お笑い講座 入門編

「では、定刻になりましたので始めさせていただきます」

ワイヤレスイヤホンから聞こえてきた中年男性の落ち着いた声に、慌ててパソコンのモニターの方へ向き直った。

画面全体は九分割されて、真ん中に講師と思われる中年男性のバストショット。その周りに少し小さな画面が八つ、講師を下から取り囲むように配置されている。

僕はどこかな? 講師の左下の角にパンダのイラストが映っている。僕のアバターだ。

「本日は、FSC主催オンライン版お笑い講座入門編を受講いただきましてありがとうございます。皆様お揃いのようですので、接続状況の確認も兼ねて簡単な自己紹介をお願いしたいと思います」

 自己紹介? 聞いてないぞ。まあいいや適当にすまそう、どうせアバターだし。

よく見ると講師の男性以外は全員アバターだ。それも、みんな動物のイラストになっている。最近のオンライン講座はこれが普通なのかな。

「自己紹介といいましても、氏名・性別・年齢などの個人情報は一切必要ありません。そうですね、この講座の受講動機でも簡単にお話し下さい。三十秒程度で結構です。その前に、まず私自身のご紹介から」

 講師は軽く咳払いをしてから再び口を開いた。

「わたくし、今回の講師を務めさせていただきますムラサワマサシと申します」

 漢字表記は確か、受講案内に書いてあったはず。村沢正志。年齢は四十代くらいだろうか、やせ型で白髪まじりの短髪を七三に分けている。

「放送作家をしながら、お笑い芸人養成所『FSC』の講師を十五年ほど担当しています。皆様にとって有意義な講座になりますよう尽力してまいりますので、ご協力の程よろしくお願い申し上げます。では皆様の自己紹介に移りたいと思います。まず向かって左上の、サルさんから」

「はい、サルです」

 若い男性だ、同じ年くらいかもしれない。

「志望動機としましては、僕は人を笑わせるのが得意なのでお笑い芸人になってみんなを笑顔にしたいと思いまして。ところで先生。実は僕、別の会社が主催している養成所に通っているんですけど構いませんか?」

「全然構いませんよ。講座によってカリキュラムもそれぞれですので較べてみてください。それと、先生と呼ぶのはやめましょう。これからは村沢さんでお願いします。ところでサルさん、人を笑わせるのが得意とおっしゃっていましたが特にどんなことに自信がありますか?」

質問もされるのか、参ったな。

「そうですね、強いて言えば他人が思いつかないような意外なボケを見つけることに自信がありますね」

 意外なボケ? 意外かどうかって自分が決めるものだっけ。

「わかりました。サルさん、ありがとうございました。次はカエルさんですね」

 村沢さんは答えを特に掘り下げることもなくさっさと進行していく。

「あ、あたし、カエルです。カエルですっていう自己紹介もなんですけど、フフ」

 声が小さく早口なので聞き取りにくいが、カエルさんは若い女性のようだ。

「カエルさん、申し訳ありませんが少しマイクに近づいていただけますか?」

 村沢さんが口をはさんだ。

「この位ですか?」

「ああ、いいですね。その位置をキープするようにしてください。あと、皆様へのお願いですが、複数のマイクで同時に音声を拾うと聞こえにくくなりますので、どなたかが発言している間は声を出さないようにお願いします。発言が終わってから話し出すようにしてください」 

「村沢先生、発言が終わったかどうかはどうやって判断すればよろしいですか?」

誰かが質問した。穏やかな印象の男性の声だ。

「そうですね、発言したい時はまず無言で右手を挙げてください。私が切りのいいところで指名しますので、指名されてから話し出すようにしていただければ幸いです。よろしいでしょうか? では、失礼しましたカエルさん、自己紹介の続きをお願いします」

「はい、改めましてカエルです。あたしは笑うことが好きで、いつも何かしら笑っています、ウフフ。友達からは芸人になればいいのにとよく言われるし、あたし自身もお笑い好きなので今回ちょっと講座を受けてみようかなと、エヘヘ」

「カエルさんは、推しているお笑い芸人とかはいるんですか?」

「特にいませんが、どちらかと言うとかっこいい芸人さんが好きですね、フフ」

「いやあ、とっても明るい方ですね。ありがとうございました。次にパンダさんお願いします」

 パンダ? 僕だ。落ち着け、僕。

「パンダです。大学で人工知能の研究室に所属しています。お笑いも好きなので、将来は小咄を創作できるようなAIを作りたいと思っています。受講動機としましては、入学以来あまり気持ちよく笑えていないことに気付きまして、笑える環境に身を置きたいなと考えたものですから」

「パンダさん申し訳ありませんが、カメラに少し近づいていただけますか?」

一拍おいた隙にすかさず村沢さんが指摘してきたので、椅子をテーブルに気持ちだけ引き寄せて確認してみた。

「いかがですか?」

「はい結構です。ところで、パンダさんはサークルとかには入っていないんですか?」

「ええ、コロナの影響もあって入りそびれちゃったんですよ。オリ合宿も中止になったりして、大学に友達があまりいなくて」

 友達がほとんどいないのは本当だ。バイト先の仲間や研究室のメンバーも友達という感じじゃないし。

「それは寂しいですね。それにしても、人工知能が小咄を作るようになったらお笑い芸人は仕事を取られちゃいますね。お手柔らかにお願いします。続いてキツネさん、どうぞ」

 実を言うと、或るお笑いサークルに入ろうと思って入部の申し込みまでしたのだが、なぜか面接で落とされてしまっていた。定員がどうのこうのという理由は言われたのだが、どうも僕の性格が根暗すぎると思われたのかもしれない。二年前のこの出来事が未だに尾を引いていて、結局ほかのサークルにも入らないままずるずると来てしまった。

 モニターの中では、キツネさんが話し続けている。

「……会社の宴会とかでも上司のモノマネをやったりして結構ウケているものですから、チャンスがあればプロになることも視野に入れてリスキリングをしてみようと思い立ちまして。調べてみるとお笑い芸人に一流大学出身者は多いのに一流企業出身者はほとんどいないようですので、ゆくゆくは会社員としての経験を生かした知的なネタで勝負してみたいと考えています」

 キツネさんは男性で僕よりも少し年上、二十代後半くらいかな。

「転職を考えていらっしゃるということですが、会社員のほうが生活は安定しているのではないですか?」

村沢さんのありふれた質問に、キツネさんはあらかじめ準備していたかのように滑らかに答える。 

「毎月決まった給料が振り込まれるという意味では安定していると言えるのかもしれませんが、うちの会社は若手にチャレンジの機会があまり回ってこないような企業風土なので、ちょっと物足りないですね」

 ふーん、積極的に若手を起用する会社が増えているとニュースでは言っていたが、現実はそうでもないのかな?

「安定よりも挑戦ということでしょうか。お笑い業界には年功序列だけはありませんから安心して下さい。逆に、何年頑張れば売れるという保証もありませんけど。ではヒツジさん、お願いします」

「ヒツジです。自分はお笑いが大好きなので、将来はお笑い芸人になろうと考えてます。そのきっかけになればと受講させてもらうことにしました」

 ヒツジさんは関西アクセントの男性だ。年齢は僕と同じくらいか、少し若い位かも。

「ヒツジさんも、お笑い芸人志望ということですね。どちらかの養成所には通われているんですか?」

 村沢さんの問いに、ヒツジさんはちょっと考えてから答え始めた。

「自分は今アルバイトを掛け持ちしていまして、余裕がなくて通えていないんですよ。でも、地元の笑い体操サークルには入ってます」

「笑い体操サークルといいますと?」

「笑いながら軽い運動をするという集まりですね。メンバーはほとんど自分のおじいさんくらいの年配の人です。なんか、アハハと声を出して笑いながら体を動かすと心と体にいいことがあるらしいですよ」

「そうですか。ヒツジさん、ありがとうございました。続いてネコさん、どうぞ」

 質問をする割には、村沢さんはあまり受講生の人となりには興味がないようだ。

「はい、ネコです。ワタシは主婦なんですけど、前からお笑いに興味がありまして。プロのお笑い芸人になるのは無理だと思いますが、せめて笑いの溢れる家庭にしたいなと思って受講させていただくことにしました」

 ネコさんはアラフォーくらいの女性だ。

「失礼ですが、ネコさんのご家庭ではあまり笑いは起こらないですか?」

 村沢さんも同世代には丁寧な聞き方だ。

「そうですね、娘とはよく笑い合っているんですけど、主人が加わると途端に笑いが途絶えてしまうんですよ」

「でしたら、ご主人にも受講してもらえばよかったかもしれませんね」

「うちの主人は仕事一筋の真面目なタイプなのでムリです」

 ネコさんにピシャリと切り捨てられて、村沢さんは頭をかいた。

「それは残念ですね。ネコさん、ありがとうございました。次はウサギさん、お願いします」

「ウサギです。お笑いが大好きでインカレのお笑いサークルに所属しています。ただ、最近になってお笑いがよくわからなくなってきたので、基礎から勉強し直そうと思って受講させていただくことにしました」

 若い女性だ。インカレのお笑いサークルって、まさか「笑臨時」じゃないだろうな。

「サークルでは漫才ですか、それともコント担当ですか?」

 気のせいか、村沢さんの問いかけも優しげだ。

「いえ、私は理論チームで文献研究や台本作成を担当しているので、パフォーマンスはやってないんですよ」

 理論チーム? 理論チームのあるお笑いサークルなんて、他に聞いたことがない。

 まちがいない、ウサギさんは「笑臨時」のメンバーだ。

「お笑いサークルで文献研究とは珍しいですね。先ほどお笑いがわからなくなってきたとおっしゃっていましたが、宜しければもう少し具体的にお話しいただけますか?」

 珍しく村沢さんが掘り下げて質問してきた。ウサギさんには興味があるのかな?

「はい、わかりました。このところ大学のお笑いサークル出身のプロの芸人さんも増えてきたんですけど、学生時代に評価されていた方でもプロになると壁にぶつかるというか伸び悩むというか、はっきり言ってほとんど売れてないんですね。学生時代にはあんなにウケてたのに、どうしちゃったんだろうと思いまして」

「なるほど、もっと売れてもいいはずなのにということですかね。安心してください、お笑いサークル出身じゃない芸人も売れてませんから」

 誰も反応しない。村沢さんは冗談らしいことを言うときも表情一つ変えないので、笑っていいのかどうかよくわからないのだ。

「ウサギさん、ありがとうございました。では最後にトラさん」

「トラです。売れてない芸人です」

 トラさんの声には、明らかに不満そうな調子がうかがえた。男性で僕よりかなり年上だろう。この講座をプロも受講しているとは。

「受講動機は、社長に命令されたからです。社長に言われなければ今ごろ相方と新ネタを合わせているはずだったのに……。村沢さん、僕にはあまり時間がないんですよ。今年で十二年目ですし、歳も三十過ぎちゃったし。とにかく早く売れたいんです」

 そういうトラさんの声には悲壮感のようなものが漂っていた。

「まあまあ、落ち着いて下さい。ところで、相方さんは今どうしているんですか?」

 この様子だと、村沢さんはトラさんが誰かわかっているようだ。

「相方はファミレスで時間をつぶして、僕を待っているんじゃないですか? 社長からは僕だけが指示されたんで」

「と、トラさんとしては、売れてない原因は何だと考えてますか?」

 村沢さんは、ずいぶんと率直な物言いだ。かなり親しい関係なのかも。

「それがわかれば苦労しませんよ。それにしても、村沢さんはFSCにも講座を持っているのに、なぜリモートで別の講座をやるんですか? 個人的な小遣い稼ぎじゃないでしょうね?」

「違いますよ、失敬な。社長からも聞いたと思いますが、先日コミュニケーション論が専門の清水さんという大学教授の講義を受けて目からウロコが落ちまして、うちの養成所のカリキュラムをその先生の理論に沿って変更しましょうと社長に提案したんです。そしたら、『まずオンラインでやってみろ。その反応を見てから考える』と言われたんですよ」

 へぇー、そういう背景があったのか。清水教授って、どこの大学の先生だろう? 

一瞬間があいてから、村沢さんは慌てて話題を変えてきた。

「大変失礼いたしました。つい内輪の事情を話してしまいました。では、皆様からの自己紹介をいただきましたので本編に入りたいと思います。まずは簡単なシラバスのご紹介です。受講案内にも書きましたけれど、この入門編では『笑いの構造』について考えてまいります。次の応用編では『ネタの作り方』、実践編では『ネタの効果的な伝え方』を学んでいきましょう。はい、サルさんどうぞ」

 右手を下ろしたサルさんは、左右をうかがうような様子を見せてから話し出した。

「あのう、僕の通っている養成所では二週目の講義で『すぐに相方を決めてネタ見せをしてもらいます。プールサイドで見ているだけでは、いつまでたっても泳げるようにはなりません。さっさと飛び込んでください』と言われたんですが、この講座ではネタ見せはないんですか?」

村沢さんは、なぜか答えにくそうにしている。

「……ネタ見せですか。おや、ネコさん何か?」

ふと見ると、ネコさんが手を挙げていた。

「ネタ見せって何ですか?」

 村沢さんはあわてて説明を始めた。

「そうですよね。ご存知ない方もいらっしゃいますよね。一般的にネタ見せといいますのは、本番にかけようと思っているお笑いのネタを、事前に演出家や構成作家といったスタッフの前で披露することで、オーディションのようなものですね。ただし養成所で行われるネタ見せというのは、受講生が講師の前でネタを実演してみてダメ出しを受けることを指します。指導の一環という位置づけですね。よろしいでしょうか?」

 ネコさん、それにカエルさんも頷いている。

いきなりネタ見せという養成所が多い、という噂は聞いたことがある。養成よりも即戦力のリクルーティングを重視しているということなのかな。

「こちらの講座でもネタ見せを行う予定ではあるのですが、行うとしても実践編の後半になってしまうと思います。入門編と応用編はリモート方式で行い、通学方式の実践編で発声や演技の基本を身につけていただいてからネタ見せの時間を取るつもりです」

村沢さんは、そこまで言ってから少し声をひそめた。

「実はうちの養成所、FSCの方でも結構早い段階でネタ見せを始めるんです。でも、泳ぎ方を教えてもらう前に準備運動もせずにプールに飛び込んだら溺れるだけ、ということに気がつきましてね。実際、受講生たちのネタもどこかで見たことがあるような内容ばかりになりがちなんですよ。ですからこの講座では『笑いの構造』や『ネタの作り方』を学んだ上で、『ネタの効果的な伝え方』を身につけていただいてからネタ見せを行うということにしたいと思います。よろしいでしょうか? 他に何かご質問は?」

 みんな沈黙している。

確かに村沢さんの言っていることにも一理ありそうだ。この入門編は意外とまともなのかもしれない。受講料が三千円の割には。

「では入門編の大テーマ『笑いの構造』に入りますが、その前にお笑い芸人とはどんな仕事なのか考えてみましょう。皆様が目指しているプロのお笑い芸人、まあ目指してない方もいらっしゃるし、すでにプロとして活動している方もいらっしゃいますが、皆様が多かれ少なかれ興味を持っている存在ですよね。お笑い芸人とは何をする人なのでしょうか、どなたかご意見はありますか?」

 手を挙げた人がいないので、村沢さんが自分でつないだ。

「それでは、こちらから申し上げましょう。お笑い芸人とはお客様に『笑い』というサービスを届ける仕事だということです。要するに、お客様に笑っていただいて収入を得る職業だということですね。皆様もこのことに異論はないと思います」

 するとサルさんが手を挙げた。

「異論ということではないんですけど、通っている養成所で『笑われるな、笑わせろ』という教訓を教えてもらって『君たちも笑いのプロとして、プライドを持って取り組みなさい』と言われたんです。つまり、この教訓は『芸人は客に笑われているのではなく、客を笑わせてやっているのだ』という意味だということですよね?」

え? そういう意味だったっけ? 

「やはりそういう解釈をされている方がいらっしゃるんですね」

気のせいか、村沢さんは肩を落としているように見える。

「本来は、変顔やおどけた仕草といった底の浅い芸で笑われるのではなく、練りに練った深い芸でお客様を笑わせろという意味だったはずなんですが……」

 一拍置いてから、村沢さんはカメラに向き直った。

「この教訓の解釈だけが原因じゃないとは思いますけれども、自分たちの方がお客様よりもエラいのだと勘違いしている芸人が増えてきたような気もします。中には、お客様を素人呼ばわりして『素人に笑いはわからない』とか『玄人ウケできない芸人は半人前』などと言う人もいたりしますから。最終的にお金を払っていただいているのは、玄人の業界人ではなくて素人のお客様なんですけどね」

 ここまで聞いていたサルさんが、驚いたようなトーンで聞き返した。

「じゃあ、芸人は笑われてもいいということですか?」

「当り前じゃないですか。芸人は笑われてナンボです。そもそもお客様にとっては、思いつきの瞬間芸だろうが長年培った熟練芸だろうが、笑わせてくれさえすれば一緒なんですよ。笑いはお客様のものなんです」

 きっぱりとした口調で言った後、村沢さんは声の調子を抑えてきた。

「ただし私は、この教訓の重要な点は別のところにあると考えています。笑われるなという教えは、安易なキャラクター設定や即興のギャグなどに頼りすぎるなという意味だと解釈することもできると思うんです。奇抜なルックスなどで笑いを取ることが悪いわけではありませんし、時流に乗って売れっ子になれるかもしれません。ただ、そうした芸は飽きられるのも速いんですね」

 すかさず、ヒツジさんが手を挙げた。

「つまり、一発屋になってしまうということですか?」

「一発屋ならまだいい方で、うちの会社には〇・五発屋とかいますからね」

村沢さんは、自分のペースを取り戻してきた。

「サルさん、お答えとしてはこんな感じでよろしいでしょうか?」

サルさんは無言で頷いている。百パーセント納得してはいないようだが、村沢さんは構わずに続ける。

「ではシラバスに戻らせていただきます。先ほどお笑い芸人とはお客様に笑いというサービスを届ける仕事だと申し上げましたが、その笑いとはいったい何でしょうか?」

一人も手を挙げようとしない。いきなり「笑いとは何か」なんて根本的な質問をされても答え方が難しいし、ピントはずれな答えをして笑われたくもない。

受講生たちの思惑をよそに、村沢さんはマイペースで追加説明をしていく。

「ちなみに社会的な笑いと呼ばれる愛想笑いや追従笑い、自己防御のための臆病笑いや語尾笑いなどは、お笑い芸人の提供するサービスとあまり関係がありませんので除いてください。それとお笑い体操とか笑いヨガの、無理に笑顔を作って笑い声を出すような笑いも含めません。思わずアハハと声を上げてしまうような自然な笑いを想定してください」

 それでも手を挙げている人はいない。

「じゃあ、指名させていただきましょう。ウサギさん、いかがですか?」

 指名されなくてよかったと思う間もなく、ウサギさんは即答していた。

「笑いとは、おかしさや面白さに対する反応として現れる発声や表情を伴う感情行動だと思います」

 さすが理論チーム、完璧な回答。ただ、村沢さんは少し不満そうだ。

「うーん、キツネさんはいかがですか?」

「私も、そう思います。違いますか?」

 キツネさんは、自信なさげに返答した。

 村沢さんは何を期待しているのだろう?

「客観的な事象としてはそういうことになるんでしょう。では、主観的な表象も含めてどうでしょうか? はい、サルさん」

 いつのまにかサルさんが手を挙げていた。

「僕は、笑いとは武器だと思います」

 武器? この人は一体何を言い出すんだろう。でも村沢さんは慌てない。

「サルさん、武器だとお考えになる理由を教えていただけますか?」

「はい、僕は自分で言うのも何ですけど、ルックスもイマイチだし学歴もありません。そんな自分がこの社会でのし上がっていくための唯一の武器が、笑いなんです。僕は笑いを武器に、売れて有名になって大金持ちになります」

 モチベーション高ッ。

「サルさんありがとうございました。絶対に売れてやるという意欲は大事ですからね。他の方、いかがですか?」

 あの勢いのあとでは実に発言しにくい。案の定みんな黙っている。

「じゃあ、設問を少し変えましょう。人はなぜ笑うのでしょうか? この設問でしたら、皆様ご自分なりの考えをお持ちではないですか? はい、カエルさん」

 珍しくカエルさんが手を挙げている。自信があるのかな。

「おかしいから笑うんです。ウフフ」

「その通りですね。でも他に何かありませんか? どうぞ、キツネさん」

「おかしいから笑うのに決まっているじゃないですか」

「なるほど。ネコさん、どうですか?」

 指名されたネコさんは、面倒くさそうだ。

「そうですね、面白かったときにも笑うと思いますけど」

「では、ネコさんにお聞きしましょう」

 村沢さんはこう言うと、急に有名俳優の声色を真似し出した。

「『実に、面白い』という台詞を言うキャラクターがいますよね。この時、彼は笑っていますか?」

「アハハ」

「おや、ネコさん笑いましたね? なぜですか?」

「なぜって、おかしかったから」

「どこがおかしかったですか?」

「どこが? 村沢さんが下手なモノマネをしたからですよ」

 ネコさんが若干投げやりになってきたのも当然だろう。立て続けに細かいことを聞かれたら誰だってウンザリする。それでも村沢さんは質問をやめない。

「ネコさんは、いつも下手なモノマネをおかしいと思いますか?」

「いえ。主人のモノマネをおかしいと思ったことはないですね」

「じゃあ、どうして今回は僕の下手くそなモノマネをおかしかったと思ったんですか?」

「どうしてって……」

ネコさんは、少し考えてから答えた。

「笑えたから」

 それを聞いて、村沢さんがすかさず引き取った。

「そういうことなんですよ、皆様」

 もしかして、吊り橋効果? 

村沢さんは得意そうに周りを見回している。周りには誰もいないはずなのだが。

「清水教授によりますと、人はおかしいと思ったから笑うのではなく、笑ったからおかしかったんだと後から判断しているということなんです。不随意行動である笑いが先にあって、その後でおかしかったからとか面白かったからとか解釈を付けているだけなんだそうです。ですから笑った本人でさえも、吹き出してしまった本当の理由に気付かないケースが多いということです」

 みんな、じっとしている。納得したのだろうか。それともなんとなく腑に落ちないまま、その気持ちを扱いかねているだけなのだろうか。

「さあ、ここからがキモですよ」

 受講生たちの当惑にお構いなく、村沢さんは設問を重ねた。

「おかしかったから笑うのではないとすると、人はなぜ笑うのでしょうか?」

 すると、キツネさんがおずおずと手を挙げた。

「関連質問よろしいですか?」

「どうぞ」

村沢さんは、キツネさんをあっさりと促した。

「本人でさえ笑った本当の理由を分かってないんでしたよね? とすると、人がなぜ笑うかなんてあれこれ他人が予想するのは無意味じゃないですか? 笑いのツボは人それぞれだって言うし」

「キツネさんのおっしゃるとおり、笑いのツボは百人いれば百通りですので、どんなによくできたネタでも百パーセントのお客様に笑っていただくことはまず不可能です」

 キツネさんの意見を尊重しながらも、村沢さんは全く動じていない様子だ。

「とはいえ、お笑い芸人の仕事はお客様に笑いというサービスを届けることでしたよね。そのためには、できる限り高い確率で笑いを生み出す手法を手に入れる必要があります。さもないとプロとして長く活躍することはできません。そしてその手法の獲得には、人はなぜ笑うのかというメカニズムの理解が不可欠なんです」

 村沢さんは自信たっぷりだ。

 でも、人がなぜ笑うのかを知らなくても人を笑わせることはできるんじゃないかな。自慢じゃないけど僕だって、バイト先でみんなの爆笑をさらったこともある。ただ、ウケるはずと思って披露したエピソードトークがダダ滑りすることの方が多いけど。

そうか、一般人ならウケたウケなかったですむのだろうが、プロのお笑い芸人は常に一定の成果を出し続けなければならないということなのだ。

「従いまして、受講生の皆様はこの講座で笑いを生み出す手法を学んでいただくことによって、百パーセントはムリだとしても六割以上いや八割以上のお客様に笑いを届け続けることができるようになると確信しています」

 村沢さんは売り込みを忘れない。

それにしても、笑いを確実に生み出す手法なんて本当にあるのかな。もし、笑いの方程式みたいなものを手に入れられたらまさに鬼に金棒なんだけど。

「どうでしょう? 人がなぜ笑うのかを知らなければいけない理由をご理解いただけましたでしょうか?」 

村沢さんの問いに、サルさんがかみついた。

「じゃあ、その笑いを生み出す手法というのをすぐに教えてください。僕らZ世代なんで、タイパに超敏感なんですけど」

村沢さんは、そう言われることを予期していたかのように落ち着きはらっている。

「まあ焦らないで下さい。笑いを生み出す手法を手に入れるためには、その前にメカニズムを含めた笑いの構造という土台を理解しておくことが必要です。土台が確立していないまま手法をふりかざしてみても上滑りになるだけですからね。この入門編で笑いの構造をしっかりと理解していただいた上で、笑いを生み出す手法についてはネタの作り方に合わせて応用編でじっくりと学んでいきましょう」

 応用編?

受講案内には、十回のリモート講義で受講料三十万円と書いてあった。かなり高額なので入門編でおいしいところをできるだけ聞き出しておいて応用編はパスするつもりだったのだが、この調子だと入門編は応用編の単なるティーザーで終わってしまいそうだ。

「では、改めてうかがいます。人はなぜ笑うのでしょうか? はい、ヒツジさん」

「自分も関連質問なんですが、自分は応用編を受講できるかどうかわからないのでおたずねします。笑いの構造を踏まえた手法を知らなくても、お笑い芸人にはなれますよね?」

 すがるような口ぶりで同意を求めてきたヒツジさんに、村沢さんは深くため息をつきながら答えた。

「もちろん、なれますよ。ただしそういう芸人は売れたとしても、それまでにかなりの時間がかかるケースが多いですね」

「なぜですか?」

 ヒツジさんはなおも食い下がる。どうしても三十万円を払いたくないのかな。

「なぜかといいますと、笑いを発生させるメカニズムを知らない芸人はネタ作りの客観的な拠り所がなく主観だけが頼りになってしまうからです。要するに、お客様ではなくて自分たち自身が面白いと思うネタを追求するというやり方になってしまいがちなんですね。自分たちにとって面白いネタだけでお客様の笑いを取り続けるのはかなり至難の業ですし、逆に偶然ウケたりしたらもっと困難な状況になりかねません」

村沢さんの声に、ますます熱がこもってきた。

「といいますのも、そういう芸人は少しウケが取れると自分たちは正しかったんだと思い込んでそのまま自己流で突っ走ってしまうことが多いんです。そうなると、お客様やスタッフにウケない日があったり賞レースで評価されなかったとしても自分たちは面白いことをやっていると盲信していますから、『今日の客は重い』とか『あいつらは笑いをわかってない』などという的外れな反応をしてしまいます。そして、本当はお客様の方に近づくために自分たちが変わらなければいけないのに『俺たちは客に媚びたりしない、いずれ客の方が寄ってくる』と自分たちに言い聞かせたり、仲間うちからトガっているとかシュールだとか言われて評価されていると勘違いして……」

「僕らのことですか?」

 怒気を含んだような男性の声が急に響いた。

「と、トラさん、発言するときは挙手してくださいとお願いしていましたよね」

 トラさんが手を挙げながら、話し出した。

「今から十年前、養成所の或る講師から『好きなことをしなさい、自分が面白いと思うことをやり続けなさい』と言われて、真に受けてやってきた結果がこれですよ」

 村沢さんは、首を小さく横に振りながら語り出した。

「自分が面白いと思えないことをやって売れたとしても本人のためにならないし、たとえ売れなくても自分の好きなことを追い続けたほうが本人たちは幸せなはずだ、と当時は本当に信じていたんですよ。清水教授の話を聞く機会がなかったら、未だにそう思っていたかもしれません。でも、今は違います」

村沢さんは、まるで自分に言い聞かせているようだ。

「今なら、こう言います。お客様の笑いを取りたいのなら、自分たちではなくお客様が面白いと思うネタをやりなさい、と」

 受講生たちは、トラさんも含め静かになってしまった。

村沢さんの言っていることはごくごく当り前のように思えるのだが、いざ実行しようとするとどうしたらいいのか見当もつかない。他人が何を面白いと思うかなんて、どうやったらわかるんだろう?

「では、もう一度お聞きします。人はなぜ笑うのでしょうか? 誰かが言っていたことや、どこかで聞きかじった内容でも結構ですよ」

 村沢さんの補足に安心したのか、何人かが手を挙げた。

「ではサルさん、お願いします」

「養成所では、緊張の緩和が笑いを生み出すと習いました」

「有名な説ですね。次にカエルさん、どうぞ」

「意外性の笑いというのもあるらしいですね、エヘヘ」

「なるほど、他には何かありますか? はい、ネコさん」

「なんか、共感の笑いって聞きません?」

「確かによく言われますね。他にはいかがですか?」

 発言が途切れたのを確認して、村沢さんはおもむろに話し始めた。

「色々なご意見をありがとうございました。ただし、今出していただいた緊張の緩和・意外性・共感は、残念ながら人がなぜ笑うかの答えにはなっていないんです」

 はあ? 著名な落語家や漫才師が言っているのを聞いたことがあるけど。

「清水教授によりますと、これらの説は後付けの理屈にすぎないそうです。緊張の緩和・意外性・共感といってもあくまで芸人側の主張であって、お客様側が芸人サイドの狙い通りに捉えているかどうかはわからないからです。お客様は緊張の緩和で笑ったのではなく落語家の顔がおかしかっただけかもしれませんし、ネタの意外性ではなく漫才師が相方にドツカれている姿を笑ったのかもしれません。なおこれらの説は芸人本人だけでなく事務所やブレーンなどの芸人サイドが自分たちの笑いを科学的あるいは高尚であると印象づけるために、意図的に主張している可能性もあるということです」

 村沢さんは自信たっぷりに言葉を継いでいく。

「いずれにしましても、プロのお笑い芸人を目指す我々が知りたいのは後付けの理屈ではなく、こうすれば笑いを取れる可能性が高いという前向きの予測です。残念ながら、緊張の緩和・意外性・共感さえあれば、どんなネタを誰が演じてもお客様が確実に笑っていただけるという保証はありません。ちなみに清水教授の行なった実験では、緊張の緩和・意外性・共感を主張している人気の落語家や漫才師と全く同じネタを別の芸人がやっても、本人たちと同じような笑いはとれなかったようです」

 それはそうだろう。ベテランの落語家や漫才師には、長年培った語り口や演技力・間の取り方といった熟練の技がある。それを芸と呼ぶのだ。だからこそ高い人気を誇っているわけで、そう簡単にマネできるはずがない。

 待てよ、ということは緊張の緩和・意外性・共感だけで笑いが起こったわけではない、ということを逆に証明していることにならないだろうか?

 モニターの中では村沢さんが熱弁を続けている。

「百歩譲って、これらの説は笑いの構造を踏まえたネタ作りに一定の実績のある芸人にとっては参考になる主張かもしれません。ただし、これからプロのお笑い芸人を目指そうという我々にとっては……。おや、ウサギさん、何か?」

 ウサギさんが右手を挙げている。

「人はなぜ笑うのかという問いの答えになっているかどうか自信がないんですけど」

「結構ですよ。どうぞご発言下さい」

 村沢さんもウサギさんには優しい。

「理論チームの課題文献にあったのですが、古代ギリシャの哲学者は笑いの本質は優越感である、と言い切ったそうです。つまり、他者を見下す快感が笑いの発生源であると」

 ウサギさんは、さらに続ける。

「古代ギリシャの哲学者だけじゃなくて、十七世紀のイギリスの思想家も彼が『突然の栄光』と呼ぶ他人に対する優越感が笑いを生むと書いています」

「ありがとうございました。紀元前から現代まで続く優越理論ですね。つまり、お客様に優越感を感じていただければ笑いを取れるということ……」

村沢さんの話の途中にもかかわらず、カエルさんが手を挙げながら発言し始めた。

「優越感なんて感じてません」

 思い詰めたような声に、村沢さんも少し驚いている。

「カエルさん、どうしました? あなたのことを言っているんじゃなくて、あくまでも一般論として……」

 カエルさんは、村沢さんを無視して一気にまくしたてる。

「あたしはよく笑いますけど、他人を見下しているわけではありません。顔も美人じゃないし、ぽっちゃり体型だし、だからこそ少しでも明るくなろうとがんばっているのに」

 村沢さんは、慌ててカエルさんをとりなし出した。

「わかりました、わかりました。よく笑うからといって、けっしてカエルさんを嫌なヤツだとは思っていませんよ。それに安心してください。お笑いに見た目は一切関係ありませんから」

 その言葉を聞いて、カエルさんも少し落ち着きを取り戻したように見えた。すると、またウサギさんがゆっくりと手を挙げた。

「私も、優越理論には少し疑問がありまして」

 村沢さんは、思わぬ助け船にほっとした様子だ。

「それはどういうことですか?」

「私の所属しているお笑いサークルには、東大生の方も大勢いらっしゃるんです。東大生といえば優越感の塊ですよね。優越感が笑いの本質だとすると彼らは常に笑っていてもいいはずなのに、実際はほとんど笑わないんです。いつも真面目な顔をしてお笑いを語っています」

 ウサギさんは「笑臨時」のメンバー確定、そしてお茶大生の可能性が高い。

 村沢さんはうなずきながら、ウサギさんの話を引き取った。

「ウサギさん、ありがとうございました。おっしゃっていただいたお話は、これからご紹介する理論にも非常に関係が深いものです。実は私が目からウロコが落ちたという説が、清水教授の『ユーソス理論』なんです」

 ユーソス? ユーモアとペーソスの合成語かな。

「お客様の笑いを確実に取るための手法を生み出そうとして何か参考になる本や論文がないかと色々探し回っていた三年ほど前に、たまたま聴講する機会があったのが清水教授の講義『ユーソス理論序説』だったんですね。清水先生は古代ギリシャ以来の優越理論を評価した上でその後の各時代の思想家たちからの優越理論への批判も踏まえて、笑いを生むのは『無意識の優越感』だと結論づけたんです。そして、その無意識の優越感をユーソスと名付けました。つまり、人はユーソスを感じて笑うのだ、と。はい、キツネさん」

「笑いがそのユーソスとやらから生まれるとすると、お客様になぜ笑ったのか聞いたら『ユーソスを感じたから』と答えるということですか?」

 キツネさんからの皮肉たっぷりの質問に、村沢さんは意外にも素直に反応した。

「いえ、お客様は優越感を感じたとしても無意識なので、そうは答えないでしょうね」

「じゃあ、お客様が笑った本当の理由がユーソスを感じたからだということも証明できないということですね」

 キツネさんは勝ち誇ったように決めつけたが、村沢さんに動揺した様子はない。

「私も最初に講義を聴いたときにはそう思ったんですが、その後このユーソス理論を様々な事象に当てはめていっても矛盾が生じないんですよ」

 帰納的アプローチということかな。

「従来の優越理論とユーソス理論の大きな違いは、笑いの発生源を意識された優越感に求めるのか無意識の優越感にあるとするのかという点にあります。たとえば先ほどの東大生があまり笑わないという事象についてですが、ウサギさんもおっしゃっていたように昔ながらの優越理論に則って説明するのは非常に難しいんですね」

村沢さんの舌は滑らかだ。

「一方ユーソス理論においては『すでに明確な優越感を意識している者がその対象となる他者の不幸に接しても、無意識の優越感は発動しない』とされています。つまり東大生が常日頃から優越意識を持っているターゲット、たとえば他大学の学生が何か失敗をしたとしても笑いには結びつかないということです。このように、ユーソス理論なら東大生があまり笑わないという事象も説明がつくのです。ただし、東大生といえども明確な優越意識を持ち得ない対象たとえば大学の教授などについてはユーソスを感じますので、教授が言い間違えたりしたら笑うと思いますよ」

 村沢さんはさらに続ける。

「このように様々な事象を説明できることを発見して、私はユーソス理論が極めて有用であると確信するに至りました。

他の例をご紹介しますと、足をひきずって歩いている人を見て笑っていた子供も、母親から『ダメよ、体の不自由な人を笑っちゃ』と言われると、次からは笑わなくなりますよね。この事象も、母親に叱られたことで体の不自由な人は子供にとって明確な優越意識の対象になって、無意識の優越感つまりユーソスの対象からはずれたということで説明できます。ネコさん、どうぞ」

「それは単純に、子供が親に叱られたくないからじゃないですか? 子供が体の不自由な人に優越意識を持っているなんて想像したくもないですよ」

 ネコさんはいぶかしげな様子だが、村沢さんのユーソス理論への信頼は揺るがない。

「お気持ちはよくわかります。当初は私も違和感を抱きましたが、検討していくうちに得心がいきました。なぜなら、親に叱られたくないだけだったら親のいないところでも笑わなくなる理由が説明できないからです」

「子供が常識やモラルを学んで成長したというだけのことでしょう?」

 こう断定してきたのはキツネさんだ。

「確かにそうとも言えますね。ただ、その点については清水教授の次のような見解をご紹介しておきましょう。『一人では何もできないという劣等感の塊だった子供が、出来ることが徐々に増えていくことで優越意識を少しずつ獲得し、それらをコントロールすることによって無遠慮な笑いから脱却していく過程こそ成長の証といえる』。

そして、これは大人にもあてはまるそうです」

村沢さんがそこまで語った時、急にトラさんが大声を上げた。

「もう結構です。もう我慢できない。笑いを生み出す手法のヒントでも教えてくれるかと思って黙って聞いていれば、やれ古代ギリシャだのユーソスだのと話が遠すぎてついていけませんよ。僕たちには時間がないと言いましたよね。村沢さん、僕たちがすぐに売れる方法を教えてください。さもないと社長にオンライン講座は全く役に立たないって報告しますよ」

 トラさんの脅迫めいた言い方に、村沢さんも少しぐらついたようだ。

「それは困りますね。でも、誰でも確実に売れる方法などという絶対条件みたいなものはありません。もしあったとしたらすべての芸人が売れているはずですからね。ただ、売れるための必要条件ならいくつかあります」

 その言葉にトラさんの機嫌も少しよくなった。

「じゃあその必要条件を教えてください」

「それは、応用編で」

 それを聞いて、トラさんの機嫌がまた悪くなる。

「応用編、応用編って。どうせ、売れるための必要条件は『時の運』だとか言うんでしょう?」

「確かに時の運も必要条件の一つかもしれませんね。でも、それだけではないんです.皆様知りたいですか?」

 知りたい。みんなも頷いている。

「しようがないな。本当は応用編の目玉の一つにしようと思っていたのに。では、時の運以外の必要条件をご紹介しましょう」

 村沢さんは企業秘密をあっさりと白状するらしい。脅しに弱いのかな。

「そうこなくちゃ」

トラさんも上機嫌になってきた。

じっと待っている受講生たちの耳に、村沢さんの声が響いた。

「それは、カワイイと世間から思われること、です」

 カワイイ?  

「やっぱり、見た目じゃないですか?」

 最初に反応したのはカエルさんだ。

「さっき、お笑いには見た目は一切関係ないって言ってたのに。ひどい」

 村沢さんは慌てて説明を加える。

「カワイイって、見た目じゃないですよ」

「いいえ、見た目です」

 そう言い切ったネコさんは自信たっぷりに続けた。

「愛らしい赤ちゃんや若い娘さんを見て、カワイイって言うじゃないですか」

「じゃあ、ネコさん、カワイイの反対語は何ですか?」

 村沢さんからの突然の逆質問にネコさんが戸惑っていると、キツネさんが横から口を出してきた。

「ブサイク、とか」

「キモイ、と言う言い方もありますね」

 サルさんも続く。

「自分たちは、キショイとか言いますね」

 これは、ヒツジさんだ。すると、村沢さんが誰に聞くともなく質問を返した。

「じゃあ、ブサカワとかキモカワ・キショカワって何ですか?」

 何ですかとか言われても、そういう言い方をするとしか言い様がない。でも、本当に反対語だったらそれらをくっつけた言い方って成立するのだろうか。

 無言のままの受講生たちをよそに、村沢さんが自分で答えた。

「お気づきのように、カワイイって見た目じゃないんですよ」

「でも」

 なおも食い下がろうとするネコさんに、村沢さんが声をかけた。

「ネコさん、カワイイ赤ちゃんを想像してみてください」

「想像しましたけど」

「では、その赤ちゃんが見た目はそのままで、急に『おばさん、デブだね』って言ってきたらどうですか?」

「こわーい」

 いち早く反応したのはカエルさんだ。

「ネコさん、いかがですか?」

「カワイクナイですね」

「その通り、カワイイの反対語はコワイもしくはカワイクナイなんです。コワカワイイなんて言い方は聞いたことありませんね」

 見た目じゃないとすると、カワイイって。

「売れるための必要条件の一つとして、世間からカワイイと思われること、と申し上げました。ここでいうカワイイとは優越意識の表れなんです。さきほど無意識の優越感は笑いとなって表れると言いましたよね、それとは違って優越感がはっきりと意識されたときに言葉として表れるのがカワイイなんですよ。相手より優位に立っている、もしくは優位に立とうと意識したときに発せられる言葉でありながら悪い印象を与えなくてすむ、いわばカモフラージュ系のマウンティング用語ともいえますね」

「違います。それは間違ってます」

 手を挙げながら叫んだのは、カエルさんだ。

「あたしもよくカワイイといいますけど、優越意識とかマウントを取ろうとして言ってるんじゃありません。心から愛らしい、可愛らしい、カワイイと思ってつい口に出てしまうんです」

 カエルさんの勢いに気圧されてか黙ったままの村沢さんに代わって、キツネさんがのんびりとした口調で割り込んできた。

「別に村沢先生の肩を持つつもりもないんですが、マウンティングのためのカワイイってあるような気がしますね。例えば、合コンの前に幹事の女性から『みんなカワイイ子よ』とよく聞くんですけど、会場に行ってみるとメンバーは全員その幹事以下のレベルだったりして」

 へえ、そうなのか。何人かの受講生はうなずいている。女性の同性に対する『カワイイ』は要注意ということかな。

「ひどい。偏見も甚だしい。てゆうか、セクハラじゃないですか?」

 文句を言うネコさんにかぶせるように、村沢さんが場をまとめようと試みる。

「いずれにしましても、世間からカワイイと思われるということは、自分たちに対して世間の人に優越意識を抱いていただくということなんです。つまり、世間から少なくともコワイとかカワイクナイと思われないようにしなければならないということです。なお売れるための必要条件の詳細については、応用編で時間をかけてご説明します。それでよろしいですよね?」

 カエルさんもネコさんも渋々頷いている。

「では、入門編の大テーマ『笑いの構造』の次のフェーズに向かいたいと思います。お笑いの二つのターゲットについてです」

 ターゲットが二つ?

「笑いのあるところには笑う人と笑われる人が存在します。従って、我々がお客様に笑っていただく場合にも笑う人と笑われる人という二つのターゲットを意識する必要があるということです。ユーソス理論では笑う人のことを『笑いの対象』と呼び、笑われる人のことを『笑いの標的』と呼んでいます。お客様に笑いを届けるプロとして、お笑い芸人は笑いの対象と標的をはっきりと認識しなければなりません」

 村沢さんの話がいったん途切れたところで、キツネさんが手を挙げた。

「なんか当り前のことをもったいぶって言っているだけのように聞こえるんですが、笑いの対象って要するにお客様で、笑いの標的ってお笑い芸人のことですよね?」

「さあ、どうでしょう」

 村沢さんは曖昧に返事をしつつ、逆質問を返してきた。

「皆様、笑いの対象をお客様以外に設定しているケースってありませんか?」

 場が一瞬静まりかえった後、サルさんが手を挙げた。

「言われてみると、ネタ見せのときは審査員にどう笑ってもらおうかということしか考えていませんね」

「ま、それは仕方がない面もあります。他の方はいかがですか? はい、ウサギさん」

「学生のお笑いサークルだと、一般のお客様に入っていただいた会場でも内輪ウケ狙いが多いですね」

「やっぱりそうですか。プロでも、舞台袖の芸人仲間にさえウケればいいと思っている芸人もたまにいますしね」

村沢さんは、さらに続けた。

「事ほどさように、笑いの対象が必ずしもお客様とは限らないケースも残念ながら存在するんですね。ただし、あくまでも例外的なものです。ほとんどの場合、笑いの対象つまり我々が笑っていただこうとするターゲットは劇場にお越しいただいたお客様でありテレビを観ていただいている視聴者の方々となります」

ここで村沢さんはわざとらしく一拍置いた。

「このとき重要になるのは、個々のお笑い芸人がターゲットとするお客様の属性セグメントの絞り込みを行っているかどうかです」

 なんか難しそうな話になってきたと思っていたら、ネコさんが手を挙げていた。

「もう少し易しく説明していただけませんか?」

 村沢さんは、慌てて言い直し始めた。

「申し訳ありませんでした。内容的には、決して難しい話ではないんですよ。お客様の属性セグメント、つまり性別・年齢・職業・居住エリアといった情報を出来る範囲で集めて、その上で笑いの対象とするお客様区分を定めておく必要があるということなんです。要するに、我々が笑っていただこうとしているお客様はどのようなタイプなのかを事前に確認しておきましょうということですね」

 キツネさんが手を挙げていた。

「そんな個人情報の収集みたいなことは、コンプライアンス上も出来っこないですよ。それに、お客様の笑いのツボは属性区分で決まるわけではないですよね。だとすると、ターゲットの属性セグメントなんて意味ないじゃないですか」

 村沢さんは落ち着いている。

「お客様の属性については、劇場のアンケートの集計結果を調べるとか、イベントの主催者に聞いておくとか出来る範囲で結構です。そもそもお客様の属性をすべて明らかにするのは不可能ですし、もしそれが出来たとしても彼らに笑いを届けるという我々の目的につながるかどうかは未知数です。そういう意味ではキツネさんのおっしゃる通りですね」

キツネさんは満足そうにうなずいているが、村沢さんは論点を少し変えてきた。

「ただし、ターゲットの属性セグメントの必要性において重要となってくるのは『お客様は自分の知っていることでしか笑わない』という根本的な真実です。お客様は、知らないネタでは決して笑っていただけないんです」

 確かに、外国語の漫談なんてただの雑音だし、今更バブル時代の話なんかされてもピンとこない。そういえば僕は中高一貫の高校入学組だったのだが、最初は内部進学組の話が全くわからなくて、周りに合わせて笑うのが苦痛で仕方なかったっけ。

 村沢さんは更に続ける。

「お客様の属性を事前に調べておくのも、お客様の大部分が知らないようなネタを掛けないようにするためのいわば守りの戦術なんです。ここで間違えていけないのは、お客様が知っているないしは知っていると思われるネタを掛けただけでは、必ずしも笑いは取れないということです。つまり、お客様は知らないことでは絶対に笑わないけれど、知っているからといって笑うとは限らない、ということなんですね」

 そうか、ここでもユーソス理論は有効だ。

人が知らないことで笑わないのは、そこに優越感を抱く余地がないことからも容易に想像がつく。だからといって、誰もが知ってそうなことを知っていても無意識の優越感にはつながらない。知らない人が多数派と思われる環境において、知っていると感じられることがユーソスの源泉の一つなのかもしれない。

「ここまでお聞きになって面倒くさそうだと思われているかもしれませんが、ネタの選択は既に多くの芸人が実施しているはずです。学園祭では昭和のアニメネタはもう古いでしょうし、老人ホームではさすがにSNSネタは選ばないはずです。地方の営業で東京の街ネタをやってもポカンとされるだけでしょう。会場のお客様の属性に合わせて掛けるネタを変えるというのは笑いの対象に関する立派な戦術の一つです」

 ここでサルさんが異議を唱えた。

「お客様は知らないネタでは決して笑っていただけないということでしたけど、この間昭和アニメキャラのコスプレをした芸人のネタで小学生が笑ってましたよ」

「そうですね、その小学生はたまたまそのアニメを見たことがあったのかもしれませんし、あるいはネタ以外のところでユーソスを感じたのかもしれませんね。いずれにしても、昭和のアニメネタで小学生が笑ったとしたら、ある意味それはラッキーパンチです。ありがたくいただいておきましょう。ただし、我々が追求すべきなのは当たると限らないラッキーパンチではなくもっと確率の高い戦術ですね」

 村沢さんの対応には少しのブレもない。

と、その時キツネさんが手を挙げながら質問してきた。

「先ほど、ほとんどの客が知らないようなネタは掛けないというのは守りだという話がありましたが、攻めの戦術にはどんなものがありますか? それも応用編ですか?」

 キツネさんの皮肉には反応せず、村沢さんは我が意を得たりという表情をした。

「よくぞ聞いてくださいました。笑いの対象に関する攻めの戦術として代表的なのは、お笑い芸人側がターゲットとするお客様の属性を絞り込むというものです。少し古い話になりますが、昭和五十年代当時、劇場のお客様は圧倒的に若い女性が多かったそうです。今でも多少その傾向がありますけどね。そうなると、出演するお笑い芸人はほとんどが若い女性を対象にしたネタを掛けることになります。ある新人漫才師もその一つだったのですが、なかなか注目を浴びることができませんでした。そこで彼らが思いついたのが……。はい、ウサギさん」

 見ると、ウサギさんが手を挙げている。

「ターゲットをF1層からM1層に変更したんですよね」

「ご存知でしたか」

「理論チームで最初に学ぶ成功事例の一つです」

 ネコさんがまた口をはさんだ。

「ちょっと待ってください。なんかそちらだけで、エフワンがどうのこうのとかエムワンがどうのとか、一体何の話をしてるんですか?」

「重ね重ね失礼をいたしました。F1層とかM1層というのは、お客様を性別と年齢で分けた時の区分なんです。F1層は二十歳から三十四歳の女性、M1層は二十歳から三十四歳の男性を指します。要するに、その漫才師はターゲットを若い女性から若い男性に変えて、自分たちの衣装やネタもすべて変更したことによって一気に売れたという事例です。ただしM1層を狙ったのは一種の賭けだったそうで、本人たちにも確実な成算があったわけではないようです。テレビのお笑い番組が爆発的に増えた時代だったからこその成功例かもしれません」

 村沢さんは丁寧に解説してくれたが、僕が生まれるずいぶん前の話だからなあ。

「この漫才師以外にも、高齢者を狙った漫談家でしたり、ティーンエージャーを主なターゲットにしているコンビなどが攻めの戦術の成功例として挙げられると思います」

 村沢さんの追加説明を前のめりに聞いていたサルさんが質問した。

「次はどの区分を攻めれば売れますか?」

 村沢さんは、落ち着いている。

「この話を紹介しますとそう聞かれることが多いのですが、先ほども申し上げましたように、売れるための絶対条件はありません。この区分を狙えば必ず売れるというものはないんです。ただし笑いの対象をどう設定するかは非常に重要なポイントですので、応用編でさらに詳しく検討していく予定です。ご期待ください」

 やっぱり応用編か。

 諦めのせいなのだろうか、みんな押し黙ったままだ。

「尚ここで強調しておきたいのは、さきほど挙げた成功例はターゲット設定だけで売れたわけではないということです。彼らはネタ作り・アピアランス・演出・パフォーマンスなどにおいても、高いレベルに達していましたから」

 ここまで一気に語り終えて、村沢さんは声の調子を変えた。

「それでは、二つのターゲットのもう一つである笑いの標的の検討に移ってよろしいでしょうか?」

 全員が仕方なく村沢さんの次の言葉を待っている。

「笑いの標的につきましては、お客様に笑われるのはお笑い芸人に決まっているというご意見がありましたけど、皆様も同じ意見ですか?」

 そもそも、自分たちを笑わせようとしている目の前の芸人以外を客が笑うなんてことがあるのだろうか。みんなも軽くうなずいている。 

「例えばこんなケースはいかがでしょうか。新喜劇というジャンルがありますよね? ご存知の方?」

ヒツジさんが手を挙げた。

「関西では新喜劇はかなりポピュラーで、自分も毎週観てました」

「ではヒツジさんにおたずねします。新喜劇ではお決まりのギャグというものがありますよね。だいたい同じようなシチュエーションで大御所芸人さんが登場してお馴染みのギャグをかますと笑いが起こりますが、この場合の笑いの標的は誰でしょうか?」

 村沢さんの突然の質問に、ヒツジさんは戸惑っている。

「え? その大御所芸人を笑っているのでは?」

「ちなみにヒツジさんは、こういう場面で笑っていましたか?」

「いえ、笑った記憶はないですけど、予想した通りの展開という安心感はありましたね。いい意味でのマンネリというか」

「そうですか、ありがとうございました。では、別のケースを考えましょう。落語をお好きな方はいらっしゃいますか?」

 サルさんが手を挙げた。

「ではサルさん、古典落語ってありますよね」

「はい、よく観ますが」

 サルさんは、何を聞かれるのかと不安げだ。

「古典落語って途中の展開から最後のサゲまでほとんど内容は変わらないのに、大名跡を継いだ人気の落語家が語ったりすると大ウケしますよね。この時の笑いの標的は誰だと思いますか?」

「落語家を笑っていると思っていましたけど」

 サルさんも困惑している。それにしても、すでに知っている噺で大笑いできるってとても不思議だ。

 僕たちの逡巡をよそに、村沢さんは左右を向いてから話し出した。

「思い出していただきたいのですが、笑いとは無意識の優越感の発露でしたよね。笑う人が笑われる人にユーソスを感じると笑いが生じるわけです。ところが新喜劇の場合も古典落語の場合も、お客様が演者である大御所や大名跡に対して抱いているのは、優越感よりは畏敬の念だと思われます。このことは、笑いの後に演者に対してお客様から拍手が起こったり、『いよっ、黒門町』などの掛け声がかかったりするところを見ても明らかでしょう。ではこの場合、お客様の無意識の優越感のターゲットは誰なのでしょうか?」

 大御所芸人や人気の落語家を笑っているのではないとすると、客は一体誰を笑っていることになるのだろう?

 村沢さんはゆっくりと解説を続ける。

「新喜劇でも古典落語でも、会場には話の展開をよくご存知のお客様がいらっしゃいます。そういうお客様は想定通りの流れの中でお決まりのギャグや使い古されたクスグリが出てくると、『自分は、知っている』という無意識の優越感を抱きます。中には優越意識をアピールしようとして、必要以上に大声で笑うお客様もいらっしゃいますけどね。いずれにしましても新喜劇や古典落語で笑っているお客様の笑いの標的は、話の展開を知らない誰かだということになるのです。この誰か、つまり不特定の第三者は具体的な存在である必要はなく、実在するかどうかさえ関係ありません」

 不特定の第三者が笑いの標的?

以前から、お笑いに限らずマンネリを喜ぶ客の心理というものがよくわからなかった。いつもほとんど同じような内容を続けていてどこが面白いのだろう、今まで見たこともないような新しいものの方がいいに決まっているのに、と思っていた。ところが新喜劇も古典落語も一定の客層にウケ続けている。

それは、マンネリだからこそ「知っている自分」としての優越感を客に与えることができるからだったのか。そして、その陰には標的としての「知らない誰か」が隠れているということなのだろう。新喜劇も古典落語も、水戸黄門も寅さんも、もしかすると歌舞伎や宝塚さえもマンネリの賜なのかもしれない。

 受講生たちの沈黙をよそに、村沢さんはさっさと続ける。

「では次に、モノマネがお得意だとおっしゃるキツネさんにお聞きします。モノマネで芸人が有名人の真似をするとき、お客様に笑われている人は誰でしょう?」

「当然、モノマネ芸人ですよね。違いますか?」

 キツネさんは自信なさげに答えた。

「では、こう考えてみたらどうでしょうか。笑われる人、というのはその場で笑い者になっている人とも言い換えることができますよね」

村沢さんがそこまで話すと、サルさんが急に手を挙げた。

「もしかして、真似されている有名人ですか? 笑い者になっているのは」

 そうか、モノマネ芸人が有名人を大げさに真似している時、笑い者になっているのは真似されている有名人の方なのか。客はモノマネ芸人を笑っているように見えて、実はその向こうにいる有名人の顔やしゃべり方の特徴にユーソスを感じているのだ。

「そうなんです。モノマネにおける笑いの標的は、モノマネ芸人ではなくて特定の第三者である有名人の方なんです」

村沢さんの説明に、キツネさんが思い出したように発言した。

「有名人の話ではないですが、会社で或る上司のモノマネをして大ウケした翌日に、その場にはいなかったはずのその上司から『あまり、やり過ぎるなよ』と言われたことがありました。誰かがこっそり撮っていた動画を見たらしいんですけど、大勢の前で笑い者にされたと感じたんですかね」

 キツネさんの話にうなずいていた村沢さんが付け足した。

「モノマネ芸人の中には有名人とたまにトラブルになる人もいますしね」 

 カエルさんがおずおずと手を挙げた。

「笑い者にしたとしても、その有名人に対してリスペクトを感じていれば大丈夫なんじゃないですか?」

「リスペクト? 本当に尊敬していたら公衆の面前で笑い者にしますかね?」

 村沢さんには珍しく皮肉めいた言い方だ。リスペクトしていると言いさえすればどんなにイジり倒しても許される、というような最近の風潮が気になっているのだろうか。

「笑い者、笑い者って、なんか笑う側が悪いみたいな言い方じゃないですか」

カエルさんが少しむっとした様子で突っかかっていった。

「いえいえ、笑う側のことではなくて芸人側の心得について言っているんです。モノマネ芸については、特定の第三者を笑いの標的にしているという事実を芸人側がしっかりと認識してそのリスクを管理する必要があると……」

 村沢さんの弁明をさえぎるようにカエルさんが言いつのる。

「なんかさっきから村沢さんの話を聞いていると、笑いが悪いことのように思えちゃうんですけど」

 カエルさんの勢いに気おされながらも、村沢さんはきっぱりと断言した。

「笑いを悪いことだとは言っていませんよ。そもそも人間は笑いたい動物なんです。けなされるより褒められたい。負けるより勝ちたい。劣等感より優越感を抱きたい。だからこそ、優越感を感じたら脳内物質が分泌されて快感を覚え、笑いという形で表情や発声に表れるのです。私は笑い自体を否定するつもりはありません。笑いは人間にとってごく自然な行動なんですから」

 村沢さんの言葉が終わると、カエルさんは本音を徐々に出し始めた。

「自然な行動だということで少し安心しました。でも、あたしはよく笑いますけど優越感を感じたことなんて一度もないです。劣等感ばかりです。韓国コスメもいっぱい持ってるし、ダイエットのためにパーソナルトレーナーにもついたし、痩せると評判のサプリは全部試しました。でもダメなんです。自分なりに精一杯がんばってるんですけど、優越感なんか感じたことありません。世の中には、いくら努力しても優越意識を持てない人もいるんです」

 そんなカエルさんに対し、村沢さんは優しいトーンで語り始めた。

「劣等感を隠すためではなく、ちゃんと優越感を感じて笑いたいのになかなか難しい、という人がいらっしゃるのはよくわかります。そんな、がんばっているのに優越意識を持てない方にこそ、お笑い芸人の出ている劇場に足を運んでいただきたいんですよ。少なくとも劇場にいらっしゃる間は、周りを気にせずに無意識の優越感に浸って思う存分笑っていただけますから」

 感動のフレーズが出てくるかと思ったら、今回もちゃっかり売り込みだった。

 村沢さんはスタートのころの調子を取り戻してきたようだ。

「このフェーズでは笑いの標的は必ずしもお笑い芸人とは限らないということをご紹介しました。よろしいでしょうか? はいカエルさん、まだ何か?」

 カエルさんが、思い詰めたようにゆっくりと話し出した。

「……実はあたしも、笑っている時に誰かを笑い者にしてるんじゃないかってことは薄々感じていました。友達と笑っているときも、有名人の噂とか、共通の知り合いの悪口とか、たまたま見かけた他人の見た目とかをネタにしてるので。でも、あたしは誰かを笑い者にしたくて笑っているんじゃありません。笑われる側になりたくないから、がんばって笑う側に立ち続けているんです」

 カエルさんからの率直な発言にどう反応したらいいのかわからないのだろう。村沢さんを含め、みんな無言のままだ。

 ふと見ると、ヒツジさんが右手を挙げている。

「どうぞ、ヒツジさん」

 村沢さんの指名を受けて、ヒツジさんが話し始めた。

「自分、実は外国人なんですよ」

 突然のカミングアウトにみんな呆気にとられている。

「両親はアフリカ出身で、自分は小学校低学年から日本で育ちました」

 そうか、それで日本語がネイティブなのか。

「最初は小学生ですから、やっぱり肌の色とかでいじられましたね。自分自身もまだ日本語が上手く出来なかったし。でも育ったのが関西だったのが幸いだったかもしれません。普通の会話でもボケとツッコミの役回りをテレコで担当するという環境だったんで、一方的にイジメられるということはありませんでした。身長が伸びてバスケを始めてからは、イジりも一切なくなりましたね。自分がお笑いを志したのも、ボケとツッコミを交代しながらお互いに笑い合うという関係性に助けられた経験があるからかもしれません」

 みんな一言も発しないでいる。ヒツジさんの話をそれぞれが自分の経験に照らし合わせているのかもしれない。

「オヤジギャグと馬鹿にしてるけど、主人の精一杯のボケなのかも」

とつぶやいたのはネコさんだ。

 そして、また静寂があたりを支配した。

この空気を打開しようとして元気よく声を出したのは村沢さんだ。

「ヒツジさん、貴重なお話をありがとうございました。関西以外の方には、普段の会話でボケ役とツッコミ役を交換し合うというような高度なコミュニケーションは難しいかもしれませんね」

 そうかな。ボケとツッコミみたいに明確じゃないにしても、例えばお互いの失敗談を笑い合うというような基本的な会話のキャッチボールは関西以外でも可能だと思うけど。

「では皆様、モノマネのように特定の第三者を笑いの標的にするネタにはリスクが伴うということについてはご理解いただけましたでしょうか? サルさん、どうぞ」

 サルさんの右手が挙がっていた。

「特定の第三者、特に有名人を笑いの標的にするとトラブルになるリスクがあるということはわかりました。ということは、不特定の第三者であればトラブルの心配はないということですよね」

 少し考えてから、村沢さんはゆっくりと答え始めた。

「さきほどの新喜劇や古典落語の例のように、不特定の第三者が結果として標的になってしまう分には心配ありませんが、漫才やコントのネタ自体に不特定の第三者を笑いの標的として登場させてしまうと、たとえ具体的な人名が入っていなくてもトラブルになる危険性は否定できないですね」

 サルさんは食い下がる。

「どうしてですか? だれを笑いの標的にしているかわからなければ、だれからも文句を言われる筋合いはないですよね」

 村沢さんは尚も慎重に答える。

「個人が特定されない場合でも、周辺情報などから或る集団を特定できてしまう場合は、その集団から差別であると主張されるなどのトラブルになる可能性があります。ですから、特定であろうと不特定であろうと第三者を標的にするのは避けるべきでしょう」

 すると、サルさんが不満そうに言い放った。

「そもそも笑いって人を見下すものでしたよね。だったら差別と思われても全然構いませんよ。売れるためなら多少のリスクは覚悟の上です。売れたらそのネタを封印すればいいだけだし」

 村沢さんは落ち着いて反論する。

「ところが最近、ある著名なクリエーターが二十年以上前の芸人時代の動画を問題視されて公的な職務から外されるという事案がありました。若い頃のネタだから大目に見てもいいのではないか、という考え方は通用しなくなってきているんですよ」

 そこまで聞いて、サルさんの不満が爆発した。

「自分が笑われて一発屋になるのもダメ、第三者を笑いの標的にするのもダメ、って一体どうしたらいいんですか?」

 村沢さんは顔色を変えずに断言した。

「それ以外の戦略を採用するべきだろう、というのが結論ですね。実は、笑いの標的を芸人自身にも第三者にも定めずにお客様の笑いを取る方法があるんです」

 その時、キツネさんが珍しく下手に出てきた。

「村沢先生、その方法をぜひご教授ください」

「それは、応用編で」

村沢さんの予想通りの答えにみんなが黙りこんだ時、ウサギさんが手を挙げた。

「この場にふさわしいかどうかわからないんですが、理論チームの先輩が絶対にお客様の笑いを取れるという作戦を思いついたんですけどご紹介してもいいですか?」

 ウサギさんなりにこの場の空気を和ませようとしているのだろう。渡りに船とばかりに、村沢さんはその申し出に飛びついた。

「どうぞ、どうぞ。皆様もよろしいですよね」

 誰からも文句が出ないのを確認して、ウサギさんがゆっくりと口を開いた。

「裸の王様作戦というんですけど。まず、自分のお笑いを理解できない奴はバカだと言いふらします。自分たちだけで足りなければ、組織ぐるみであらゆる機会を捉えて浸透させていきます」

ウサギさんは周りの反応を気にしながらも、さらに続ける。

「十分に行き渡ったところでネタを披露します。そうすれば、客はバカだと思われたくないので面白くなくても必ず笑います。というものなんですけど」

 なんだ、サークル内の与太話だったのか。場の空気は間違いなく軽くなったけど。

「ウサギさん、ありがとうございました。裸の王様作戦、やり方次第では有効かもしれませんね。さてこういう作戦が好きではないという方は、ぜひ応用編を受講してください。別の戦略をご紹介します」

 村沢さんは相変わらず売り込みに余念がない。

「そんな戦略って本当の存在するんですか? 応用編詐欺じゃないでしょうね?」

 村沢さんの口を滑らせようと、サルさんは挑発に励んでいる。

「詐欺? 詐欺とは人聞きが悪いですね。そこまで言うなら、詐欺じゃないことを証明しましょう。サワリをちょっとだけご紹介しますよ。本当にちょっとだけですよ」

 みんな、固唾を飲んで村沢さんの次の言葉を待っている。

「それは、笑いの標的をお客様自身に定めるという戦略です」

受講生たちの頭の上に疑問符が浮かんでいるのを察したのか、村沢さんは慌てた様子で説明を加えた。

「つまり、お客様がお客様自身を笑うように仕向けるということです」

 それに対してヒツジさんが質問を投げかけた。

「劇場でよう見かける客いじりをしろということですか?」

「いいえ、そうではありません。そもそも一般的な客いじりを見ていますと、劇場で笑っているお客様は自分がいじられているとは全く思っていないようですね。従ってこの場合の笑いの標的は、芸人にいじられている他のお客様ということになります」

 村沢さんは遠回しに否定した。

「じゃあ、どうやったら客が客自身を笑うことになるんですか?」

 サルさんはいらいらしながら催促するが、村沢さんもさすがに腰が重い。

「それこそ、本当に応用編のキモになるところですので勘弁してください。応用編では必ずご紹介しますから。はっきり申し上げますと入門編は完全な赤字なんです。応用編を受講していただいて、やっと利益が出るんですよ」

「今度は泣き落としですか、村沢さん。どうせ客が客自身を笑うなんてデタラメでしょう。他人に無意識の優越感を抱くのが笑いだとしたら、自分自身を笑うって訳わからないじゃないですか。詐欺確定」

 サルさんは突き放したように断言した。

「ところが、そういう場合が本当にあるんです」

 挑発に乗ってしゃべってしまわないように、村沢さんも今回ばかりはかなり慎重だ。

ふと見ると、なぜかウサギさんが手を挙げていた。

「はいウサギさん、何か?」

 ウサギさんは例のごとく落ち着き払っている。

「イギリスの思想家の言う、過去の自分という別の人間への嘲笑、のことですか?」

「あっ」

 さすがの村沢さんも今回は想定外だったようで二の句が継げないでいるが、ウサギさんはお構いなしに続ける。

「人は何かを知った時、知らなかった頃の過去の自分自身を別人格とみなして優越感を抱いて笑うことがある」

「そうです、その通りです。参ったな。まあいいや。その、お客様自身を笑いの標的にするためのネタ作りが応用編の目玉になりますので、ぜひ応用編の受講をお願いします」

 村沢さんの哀願に、キツネさんが怪訝そうにたずねた。

「客が客自身を笑うように仕向けられるネタなんて、本当にあるんですか?」

「ありますとも。疑うなら応用編を受講してみてください」

 自信ありげな村沢さんの対応に、みんな疑心暗鬼になっているのだろうか。一瞬、あたりが静まりかえった。

その時だった。しばらく聞く側に回っていたトラさんがつぶやいた。

「本物の伏線回収ネタ」

「……」

 村沢さんは、なぜか呆然としている。

 伏線回収ネタ? 前もって伏線を張っておいて、後で回収して笑いを取るというネタか。そういうネタを得意としている漫才師は大勢いるし、何を今さらという感じがしないでもない。ただ最近の傾向を見ていると、前半にあからさまな前フリを並べておいて後半で拾っていくだけとか、前半にウケた中オチを最後にもう一度持ってくるだけというようなナンチャッテ伏線回収ネタが横行している気もする。

ということはもし本物の伏線回収ネタが書けたら、客が客自身を笑うというアクロバットが成立して拍手ではなく爆笑ウケを取れるかもしれない。

「な、何を言い出すんだ?」

 村沢さんはなんとか言葉を絞り出したが、トラさんは全く気にしていない。

「先日の幹部セミナーで発表してましたよね、村沢さん」

「え? と、とがわ君もあの席に?」

「本名で呼ばないでください、今はトラなんですから。あとで社長に録画を見せてもらっただけですよ。確か『伏線はあくまでもさりげなく、それでいて客の記憶に残るように張ること。事前にばれてしまうようでは伏線とはいえない』でしたよね」

「わかった、わかった、もういいから。社長も余計なことを」

 村沢さんの焦りを無視するかのように、トラさんは声を張り上げた。

「伏線回収ネタを書く際は、最後の大オチから逆に作っていくこと……」

 と、ここまで聞こえていたトラさんの声が急に消えた。

村沢さんが音声をオフにしたのだろう。

「はい、受講生の皆様、お笑い講座入門編は以上ですので、アンケートのご記入をお願いします。なお、アンケート画面の最後に応用編の受講希望欄がありますので、受講を希望される方は『受講する』をクリックしてください。希望されない方は、そのまま終了ボタンを押して退出していただいて結構です。はいウサギさん、どうぞ」

「応用編の受講料の支払いはどうしたらよろしいですか?」

「そうですね、受講希望ボタンをクリックしますと、入門編を申し込んだ時に登録していただいたクレジットからの自動引き落としとなりますので、改めてご登録いただく必要はありません。他にご質問はないですね。では、お笑い講座入門編は終了です。ご受講ありがとうございました」

 村沢さんの声がまだ耳に残っているうちに、画面はアンケートへと自動的に遷移してしまった。

さあ、応用編をどうしよう。受講料の支払いについて質問したところを見ると、ウサギさんは受講するみたいだな。とすると、僕も受けようかな。本物の伏線回収ネタを書けるようになれば「笑臨時」に入りやすくなるかもしれないし。でも三十万円か。三十万円あれば、新しいパソコンを買えるし三ヶ月分の家賃にすることもできる。かなり痛い出費だな。でも応用編を受講すれば、ウサギさんと親しくなれるかもしれないぞ。お茶大生の彼女か……ムフフ。

待てよ、誰かが言ってたけど応用編詐欺ということも考えられるな。いやいや、三十万円程度のためにこんな面倒くさい仕掛けを作るだろうか。受講生たちのギャラだけでコスト割れしそうだ。

 コスト? AIを使えば低コストでも可能だぞ。でも、マルチチャットの自動生成プログラムはまだ実用化されていないはず。まさか、マルチに見せかけておいてシナリオ型とのハイブリッドタイプなのか?

 突然、警告音が鳴って画面に赤い文字で「応用編、定員まであと一名」というメッセージが表示された。まずい、ウジウジ考えている間に締め切りになってしまう。もしこれが詐欺だとしても、二ヶ月間バイトをただ働きすればいいだけだ。えーい、行っちゃえ。

 僕は「受講する」をクリックした。

<了>

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