養老孟司氏と成田悠輔氏の対談動画を観て

「わかる」は深い。
「わかる」とは何だ?
「わからない」がある事をなかなか人は認めない事も含めて。

例えばインターネットを通して、
投げかけた事をみんなが自分と同じように思ってくれると疑わなくなる時があり(エコーチェンバー現象がその例。)「わかる」者同士の集まりは生まれそれが「ある」。

(分かってもらってるという)共感の裏側に隠れたアンチがあり、分かり合えない・理解できないそれが「ある」。

つまり「わかる」人に対しては優しく、「わからない」人に対しては残酷。それらが両側面に「ある」。

お互いの共感の、
裏側を見よう・知ろうとできるか?
裏側をどう認められるか?
裏側はわかろうとしてくれるだろうか?


わからないのは当たり前。
わかってもらえたら喜べばいい。

(他人を)いじるな耕すな。
わからせようとするほど、わかってもらえないから。耕さないで自然に生きるという言葉は深い。明日の自分の生き方や子ども達との関わりを見直そうと思った。

「わかる」「わからない」の言葉から生まれたしがらみは、そこから生まれるかもしれないからだ。

そもそも、わかりあおうとするより、わかりあえないかもしれないという考えから始めないと、自分が振るった物差しでこの複雑な世界は余計に複雑になってしまわないか?

つまり、「人間同士の分断は現実にある」という考え方を見て見ぬふりして「分かり合える」と理想していたんだなという気づきがある。

その絶望から人とのコミュニケーションのあり方を再構築していく事が大切なんだと思う。

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