクが生まれました。しかし、残念ながらユン・ビョンインに娘を見る時間はあまりありませんでした。

北朝鮮に渡ったユン・ビョンイン

 1950年6月に朝鮮戦争(6.25戦争)が勃発し、韓国は混乱に陥りました。1950年8月、ユン・ビョンインの兄ユン・ビョンドゥが北朝鮮の人民軍大尉として彼の目の前に現れます。ユン・ビョンドゥはユン・ビョンインに「私はあなたの兄弟であり、あなたは私と一緒に行かなければなりません」と言いました。

 1951年7月10日、北朝鮮と国連間の平和協定が始まった時、ユン・ビョンインは巨済島捕虜収容所にいました。ユン・ビョンインは家族と一緒に韓国に住みたいと思っていたのですが、一緒に捕虜収容所にいた人民軍捕虜たちが、ユン・ビョンインが韓国を選択するのを防いだため、妻子を残して北朝鮮に渡る事になりました。

 1966年1月から1967年8月まで、ユン・ビョンインは北朝鮮政府体育委員会によって撃術(特殊戦闘訓練)を平壌の体育特殊部員たちに指導することになります。この期間中、体育委員会はユン・ビョンインに結婚を勧めました。ユン・ビョンインは結婚して二人の子供を得ました。娘(1966年または67年生まれ)と息子ユン・テウォン(1968年生まれ)です。

 1967年12月、北朝鮮政府傘下の国際体育会は「撃術は国際スポーツではない。政府は撃術プログラムを取り消すことにした」と通知し、ユン・ビョンインはセメント工場に送られてしまいました。その後、1969年または1970年に北朝鮮はチェ・ホンヒのITFテコンドーを国家武術として受け入れます。ユン・ビョンインによって訓練された撃術指導者たちが北朝鮮がITFを受け入れて活性化するのに利用されたと推測されています。

 以上、引用終わり。

まとめ

 韓国においてWTテコンドーの成立にも影響を与えた武術家ユン・ビョンイン(尹炳仁)が北朝鮮の武術の成立にも影響を与えたという説が唱えられているのは面白いですね。