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異端跆拳道史(最新更新日:23/09/13)

テコンドーとは?

 テコンドー (태권도)は、朝鮮半島の武道・武芸です。戦闘や護身術だけではなくスポーツや運動を組み合わせたものであり、鍛錬方法の一種であるキョルギ(組手、スパーリング)は、2000 年からオリンピックの種目となっています。
 韓国語では、テ(태、跆) は「足で叩く、または壊す」という意味です。コン (권、拳) は「拳で打つ、または壊す」という意味です。そしてドー(도、道)は「生き方」を意味します。

 テコンドーは、1940 年代から 50 年代にかけて、韓国の伝統的な武道 (テッキョンなど)、 沖縄の空手、その他にもカンフーなどの伝統的な武術を部分的に組み合わせたものとして、さまざまな韓国の武術家達によって開発されました。テコンドーという名前は一般に崔泓熙(チェ・ホンヒ) 将軍の功績とされていますが、世界テコンドー(WT、旧・世界テコンドー連盟)は、テコンドーの発展は九大道場のメンバーで構成された評議会による共同作業であったと主張しています(この会議の議事録の一部は韓国語の本『テコンドー現代史』に掲載されている)。一方、国際テコンドー連盟(ITF)は崔泓熙の功績のみを称賛しています。
 伝統的なテコンドーは通常、1940 年代から1960 年代に韓国軍・警察および学校や大学を含むさまざまな民間組織で確立された武道を指します。
 人によってはこれらの様々なテコンドーのうち軍隊で崔泓熙将軍が作ったITFテコンドーと民間で様々な武道指導者が作ったWTテコンドー、そしてそれらが確立する以前に稽古されていた技術である伝統的テコンドーと呼んで区別する人もいます。

 WTテコンドー(スポーツテコンドー、または国技院スタイルのテコンドーと呼ばれることもあります)は、伝統的なテコンドーの後に開発され、特にスピードと競技 (オリンピックなど) に重点を置くという点でその他のテコンドーとは若干異なる点を持っているのですが、それらの技術体系の核には護身術であるということが残されています。そのため、WTテコンドーをスポーツテコンドーという呼び方をする事がありますが、全てのWTテコンドーがスポーツテコンドーではないという点に注意してください。
 また、スポーツテコンドーという言葉には、一般的に対義語の様に使われるITFテコンドー(国際テコンドー連盟)すらもスポーツテコンドーの一形態と呼ぶ人もいます。そして、前述のように、伝統的テコンドーの一種と呼ぶ著者もいます。したがって「伝統的」と「スポーツ」という用語は使う人によって定義が異なり、しばしば矛盾して使用されています。

 2 つの主要なスタイルでのスパーリングとさまざまな組織間のスパーリングの間には教義的および技術的な違いがありますが、この芸術は一般に、立ち技での打撃(キックやパンチ)に重点を置いています。テコンドーのトレーニングには通常、ブロック、キック、パンチ、および徒手空拳のシステムが含まれており、道場によってはさまざまなテイクダウンやスイープ、投げ、関節技が含まれる場合もあります。更にはツボを使用したり、日本の柔道、韓国の合気道、韓国のレスリングやシルムなどの他の武道から取り入れた護身術が使用される場合もあります。あまり一般的ではありませんが、テコンドーには武器の訓練が含まれる場合すらあります。

大韓民国初代大統領李承晩

 テコンドーの誕生について話す時、大韓民国初代大統領、李承晩(イスンマン)を無視して話を進める事は出来ません。李承晩は李氏朝鮮時代の1875年に没落貴族(両班)の子供として生まれ、朝鮮最初の近代教育機関の培材学堂でアメリカ人宣教師より学び、英語などの語学を始めとした近代的な学問を修めました。一時は皇帝高宗に勘気をこうむり投獄されますが、やがて、日露戦争等を経て日本の影響が大きくなり、朝鮮半島の独立が危ぶまれると、釈放されアメリカへ使者として派遣されています。その後、アメリカに残ってプリンストン大学に入学して博士号を取得。そのころ、日韓併合によって祖国の大韓帝国が無くなると、その後は「日本人」としてハワイに居を構えながら、朝鮮独立運動に関わります。李承晩は日本を終生忌み嫌っており、併合以前の李氏朝鮮を「東洋の理想国家」であったと積極的に言論活動を展開し、『日本=野蛮国論』という言説を作り出しました。この言説はアメリカが東アジアに政治介入する政策の根拠となりました。

 1919年に上海で大韓民国臨時政府が結成されると、李承晩は初代大統領に就任します。勿論、日本の統治下においては有名無実な肩書でしたが、第二次世界大戦が終わると朝鮮半島に帰還し、大韓民国の初代大統領に就任し、民族主義的な政策を推し進めました。
 朝鮮戦争を経て、長年憎悪していた日本の国力が急速に回復していく姿を見ると、強い危機感を覚え、「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」と国民に注意を呼びかけ、日本帝国主義の侵略性とその韓国への悪意を子供達に教え込むように命令しました。「日本は韓半島に残してきた財産を取り戻すために戦後、再び韓国へ来るはずだ」と考えていた李承晩は急いで海軍を育成し「海軍が困難なら商船でもいいので数多く建造せよ」と語ったほど、日本を警戒していました。そして、日本海の公海上に李承晩ラインと呼ばれる線を勝手に制定し、このラインを超えた日本の漁船を徹底的に拿捕しました。300隻以上、4000人近い日本人の漁師を拘束し、そのなかで44名もの死傷者を出しました。在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業に対しても「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」として強く非難し、これを阻止する為に工作員を日本に送り込んで担当職員の暗殺ならびに爆破テロ(新潟日赤センター爆破未遂事件)を企てました。李承晩の日本嫌いのエピソードには枚挙に暇なく、1954年のサッカーワールドカップ予選では日本戦を前にする韓国代表に対して「もし負けたら、玄界灘に身を投げろ」と命じたというエピソードも残っています。更に、試合自体も、本来は大韓民国でも行われる予定でしたが、「侵略者を国内に入れる事は許さない」として、二試合とも日本で試合をする事を命じました。今の韓国で親日派(韓国人の「親日」とは日本による植民地支配に協力した者の事で、日本人が使う日本が好きな韓国人という意味ではない事に注意)として断罪される事は、社会的に抹殺されるに等しくなってしまったのも李承晩の影響です。兎に角、李承晩は徹底的に日本を嫌っていました。
 テコンドーと言う武道が生まれたきっかけは、1954年に陸軍少将だった崔泓熙将軍率いる第29歩兵部隊が李承晩大統領の前であろうことか日本武道である空手の演武を行ってしまった事でした。

「ITFテコンドーの創始者」崔泓熙

 一般的にITFテコンドーの創始者として知られる崔泓熙の前半生については様々な説が知られています。彼の著書やインタビューを基にするならば、彼の略歴は以下のようになります。

 1918年11月9日、当時日本の統治下にあった朝鮮半島北部の咸鏡北道明川郡で醸造所を営む父親の元に生まれ、光州事件に端を発した光州学生独立運動に幼き身を投じ、在籍する学校では抗議活動のリーダーを務めて学校を追い出され、15歳で高名な書道家でテッキョンの達人でもあったハン・イルドンから書道とテッキョンを学びました。その後、1938年に京都へ渡ると友人のキム・ヒョンスと一緒に同志社大学の空手の稽古を見学し、それから何日後に空手の稽古を始めるようになり間もなく初段を取得します。(キムヒョンス氏は本人インタビューによれば友人とされていますが、その他の資料によっては空手の師として扱われる事もあり、真偽不明)その後、東京に渡り中央大学法学部に入学すると、船越義珍の元で松濤館空手を学び、二段を取得。この頃から友人の尹炳仁(ユンピョンイン)と共に、東京YMCAビルの屋上で空手を教え始めます。その後、1944年に徴兵されて平壌へと配属されると、白頭山での朝鮮人民革命軍に参加する為の計画が露見したために反逆罪で投獄されてしまいます。終戦後は韓国軍に入隊し1951年までに准将に昇進し、朝鮮戦争を経て1954年には少将に昇進。軍隊内に唐手道場「吾道館」を設立し後にテコンドーの創始者となりました。

 一方で、アレックス・ギリ―著「キリングアート」によれば、崔泓熙は幼少期に父親が愛人を作り実母と離婚する等、過酷な環境で育ったとされています。父親が酒とギャンブルに溺れ、賭けに敗れて醸造所を手放し、若き愛人と死別して崔泓熙の実母と復縁するまで、殆ど母と会えない生活が続き、家族を養うために仕事をしていました。書道の教師からテッキョンを学び、十代後半で結婚して子供も居たとされています。また、幼少期からギャンブルを好み、特に花札(ファトゥ)が得意でした。19歳の頃、花札の元締めが不正行為をしている事を見抜いた崔泓熙は元締めをインクボトルで殴り倒してしまいます。警察から逃れる為に鉄道で釜山まで移動し、そして京都へと渡りました。京都で数ヶ月暮らしていると、同郷の人間から花札の元締めが未だ生きており、崔泓熙の命を狙っている事を教えられると、その元締めの復讐に備えて京都で空手を学び始めます。その後、4年間を京都で過ごし中学(旧制。現在の高校にあたる)を卒業しています。卒業後に故郷へ戻ると、1943年に日本軍によって徴兵され、平壌の第30師団に駐屯。駐屯地で29名の朝鮮人兵士とともに脱走を企てるも失敗し反逆罪で投獄されたと記載されています。

 また、崔泓熙の武道歴についても諸説ある状態で、韓国の歴史学者のホ・インウクは崔泓熙が船越義珍から空手を学んだ証拠が残っていない事から、松濤館で空手を学んだ事は事実であっても誰から学んでいたかは不明であるとしています。また、ホ・インウクは東京YMCAで空手を指導していた頃に尹炳仁(元々、中国拳法家で遠山寛賢から空手を学ぶ)から中国武術を学んだという説も提唱しています。

国技跆拳道の創造

 様々な説はあっても共通する事として、崔泓熙将軍は日本に留学している頃に松濤館空手を学んでおり、帰国後に大韓民国軍設立に関わると、自身の空手の技術に研究開発を重ね、蒼軒流空手と名付けて指揮下の部隊への指導・普及を行っていたという事です。
 そして、その部隊の空手演武を見た李承晩は「それは我が国に昔からあったテッキョンか? これ(自分の拳を指さしながら)で壊したね? テッキョンがいい。これを全軍に教えるべきだ」と、崔泓熙将軍に伝えました。
 長年、朝鮮半島を離れており、日本の支配下の朝鮮半島を知らなかった李承晩は空手もテッキョンもよく分かっていませんでした。つまり、彼は目の前の兵士達の武道を日本の武道ではなく韓国のテッキョンだと勘違いして、崔泓熙将軍に普及を命じたのです。
 とはいえ、崔泓熙将軍にとって自身の技術はかつて学んだテッキョンそのものではなく、かといって従来の空手とも違う蒼軒流という自身が研究開発した全く別の武術でした。大統領の命令を受けた崔泓熙将軍は翌年の1955年に民族の歴史に詳しい学者などを参集した「名称制定委員会」を開いて、自身の蒼軒流空手の名称を「跆拳道(テコンドー)」と定めました。
 この時代の新聞記事(朝鮮日報1956年7月26日)に次のような記事が掲載されています。

「来る 29 日にテコンドー(태拳道=旧唐手道)青濤館では、テコンドー第14回特別演武大会を本社後援のもとで29日午後5時から奬忠壇陸軍体育館 で開催することになった。しかし、雨天の場合は8月 5日に延期される。同大会は、特に大統領から名称をテコンドーに改めよとする親筆揮毫をもらっており、今回は改名記念として大会が開かれたということである」

朝鮮日報1956年7月26日

 その後、1959年9月、韓国全土から崔泓熙の弟子のみならず、空手や中国拳法などの道場の館長らが集まり、投票によって崔泓熙を代表とする「大韓跆拳道協会」が創立され、新たな民族武術としてテコンドーという言葉が公式に使われる様になります。この頃、既に大韓民国は日本から独立を果たしてから14年もの月日が流れていました。独立後に空手を学び始めた若い修練者を中心に空手・唐手ではなくテコンドーという新しい名称を使い、新たな民族武術が誕生する事を歓迎する空気感がありました。
 しかし、日本統治時代を知る各地の道場主・指導者はまだまだ空手に対する意識が強く、テコンドーという名称に対する反発が多くあったのも事実です。例えば、日本統治下の南満州鉄道出身で空手と中国拳法を学んだ武徳館館長の黄琦(ファンキ)はテコンドーではなく手縛道(スバクドー)という名称を使う事に拘っていました。また、日本大学留学中に船越義珍に直接松濤館流の空手を学び四段の段位を得ていた盧秉直(ノピョンジク)、船越義珍に並ぶ空手の大家とされた遠山寛賢から空手を学び五段を得ていた尹快炳(ユンケビョン)(日本名:尹曦炳、尼山曦炳)とその弟子の李鐘祐(イジョンウ)、元々中国拳法を学び、日本に渡った後に尹快炳同様に遠山寛賢に空手を学び東京YMCAで崔泓熙とともに空手を教えていた尹炳仁の弟子である李南石(イナムソク)などは空手道を主張して、テコンドーという名称の使用に反対していました。
 しかし、当時の崔将軍は李承晩大統領と国軍を背景にした大きな権力を持っていたため、民間の組織・道場に対して一方的な力関係を持っていました。その為、韓国中の空手・唐手・拳法の道場が「テコンドー」に看板を変える事になります。そして、そのことが遠因となり、軍隊の崔泓熙将軍が主張するテコンドー派と民間の空手・唐手道場主の間に対立構造が生まれる事となりました。
 この頃、テコンドーを名乗っている民間道場の多くは崔泓熙将軍が作った蒼軒流とは別の技術体系で中身は空手のままで修練を行っていました。
 大韓跆拳道協会創立直後の1959年10月に刊行された『跆拳道教本』(著:崔泓熙)には当時のテコンドーの型名が掲載されているのですが、「元々、多くの流派に分かれていたため、型の種類は多い。本来型というものは、知って練習して完全に自分のものとする以外、必要ないものである。それ故たくさんの型を覚える必要はなく、覚えた型は試合を通して自分のものにするのが大事である」と型について説明し、以下の三つの流派がテコンドーの流派とその型であると紹介しています。

「小林流:太極(一段~三段)、平安(一段~五段)、拔塞(大・小)、
観空、燕飛、岩鶴
昭霊流:鉄騎(一段~三段)、十手、半月、慈恩
蒼軒流:花郞、忠武、乙支、三一、忠壯(初版のみ雩南)」

『跆拳道教本』(著:崔泓熙)

 ここで、小林流と昭霊流はいずれも空手の流派であり、いずれも空手の型でしたが、蒼軒流として挙げられたものは崔泓熙将軍オリジナルの型であり、いずれも朝鮮半島の歴史から創作された型でした。

李承晩失脚。崔泓熙と旧唐手界の対立

 1960年に李承晩大統領が失脚。民族武術としての「テコンドー」を前面からバックアップしていた大統領の失脚と、1961年の軍事クーデターで崔泓熙の政敵にあたる朴正煕が大統領に就任した事で、流れが変わってきます。
 先ず、韓国中の空手道場を併合して「テコンドー」化を進めていた崔泓熙将軍が朴大統領との対立から軍職を退き、マレーシア大使として韓国を離れる事になります。これにより、軍部からの影響が弱くなった「大韓跆拳道協会」は1961年に「大韓跆手道協会」に改名してしまいます。
 この跆手道(テスドー)という名称について、崔泓熙派の道場主たちは反対し、そのまま跆拳道を使う様に主張したのですが、他の道場の館長らの反対によって、結局、跆拳道の「跆」と空手道の「手」を1文字ずつ取って、跆手道になってしまいました。1962年には「大韓跆手道協会」が主催となる合同昇段審査が開かれ。技術の統一に向けた話し合いが進み、更に1963年には全国大会が開かれて、組手競技のルールが制定されます(この当時は、松濤館流よりも寧ろ、尹快炳らが学んだ修道館空手・防具空手の影響が強く、剣道の胴を流用した防具制フルコンタクトルールでした)など民間武術としての整備が進んでいきます。しかし、1964年に崔泓熙が帰国して「大韓跆手道協会」の会長に就任すると、翌1965年には再び協会名を「大韓跆拳道協会」と改称させます。しかしながら、国内の道場主からの反発は大きく、翌年には理事らによる不信任決議が起こり、1966年に崔泓熙は会長職を追われ、松武館の盧秉直が「大韓跆拳道協会」会長に就任します。一方の崔泓熙は世界へのテコンドー普及を目的として、同1966年に「国際テコンドー連盟(ITF)」を設立して総裁に就任します。この頃から、現在におけるITFテコンドーとWTテコンドーの分裂は明確になってきています。
 1971年、「大韓跆拳道協会」の会長として、外交官として名前を知られていた金雲龍(キムウンヨン)が選ばれました。当時の金雲龍は若干40歳の若い官僚でした。テコンドー五段の段位を持っていましたが、武道家としての技量によって選ばれたのではなく、外交官としての経歴を買われての会長就任でした。金雲龍は駐米大使館参事官を経て、国連代表部勤務、青瓦台秘書室米国担当秘書官を歴任した華々しい経歴の持ち主でした。就任直後に朴正煕大統領に「国技跆拳道」という文字を書いてもらい、これを大量にコピーして全ての道場に飾る様に指示を出しました。これによって、テコンドーは韓国国技としての地位を人為的に作りだしたのでした。この様に、「大韓跆拳道協会」は政治的なバックアップを受けながら、テコンドーの国際競技化を進めていく事になります。また、「大韓跆拳道協会」は技術体系を融合させるための中央道場として、1972年に韓国国技院を開館します。
 この頃、崔泓熙は朴正煕大統領から命を狙われた事が原因でカナダに亡命し、「国際テコンドー連盟(ITF)」の本部をカナダに移転させているのですが、これに応じて金雲龍は国際競技の開催と普及活動の為の担当機関として「世界テコンドー連盟(WTF)」(現「世界テコンドー(WT)」)を設立。テコンドーの二大流派は明確に分裂していく事になります。

九大道場(Nine Kwans)と元老達

 韓国併合、韓国独立から朝鮮戦争までの間、韓国では空手や拳法を指導する道場が九つありました。1970年頃にはこれら九つの道場の傘下として3千余りの支部があり、有段者の数も10万人を超えていました。この頃、大韓跆拳道協会会長だった金雲龍は武術家としての側面よりも寧ろ政治家としての側面が強く、スポーツによる国際交流と共に誕生間もない韓国という国を世界に知らせることを目標にしていたため、早急に国内の複雑な組織を一元化する必要がありました。一部に不満の声があったものの、協会は一元的な運営体制を目指したので、1972年に韓国国技院を建立し、1978年には完全に道場を統廃合して国技院による技術の一元化が始まります。これにより、民族武術としての「テコンドー」が成立していく事になります。それでは、先ずは九つの基幹道場の成り立ちを紹介していきたいと思います。

九大道場のシンボルマーク

 

一、青濤館(チョンドグァン/청도관)

開祖の李元國(イウォングク)は日本の中央大学在学中に船越義珍より松濤館空手を学び四段の段位を得た後に韓国に帰国し、太平洋戦争中の1944年に開館。一九四七年には李承晩より親日派(日本への植民地支配の協力者)の危険分子とみなされて投獄されます。1950年に釈放されるも、朝鮮戦争の混乱を避けて日本へ亡命。以降は弟子の孫德成(ソンドクソン)が道場を継ぎました。館長の孫德成と師範の玄鐘明(ヒョンジョンミョン)はテコンドーの名称を制定する「名称制定委員会」に崔泓熙将軍を除くと唯一の空手家として出席していました。また、出身者の南太煕(ナムテヒ)は崔泓熙の副官として活躍したり、青濤館出身者が軍隊内部の道場(後述する吾道館)で指導を行ったりと、軍隊との関りが大きく、1959年には崔泓熙将軍を名誉館長として迎え入れています。
青濤館の主な分館には、九大道場にカウントされない道場の中にも

国武館(クンムグァン/국무관)
李元國の弟子、姜瑞鍾が1953年に開いた道場。1960年から姜瑞鍾は陸軍の指揮官となり従軍。退役後にアメリカに渡るとアメリカテコンドー協会(ATA)の初代会長を務め、その後は国際テコンドー連盟(ITF)の副会長も務めました。
ジョンリーテコンドー
 南太熙の弟子で、「アメリカテコンドーの父」として知られる李俊九(イジュング)(通称:ジョンリー)が興した流派です。ジョンリーはブルース・リーと親交があり、彼に蹴りを教え、彼から突きを学んだとされています。

などがあります。

【主な出身者】
李元國(イウォングク、이원국)
(1907 年 4 月 13 日 – 2002 年 2 月 2 日)
韓国において現代テコンドーの始祖とされる人物。船越義珍・義豪の弟子。中央大学で法学を専攻し卒業は法務省で務める。1944年に韓国に帰国した後、日本占領政府の阿部信行から空手を教える許可を得て青濤会を設立。戦後は警察や軍隊に空手道を指導。最大で5万人以上の弟子が集まった。1947 年に李承晩大統領から弟子達を連れて自分を支持すれば内務大臣に任命すると打診を受けたが拒否したため、親日派というレッテルを張られ、テロ組織のリーダーであるとして逮捕された。1950 年に釈放された後に日本に亡命。Duk Sung Sonに道場の直接の指導を任せて院政を敷く。 1976 年に妻とともに米国に移住。

李元國

孫德成(ソンドクソン、손덕성)
(1922年6月17日 - 2011年3月29日)
元々はボクシングを学んでいたが、1942年に帰国間もない李元國の弟子となる。李が日本に亡命したのちに青濤館の二代目館長となると、ソウル警察や第8軍(アメリカ軍)で指導。韓国陸軍の首席教官に任命されると、崔泓熙将軍と親睦を深め、崔泓熙将軍に名誉四段を授与する。名称制定委員に参加。その後、軍隊と密接なかかわりを持ち始めた青濤館で内部分裂が起きると追放され、米国に移住してテコンドー指導者となる。

孫德成

嚴雲奎(オムウンギュ、엄운규)
(1929年12月23日〜2017年6月12日)
青濤館の三代目館長。韓国国技院院長。蹴りの名手として知られ、後ろ横蹴り(뒤돌아 옆차기)や二段横蹴り、後ろ回し蹴り(뒤돌려차기)などの蹴りを作った。

1950年代半ばの嚴雲奎(左)

二、正道館(ジョンドグァン/정도관)
青濤館の分館。李元國の弟子、李龍雨(イヨンウ)が1956年に開いた道場。李龍雨は世界テコンドー連盟(WTF)で活動を続け、国技院の昇段委員を務めました。

三、吾道館(オドグァン/오도관)
1953年に崔泓熙将軍が大韓民国陸軍の体育プログラムの一環として設立しました。崔泓熙の副官だった南太熙が共同創設者を務めました。南は青濤館出身者で、朝鮮戦争で白兵戦により武勲を立てた事で崔泓熙に取り立てられ、1954年に李承晩の前で演武を行った際にも瓦14枚を叩き割る演武を見せました。吾道館設立当初は南太熙や二代目館長の玄鐘明など青濤館出身の指導者が多かった為、韓国では青濤館の兄弟館としてみられていますが、技術としては松濤館空手ではなく崔泓熙が独自に研究開発して作った蒼軒流唐手を指導していました。後に軍隊だけではなく韓国警察や大学などの民間にも指導の幅を広げていく事になります。また、蒼軒流の型は1966年に設立された国際テコンドー連盟(ITF)へ受け継がれて世界へと広まっていきました。崔泓熙がカナダに亡命すると、道場の統廃合を受けて韓国国技院の中に吸収されていくのですが、WTテコンドーのプムセ制定の際には半ば意図的に蒼軒流の型は外される事になります。

四、松武館(ソンムグァン/송무관)
開祖の盧秉直は東京大学留学中に李元國と共に船越義珍から松濤館空手を学びました。俗説では松濤の二文字を青濤館と分け合ったと言われていますが、これは根拠が乏しいと見られています。開館は1944年とも1945年ともいわれています。初期の松武館では巻き藁(部位鍛錬)や筋力トレーニングなどを重視しており、練習の最初に巻き藁を一〇〇回叩く事を生徒達に課していました。一歩組手、三歩組手、自由組手、型を審査の項目とし、昇段の際には試割りも審査項目として課していた事が記録として残されています。盧秉直はその後、大韓跆拳道協会の会長を務めた後、世界テコンドー連盟(WTF)の顧問となりました。盧秉直自身は松濤館以外の流派も学んでいたとされており、ローハイや五十四歩などの形も指導していました。

五、智道館(チドグァン/지도관)
旧称:朝鮮研武舘拳法部。元々は朝鮮研武館という柔道道場で1943年頃から田祥燮(チョンサンソプ)が空手道を教え始めた事が源流です。田祥燮は戦後になって本格的に空手部を設立しました(この時、空手ではなく拳法の名前で指導していたという説もあります)。朝鮮戦争で田祥燮が北朝鮮に亡命すると、指導員だった尹快炳が引き継ぎ、これを元に智道館という道場を設立します。尹快炳は日本に留学していた時に、遠山寛賢の元で空手を学び、五段の段位を与えられていた人物した。戦後、GHQの政策によって武道が禁止された日本において、尹快炳は朝鮮籍という立場を利用して、東京中野に韓武舘という道場を設立し、館長職を務めました。韓武舘は尹快炳の韓国帰国後に閉鎖され、後継道場として作られた錬武舘は今日では防具空手の老舗として知られています。尹快炳はその経験を活かし、大韓跆拳道協会内においては競技化の中心人物となりました。防具を付けてのフルコンタクトというWTテコンドーのルールは、1960年代に智道館が中心となって作ったものと言われています。尹快炳自身は空手に拘り続けて日本空手界との交流も続けていましたが、軍事政権下では抗い続ける事も出来ず、弟子たちの多くがテコンドーを名乗って彼から離れていくなかで、尹は武道界から姿を消しています。その後、尹快炳は韓国ヤクルトのCEOやソウル大学教授を歴任し、実業家・獣医学者としてその名前を歴史に残すことになります。
 智道館の二代目館長、李鍾佑(イジョンウ)は韓国独立後に唐手・テコンドーを学んだ世代の中で代表的な人物の1人でした。大韓空手道連盟が結成された際には事務局長を務め、智道館では常に中心的な役割を果たしました。また、1960年代大韓テコンドー協会を中心にテコンドー界が統合・体系化され国旗院が設立される際にも主要な役割を果たしています。国技院がプムセを制定する際にも中心的な役割を担い、後に国技院の副院長となっています。韓国の軍事独裁政権下でテコンドーの歴史は隠蔽・捏造され二十年近く「5000年の歴史を持った民族武術」という嘘を喧伝していたのですが、民主化後の韓国において2004年に「テコンドーは空手由来だ」と真実を告発した当時の国技院副院長が李鍾佑でした。

六、韓武館(ハンムグァン/한무관)
 朝鮮研武館で田祥燮に拳法を学んでいた李敎允が朝鮮戦争後に作った道場です。大韓跆拳道協会に加盟し、道場の統廃合によって韓国国技院に吸収されています。李敎允は韓国国技院で活動をつづけました。

七、彰武館(チャンムグァン/창무관)
 1946年に尹炳仁が設立したYMCA拳法部を前身とする道場です。尹炳仁は満州でモンゴル人から拳法を学び、その後は日本で遠山寛賢から空手を学んで五段の段位を与えられていました。遠山自身が台湾で中国拳法を学んだ経験があった為、尹炳仁の中国拳法を高く評価したと言われています。(韓国では遠山寛賢と共に武術を研究した共同研究者の様に言われていますが、親子ほどの年齢差を考えれば、尹炳仁を持ち上げ過ぎかもしれません)尹炳仁自身は朝鮮戦争の混乱に乗じて故郷のある北朝鮮に渡っており、以降は弟子の李南石が館長を引き継ぎ、道場名を彰武館と改めました。テコンドーの後ろ回し蹴りはこの道場で始まったという説もあります。
 また、世界テコンドー連盟(WTF)の総裁を務めた金雲龍もこの道場の出身でした。

八、講徳院(クァンドクウォン/강덕원)
 彰武館の改名について反対した尹炳仁の一部の弟子達(洪政杓と朴喆熙)によって作られた道場。この道場では特に前蹴り、後ろ足からの蹴り、手技の活用法を研究して成果を収めたという。打撃の瞬間に力を与えることを強調し、実戦で使えるように腕を後ろに引く予備動作を無くした突きや手刀と、やはり予備動作が省略された速い蹴りが特徴だった。指導した拳法は、八極拳、土祖山、短拳、長拳、太祖拳、太極拳などであり、「三步対打」、「七本対打」なども修練していました。
 朴喆熙は1946年からYMCA拳法部で拳法を学び、朝鮮戦争後は陸軍テコンドー教官として招聘されます。1956年には「破邪拳法」という本を執筆しました。1959年の全国武術個人選手権大会でテッキョンを継承していたソンドクギと出会うと、ソンドクギからテッキョンを学ぶ。1971年には米国に渡り、韓国と米国を行き来してテコンドーを普及しました。

九、武徳館(ムドックァン/무덕관)

開祖の黄琦。武徳館の道着は現在のWTテコンドーの黒襟道着の元となっている。

 1946年に黄琦が鉄道局内に設立した運輸部友会唐手道部を前身とする道場です。元々、黄埼は南満州鉄道に勤務しており、その時に武道を習得したと言われています。この時、習得した武道に関しては中国人拳法家の楊麴震(楊鞠振とも)から「国術(クックスール)」という中国拳法を学んだと黄埼自身は主張しているのですが、これに関して韓国国内では疑問視する声も少なくありません。また、南満州鉄道に勤務していた時代に日本人から空手を学んだと言う説もあり、現在まで続いている武徳館のでは平安やナイファンチなどの空手の型も多く残されています。ただし、黄埼自身は日本人から空手を学んだ事自体は否定をしていました。空手に関しては満鉄勤務時代に勤務地によって楊麴震から直接中国拳法を学べない時期があり、この頃に図書館で琉球唐手に関する書籍(船越義珍著『琉球拳法 唐手』や『錬膽護身 唐手術』)を読んで唐手を独学したと述べています。特に60年代に米軍の将校が撮影した武徳館の形の動画と船越義珍の形の動画を見比べてみると一定の相似性が見られる事から、少なくとも独学で空手を学んでいたということは事実でしょう。1960年代に在韓米軍の軍人が撮影した映像を見る限り、初期のころの武徳館のナイハンチ立ちの足幅は現在の松濤館空手のような広いスタンスではなく、大正11年に書かれた『琉球拳法 唐手』や大正15年に書かれた『錬膽護身 唐手術』のころの様に狭いスタンスで立っている事も確認されます。
 また、武徳館の初期のころの昇段審査には盧秉直や李元國も訪れていた事から、青濤館や松武館とも交流があったようです。青濤館には実際に入門して練習していた時期もある様です。また、満州時代に中国とのパイプを持っていたことから中韓唐手道交流会など中国拳法と技術交流を深めたり、50年代から李氏朝鮮時代の武術書である武芸図譜通志を参考にして型などの開発を始めたことが記録として残されています。
 武徳館は鉄道局の広いネットワークから韓国中に支部を持っており、多くの修練者を抱えていた為、ほかの多くの道場がその存在を無視することはできませんでした。
 大韓テコンドー協会による韓国武道界の統一が始まると、黄埼自身は競技化を反対していたため、自身の武術を韓国の伝統武術である手縛の名前を付けて手縛道とし、大韓テコンドー協会との対立を選びます。その事が原因で弟子達と対立し、武徳館は分裂してしまいます。
 武芸図譜通志からの技術流入を認める「手搏道」と武芸図譜通志からの技術流入を認めない「唐手道武徳館」、そしてテコンドーに合流した「テコンドー武徳館」と別れ、武徳館は現在までの命脈を保っています。 

1949年に出版された武徳館の教本。黄琦著『花手道教本』
1949年に撮影された集合写真。左から盧秉直(松武館)、不明、尹炳仁(YMCA拳法部)、田祥燮(朝鮮研部館)、李元國(青濤館)

国技院創設と世界テコンドー連盟創設

 これらの基幹道場を併合した韓国国技院が主導となって成立させた流派が今日のWTテコンドーと呼ばれる流派になります。その為、アメリカなどの、テコンドー流派の多様性が見られる国では、WTテコンドーの事を国技院スタイル(クッキウォンスタイル)と呼んでいます。

 韓国国技院は1973年に成立した世界テコンドー連盟(のちの世界テコンドー)を通じて、国際化を推し進めます。また、世界テコンドー連盟の総裁の金雲龍は1975年にIOC(国際オリンピック委員会)が管轄する国際競技連盟に世界テコンドー連盟を加盟させ、テコンドーを国際的スポーツとして認めさせることに成功します。アジア競技大会やオリンピックなどの国際大会でテコンドーが正式種目として採択される事を目指しての加盟でした。これにより、国技院スタイルのWTテコンドーはスポーツとしての側面が強くなっていきます。
 
 基幹道場が創設された当初は現在の様なWTテコンドー競技はありませんでした。多くの道場で自由組手は日本の空手と同様に寸止め形式で行っていたという記録も残されており、例えば、武徳館の古い映像に残された自由組手も寸止め形式で行う物でした。一方、智道館の場合は自由組手の時に他の館の寸止め方式とは違い、剣道防具を用いたフルコンタクトルール(直接打撃)で行っていたという記録が残っている様に、自由組手の方式はバラバラでした。1960年代に入ると、大韓跆拳道協会(ただし、大韓跆手道協会と改称していた頃)が主導となって競技ルールの制定を目指します。そして、1962年の全国体育大会(日本で言う国民体育大会のようなスポーツ大会)ではデモンストレーション種目として参加し、1963年に全国体育大会の正式種目となりました。また、1965年にはテスドーからテコンドーに改名し、以降は全国体育大会の正式種目として定着します。
 最初は防具を付けてのフルコンタクトと言うだけしかルールは決まっておらず、1962年の段階では全国体育大会の跆手道競技のルールには「足をかけて相手を倒すこと(許容)、顔の攻撃禁止(正拳)」という説明しかなかった為、安全性など様々な問題点が浮き彫りになりました。その後、中段突き・蹴りが1点で上段蹴りが2点という得点のルールが定められ、審判、階級、試合時間、得点、技術、減点・禁止事項、施設、用具などの項目について仔細を定めました。ただし、当時の競技用具は竹で作った防具で、簡単に壊れて負傷する選手が出てくるなど、十分に安全性が確保された物とは言えませんでした。
 1970年代に入って世界テコンドー連盟が作られると、国際スポーツとしての地位を獲得するべく、競技の安全性に重点を置いてルール改訂や用具の開発を進めました。1973年には「第一回世界跆拳道選手権大会」、1974年は「第一回アジア跆拳道選手権大会」が開催されました。ルールだけではなく技術的な面でも進歩が見られ、国際競技を経験した選手たちによりステップ技術が使われ始めたと言われています。同じ階級にもかかわらず相対的に身体が小さかった韓国の選手たちは、外国の選手のリーチの長さを乗り越えなければならなかった為、ステップやフェイントを使って距離を迫る方法を研究しました。これにより、競技化の初期にはジャンプまたは、パワーを中心に行われた攻撃が、ステップと共にスピードを利用してタイミングを重視とする攻撃へ変化していきました。
 
 金雲龍は汚職と横領を繰り返し、「悪の元凶」とまで言われる事のある人物でした。六ヵ国語を堪能に使いこなす言語力と一度会った人の顔と名前を決して忘れないと言う記憶力を発揮し、権謀術数と人心掌握術に長けた人物でもありました。汚職と横領で作った金をいかんなく発揮した贈収賄やロビー活動などを繰り返す事で、1980年にはいよいよIOC(国際オリンピック委員会)の国際連盟に世界テコンドー連盟を加入させる事に成功します。これによりWTテコンドーのオリンピック参入に王手が掛かります。
更に、金雲龍は1988年のオリンピック開催地を決める際にも暗躍しました。元々、1988年の夏季オリンピックの開催地は日本の名古屋で9割方決まり切っていました。アジア圏での開催をしたいというIOCの意向があったため、名古屋と韓国の首都ソウルが最終的な候補地として残っていたのですが、当時の韓国は北朝鮮との関係も悪く、もしも韓国開催になった場合はソ連を始めとした東側諸国がボイコットする可能性も濃厚でした。そのため、IOCの内部でも名古屋での開催という方向で話し合いが進んでいました。しかし、ソウル五輪組織委員会においても要職にあった金雲龍は、当時のIOC会長だったサマランチと深い関係を結んでいき、更にアディダスのホルスト・ダスラー社長を篭絡します。「ソウルが五輪招致に成功したら、ソウル五輪に関する全ての商業的権利、テレビ放映権、コイン、切手、マスコットの権利を10億ドルで君に売るよ」という金雲龍の一言でアディダスはソウルについてしまいました。そして、結果的にはソウル五輪が開催され、テコンドーは公開種目としてオリンピック参加を果たします。

 余談ですが、名古屋五輪だったら公開種目としてオリンピック種目になっていたのは日本の空手でした。その為、韓国では名古屋五輪になった場合に備えて空手選手を育成する必要がありました。そこで、韓国政府は一人の日本人空手家に空手を広める事を依頼します。空手家の名前は塩谷巌。田中角栄のボディガードであり、当時日本武道振興のために活動していた財団法人東興協会の理事長を務める程の人物でした。東興協会について塩谷氏は「皇室だよ、わかりやすく言えば。昭和天皇の従兄弟の東久邇宮 稔彦さん(終戦後初の首相)が創設されたんだ。初めは柔、剣道、女子にはお華、お茶など、武道と情操教育を奨励するのを目的として創られたんだよ」と語っています。当時の韓国はまだ軍事独裁政権下で、民間レベルでの文化交流すらなかった当時の韓国人の反日感情は現在の比ではありません。李承晩時代から始まった反日教育を受けた人々は日本人を忌み嫌っていましたし、戒厳令下であまりに危険な国だった為、日本人は誰も韓国に行けなかった時代でした。そんな韓国に塩谷は単騎で足を踏み入れます。周りは敵だらけと言う環境で塩谷は空手を指導しました。しかし、1981年のIOC総会で名古屋はソウルに敗北してしまい、テコンドーが五輪の種目となってしまいました。そこで塩谷氏はそのまま韓国に残ってテコンドーを修行し、日本にテコンドーを持ち帰ってきます。この時、塩谷氏が立ち上げた道場が神奈川の「イーグル会」であり、この道場はオリンピックという国際舞台で日本人が勝つ為に立ち上げた道場でした。そして、この道場の出身者である岡本依子は見事、2000年のシドニー五輪で銅メダルを獲得しています。

トゥルとプムセ

参考文献

朴 周鳳(2011)「韓国における伝統武芸の創造」,早稲田大学大学院人間科学研究科
鄭 卿元(2016)「テコンドーの起源問題と競技スポーツの形成過程に関する歴史的研究」早稲田大学大学院スポーツ科学研究科
나무위키. https://namu.wiki/(参照2020-11-04)
ITF テコンドー東京「キムズノート.https://www.taekwondo-net.com/archives/kimsnote/(参照2020-11-04)
Taekwondo Wiki .https://taekwondo.fandom.com/wiki/Main_Page(参照2020-11-04)