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「ハイカラなものが好きな母の趣味でつけたと思う」──やながわさんの発表

昭和の世田谷を写した8ミリフィルムの映像を手がかりに、“わたしたちの現在地” をさぐるロスジェネ世代の余暇活動「サンデー・インタビュアーズ」。月に1度オンラインで集い〈みる、はなす、きく〉の3ステップに取り組みます。ライターの橋本倫史さんによる記録です。

連載第16回(全17回)

人の関心は十人十色だ。

サンデー・インタビュアーズの取組に並走していると、そのことを実感する。数十年前に撮影された8ミリフィルムの映像を見て、たとえ同じポイントでタイムコードを切ったとしても、画面に映し出されるどの部分に目が留まるかは、人によってまるで違ってくる。やながわかなこさんが強く興味を惹かれたのは「くるパー看板」だった。

「私が気になったのは、No.64の『理容店1』とNo.66『理容店2』に出てくる、ノナカという美容室の看板なんです」。中間報告の発表のとき、やながわさんはそう語っていた。「ここに映っているくるくるまわる看板──この“くるパー看板”のある風景を掘り起こしていくっていうことを、私はやっていきたいなと思っています。“くるパー看板があった風景”という過去の話ではなくて、もっと今現在にも続く話として、“くるパー看板がある風景”とタイトルをつけました」

“くるパー看板”とは、昭和の理美容室の店頭によく飾られていた、くるくるまわる看板だ。現在でも理容室の店頭でよく見かける、青と赤と白がくるくるまわっている看板──こちらは「サインポール」と呼ばれる──と混同されがちだが、両者は別物だ。注意深く街を観察していれば、ごく稀に“くるパー看板”を見かけることがある。その独特な形状の看板を通じて、8ミリフィルムが撮影されていた時代につながることができる──やながわさんがまず惹かれたのは、その昭和の遺物的な魅力だった。

インターネットで調査を進めると、SNSを中心に「くるパー看板」と呼ばれていることに気づく。名前がつけられたことが契機となって認知が広がり、「うちの近所にも“くるパー看板”がある」と集合知のように全国から情報が寄せられていた。“くるパー看板”について調べるうちに、理容室のサインポールにも愛好家がいること、くるパー看板の修理をしている集団がいること、サインポールや標識を集めて資料館をつくっている人がいること──さまざまな愛好家がいることを知ったのだと、やながわさんは語る。

「最初はくるパー看板っていうモノに注目していたんですけど、だんだん輪郭がまとまってきて、看板のあった時代の暮らしですとか、そこで働いている人たちですとか──モノだけじゃなくて、そこに“ひと”っていう視点も加えてみようかなというふうに、調べているうちに変わってきました。最終的にインタビューしたいと思っている美容室が3つありまして、そのうちのどこかに話をききにいきたいと思っています。ただ、この『理容店1』と『理容店2』に映っているノナカという美容室は、今でも同じ場所にあると佐伯さんから教えてもらったので、もうここに行ってきくしかないだろうと思っているところです」

やながわさんは精力的に調査を重ね、時にオンラインで、時に対面で、大勢の人たちに話をきいてまわった。インターネットで“くるパー看板”という名前をつけたひと。「全理連」(全国理容生活衛生同業組合連合会)の教育広報課のひと。自宅を改装してサインポール美術館をオープンしたひと。やながわさんの母が40年通う美容室を営むひと。1月22日におこなわれた最終発表会には、たくさんのひとの声が反映されていた。

「この数年間、コロナ禍でなかなか人に会うことができなかったんですけど、対面でインタビューをすると、人が話すときにスイッチが入る瞬間というのを感じることができて、すごく感動したんです」。やながわさんはインタビューを振り返ってそう語っていた。「顔つきが変わったり、目が輝き出したり──きっと頭の中では今話している映像が再生されているんだろうなと感じられるシーンがあって、すごく感動しました。その一方で、オンラインにはオンラインの良さがあって、“くるパー看板”の命名者の方や、詳しい人から情報を提供してもらうこともできて、とても良い経験ができたなと思いました。結局、誰に何をどうやってきくかというより、誰と出遭えるかが重要なんだなと、すごく腑に落ちた感じがしました」

数多くの人にインタビューした中でも、やながわさんが「本丸」と形容したのは、8ミリフィルムに記録されていた下北沢の美容室「ノナカ」へのインタビューだ。やながわさんは現在茨城県に暮らしているけれど、インタビューのため久しぶりに下北沢まで足を運んだのだという。

「去年の12月に下北沢に行って、ノナカの方にインタビューしてきました。今お店を継がれているのは、3代目の野中康吉さんと言います。事前にメールで挨拶状を送っておいたんですけど、そのメールが読めていなかったみたいで、突然茨城からやってきた人に『髪を切ってくれ』と言われたことに驚かれてました」

やながわさんは改めて事情を説明して、『世田谷クロニクル1936-83』にアーカイブされている映像の中に昭和40年代の下北沢の様子が記録されていて、そこに「ノナカ」の姿も収められていることを店主に伝えた。その上で、髪を切ってもらいながら、1時間ほど話を聞かせてもらったという。

「くるパー看板の思い出はありますかときいたところ、野中さんは『ひらべったい看板』と呼んでいて、ちゃんと記憶にあるということでした。昭和60年ごろまではあったそうなんですけど、『たぶんハイカラなものが好きな母の趣味でつけたんだと思う』とおっしゃってました。あと、『世田谷クロニクル』の映像では確認できなかったんですけど、くるパー看板には『(全美連の)組合のロゴが入っていたと思う』と。やはり美容組合に入っていないと、そういう看板は作れなかったのかなという感じがします」

理容師や美容師の業界にはいくつかの「組合」が存在する。やながわさんの発表は、戦前・戦後を通じた美容師の歴史にも話が及んだ。かつて美容師の世界はとても厳しく、最初は丁稚のようにして住み込みで働き、厳しい見習い期間を経てようやく一人前の美容師として扱われるようになったのだという。

「うちのおじいちゃんは茨城で工場をやっていたんですけど、昔は集団就職で福島から高校生たちを呼んだって話も聞いていて、擬似家族的な職場だったらしいんです。『世田谷クロニクル1936-83』の映像を見ていても、理容室の皆で社員旅行に出かけたりして仲良しな感じもあって。修業が厳しくて大変なこともあったと思うんですけど、そういうところも振り返って知りたいなと思いました」

「集団就職」世代の若者たちを「若い根っこの会」として組織化した加藤日出男は、『証言・高度成長期への証言(下)』の中で、昭和30年代前半は店員・工員・お手伝いさんが集団就職先の「御三家」だったところから、昭和30年代後半になると大工や左官、看護師や理美容師といった技能職に変化してきたのだと回想している。下北沢の理容室や美容室にもきっと、集団就職で上京した誰かが働いていたのだろう。

「野中さんは、この『理容店1』『理容店2』が撮影されたころは6歳ぐらいだったと言っていました。この映像に映っている理容室の男の子のことは知らないそうなんですけど、理容室にはすごく怖いおじさんがいたことをおぼえているという話をされてました」

『理容店1』と『理容店2』を撮影したのは、下北沢で理容店を営んでいたご家族だ。それは「ノナカ」とはまた別のお店で、現在は残念ながら閉店されてしまっているのだという。一方の「ノナカ」も、8ミリフィルムに撮影された時台には1階が店舗で2階が住居になっていたところから、数年前にリニューアル工事を施した。現在は1階をテナントとして貸し、美容室は2階で営業している。

「お店の名前も、『ノナカ美容室』だったところから、現在は『hair NONAKA』に改名されているんです」と、やながわさんは言う。「今から10年前に母から美容室を受け継がれたそうなんですけど、康吉さんとしては名前の入っている店名が嫌だったそうなんですね。昭和の美容室というと、たとえば『アイコ美容室』みたいに名前が入っているものが多いと思うんですけど、それが嫌だった、と。だから自分の代になったときに店名を変えたかったそうなんですけど、まだ母親の意見が強くて、『今まで代々続いてきた店名を変えるなんて』と反対されて、せめてもの抵抗として『hair NONAKA』と横文字にされたそうです。康吉さんの考えとしては、もしノナカ美容室に高橋さんという美容師さんが働いていたとしたら、『ノナカ美容室の高橋』と名前が二つ入ってしまうのが嫌だったそうなんですね。看板役者という言葉もありますけど、野中さんは『美容師ひとりひとりが看板になるべきだ』と考えているらしくて、店主の名前は店名に入れたくないんだとおっしゃってました」

集団就職の時代には、「金の卵」として上京した若者たちが美容師や理容師として働いていたのだろう。もしかしたら、厳しい修業にも耐えながら働く若者たち──当時の康吉さんからすればお兄さんやお姉さんたち──の姿に触れながら育ってきたから、康吉さんはそう考えるようになったのかもしれない。くるパー看板という、「昭和レトロ」な情緒を感じさせるアイテムから出発したやながわさんの発表は、戦後という時代を生きたひとびとの姿が浮かび上がってくるものだった。

「最近、昭和レトロブームだと言われたり、昭和レトロ特集の番組をよく見かけるようになったりして、私自身、もやもやしているところがあったんです」。発表の最後に、やながわさんはそう語っていた。「なんでもやもやしていたのか、取材を終えてわかったんです。『昭和レトロ』という切り口で特集を組んでいる番組って、現象を外側から俯瞰している感じがして、そこにいる個人に注目してないからなんじゃないか、って。その面白がり方にはリスペクトが欠けるというか、昭和レトロ=古い人みたいな感じがあって、そこにもやもやしてたのかなと気づきました。そうじゃなくて、もっと時代の中の小さな歴史や個人に注目したいなと、あらためて思いました」

「くるパー看板」がそうだったように、名前がつけられることによって浮かび上がってくるものがある。その一方で、「昭和」という言葉でくくってしまうことで、見落としてしまうものがある。「昭和」という時代にあったひとりひとりの人生のことを、『世田谷クロニクル1936-83』の映像を見つめながら想像する。

文=橋本倫史(はしもと・ともふみ)
1982年広島県生まれ。2007年『en-taxi』(扶桑社)に寄稿し、ライターとして活動をはじめる。同年にリトルマガジン『HB』を創刊。以降『hb paper』『SKETCHBOOK』『月刊ドライブイン』『不忍界隈』などいくつものリトルプレスを手がける。近著に『月刊ドライブイン』(筑摩書房、2019)『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』(本の雑誌社、2019)、『東京の古本屋』(本の雑誌社、2021)、『水納島再訪』(講談社、2022)。

サンデー・インタビュアーズ
昭和の世田谷を写した8ミリフィルムを手がかりに、“わたしたちの現在地” を探求するロスト・ジェネレーション世代による余暇活動。地域映像アーカイブ『世田谷クロニクル1936-83』上に公開されている84の映像を毎月ひとつずつ選んで、公募メンバー自身がメディア(媒介)となって、オンラインとオフラインをゆるやかにつなげていく3つのステップ《みる、はなす、きく》に取り組んでいます。本テキストは、オンライン上で行うワークショップ《STEP-2 みんなで“はなす”》部分で交わされた語りの記録です。サンデーインタビュアーズは「GAYA|移動する中心」*の一環として実施しています。
https://aha.ne.jp/si/

*「GAYA|移動する中心」は、昭和の世田谷をうつした8ミリフィルムのデジタルデータを活用し、映像を介した語りの場を創出するコミュニティ・アーカイブプロジェクト。映像の再生をきっかけに紡がれた個々の語りを拾い上げ、プロジェクトを共に動かす担い手づくりを目指し、東京アートポイント計画の一環として実施しています。

主催:東京都、公益財団法人東京都歴史文化財団 アーツカウンシル東京、公益財団法人せたがや文化財団 生活工房、特定非営利活動法人記録と表現とメディアのための組織[remo]