見出し画像

「子どもたちはどういう暮らしぶりをするのかな」──佐伯さんの発表

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第14回(全17回)

2019年度から開催されてきた「サンデー・インタビュアーズ」のプロジェクトも、2022年度でひとつの区切りを迎えることになった。2022年度には2022年度の参加者たちと毎月ワークショップを開催してきたけれど、それとは別のタイムラインとして、昨年度までに「サンデー・インタビュアーズ」として活動した数名が、ワークショップを通じて気になったテーマを深掘りしようと、活動を続けてきた。その中間報告会が開催されたのは、10月23日のことだった。

「自分が前から関心があったのは、世田谷のイメージはいつから変わったのかということなんです」。最初の発表者となった佐伯研さんはそう切り出した。世田谷には、現在では高級住宅地というイメージが根づいている。ただ、都心に近い高輪で育った佐伯さんには、明治41年生まれの祖母が「世田谷一帯は昔、“都下”と言っていた」のだと語っていた記憶がある。あるいは、昭和13年生まれの母の時代には、赤坂から世田谷へ引っ越す人が「都落ち」と噂されていたのだと聞いたことがあるのだという。

ただ、そこから時代が下って昭和50年代になると、物件を探していた佐伯さんの父は「住むなら世田谷じゃないとな」と語っていた。ほとんど同じようなエリアでも、世田谷から狛江市に入ると地価が下がるのだけれども、父は世田谷に住むことにこだわっていたのだ、と。郊外の田園地帯というイメージだった世田谷は、いつ、どのようにして高級住宅街というイメージに変わっていったのか──?

佐伯さんが注目したのは、『世田谷クロニクル1936-83』にアーカイブされているいくつかの映像だ。

ひとつは、No.70の『誠5歳9ヶ月、由美3歳11ヶ月』。用賀に暮らす提供者が、砧公園で開催されたこどもたちの運動会を撮影したフィルムだ。その他に佐伯さんが注目したのが、No.64『理容店1』とNo.66『理容店2』。提供者の義母が営む下北沢の理容店が記録されたフィルムである。

「このフィルムは、どれも1970年代に撮影されたものなんです」と佐伯さん。「この『誠5歳9ヶ月、由美3歳11ヶ月』を見ますと、背景はまだ未舗装ですし、砧公園のまわりにもほとんど高い建物がないんですよね。それに比べると、同じ時代でも下北沢はもうすでに街並みが出来上がっているんです。ただ、下北沢のほうは白黒の映像で、用賀はカラーフィルムという対比も面白いなと思ったんですよね」

世田谷の町並みはどのように変わってきたのか。その変遷をさぐっていたとき、佐伯さんが見つけたのが「東京時層地図」というアプリだった。明治時代から現代に至るまで、東京23区(および近隣地区)の地図を表示できるアプリだ。「僕はこの東京時層地図を見ているだけで、日本酒5合飲めるかなと思いました」と佐伯さんは笑う。この「東京時層地図」を使って、佐伯さんは用賀と下北沢の宅地化の歴史を辿ってゆく。

「下北沢と用賀、戦前と戦後の街並みを比較しながら、ひとつの街を立体的に把握することの面白さが伝わってくる発表でした」。中間報告を受け、松本篤さんが言う。ここまでのリサーチを踏まえた上で、半年後に迎える最終的な発表はどんな着地点になりそうか、誰かにはなしをきくとすれば、どんな人に話をきこうと考えているのかと、松本さんが質問を投げかけた。

「最終着地をどうするか──そこはまだ考え中なんです」と佐伯さん。「さきほどの地図の中に、たとえば茶沢通りというのがあるんですね。この茶沢通りは、もともとは一本横にある通りがメインストリートだったという話も聞いたことがあって。昔の地図を見ると、たしかにその道が表記されているので、自分の地元の変遷も調べてみたいなと思っているところです」

「佐伯さんは世田谷区にご在住ということもあるので、『だれかにきく』というアプローチだけではなくて、佐伯さんご自身がリサーチ探索機のようにして、『世田谷クロニクル』の映像に映っている場所を歩き直されたり、ご自身が生まれ育った場所を散策されたりして、そこで気づいたことを拾っていくアプローチもあるのかなと思いました」

この中間報告を経て、佐伯さんはまさに「リサーチ探索機」のように、自身の興味・関心を深掘りする方向に向かった。1月22日に開催された最終報告会で、佐伯さんは「家系遡りと佐伯家三代の暮らしぶりの変遷」と題して発表をおこなった。

「ちょっと分量が多くて申し訳ないんですけども、僕は家系を遡って、佐伯家三代の暮らしぶりの変遷について調べてみました」。発表の冒頭、佐伯さんはそう切り出した。「うちの家系はもともと松山に菩提寺があるということで、去年、先祖参りの旅をしたんですよね。30年ぶりぐらいに墓参りをしつつ、佐伯家のルーツについて住職さんにはお話を聞けたらいいかなと思って、松山に行ってきました」

佐伯さんのルーツは愛媛県松山市にあった。

佐伯さんがまず訪ねたのは佐伯家の菩提寺だ。住職に過去帳を確認してもらって、佐伯家のルーツを聞けたらと思って菩提寺を訪ねてみたものの、そこは太平洋戦争のときに空襲に遭い、過去帳も何もかも消失してしまっていた。それならばと、次は佐伯家のお墓のあるお寺に足を運んだ。だが、30年ぶりに訪れてみると、佐伯家のお墓は墓じまいされてしまっており、遺骨は共同供養塔に納められていた。住職に話を聞いてみると、お墓の所有者とは10年以上連絡がとれず、しばらくお墓に立て札を掲げていたものの音信不通だったため、墓じまいをしたとのことだった。ただ、そこで住職にはなしをきいてみたことで、「佐伯家がこのお寺の近所にあったので、先々代の住職との付き合いから、菩提寺とは異なるこのお寺にお墓を置くことになった」のだということが判明した。

墓がなくなっていたことに呆然としながらも、「せっかく松山まできたのだから」と、佐伯さんは調査を続けた。当時のことを知る住職がいなくても、資料に“きく”ことで、なにか見えてくるものがあるのではないかと考えたのだ。近くにあった図書館に立ち寄り、戦後すぐの地図を確かめると、お墓のある寺のそばに「佐伯」と書かれた区画を発見する。佐伯さんの祖父はすでに上京していたけれど、誰か親類が松山に暮らし続けていたのかもしれない。

その時代を知る人がいなくなっても、8ミリフィルムや資料には記録が残り続ける。松山から東京に戻った佐伯さんは、資料に“きく”ことを考えた。頼りになったのは戸籍だった。

佐伯さんの祖父は、明治32(1900)年に松山で生まれている。祖父は家業を継がずに上京し、東京商科大学(現在の一橋大学)の一期生となった。なかば高等遊民のように暮らしていた祖父は、やがて結婚し、昭和3(1928)年に長男が誕生している。この長男というのは、佐伯さんから見れば叔父にあたる人物で、戸籍には「荏原郡大崎町」の住所が出生地として記されていた。この番地は、「東京時層地図」にもしっかり表示されていた。祖父が上京したころにはもう山手線が開通しており、線路沿いに住宅地が生まれつつあるのが地図で確認できる。この時代──大正時代に「サラリーマン」という階層が誕生し、中産階級が増加するにつれて東京は西に拡大し、宅地化が進んでゆく。この宅地化と「サラリーマン」の変遷について、佐伯さんの発表は話が広がってゆく。

「われわれの世代は『新人類』と呼ばれたこともありました。ただ、長時間労働は当たり前だったし、ハラスメントにはまったく無頓着だし、昭和のサラリーマンの風習が色濃く残っていたのが実際のところです。ただ、21世紀に入ったころから、ガラッと変わってきたように思います。この先、東京四世代目になるこどもたちはどういう暮らしぶりをするのかなと、ちょっと想像していました」

ところで、「東京第一世代」にあたる祖父が居を構えた「荏原郡大崎町」について、佐伯さんの母は「ドレメのそば」と語っていたのだという。「ドレメ」とは、大正15(1926)年に開校した杉野ドレスメーカー学院である。サラリーマンがモダンで新しいものだった時代には、洋裁もとびきりモダンな文化だったはずだ。その新しい文化が似つかわしい場所は、新しく宅地化が進む「郊外」だったのだろう。

「私の職場の介護現場にいるおばあさんにも、『私は昔、ドレメに通っていたのよ』という方がいらしたんです」。佐伯さんの発表を受けて、土田さんがコメントする。「そのときはドレメのことを知らなかったので、『ドレメって何ですか?』と聞き返した経験があったんですけど、去年の夏にドレメの近くを通る機会があったので、そこを写真に撮りました」

「目黒といえばドレメというぐらい、有名だったみたいです」と佐伯さん。「目黒駅にも『ドレスメーカー女学院』と書かれた大きな看板があって、それは僕も非常に印象に残っています」

佐伯さんの祖父が上大崎に居を構えたのも、この地にドレスメーカー学院が開校したのも、およそ100年前のことだ。その時代は、ちょうど関東大震災が発生した時期とも重なっている。関東大震災で下町が壊滅的な被害を被ったことも、東京が西に広がっていく契機となったとされている。

極私的な記憶を辿り、昔の地図に“きく”ことで、時代の精神が浮かび上がってくる。100年後の世界を生きる誰かが、令和の東京の地図を見返したとき、そこにどんな時代を見出すだろう。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]