読書感想文 ハリー・クバート事件 (ジョエル・ディケール 著)

 これはミステリー小説なのだろうか。
 たしかに殺人事件が発生し、それにまつわる多くの謎が存在する。マーカス・ゴールドマンは、師匠であるハリー・クバートに殺人の容疑がかかっていると知り、無実を信じて調査を開始する。
 でも、この本の中心は謎解きではない。ミステリーファンからすれば、やや掟破りな部分もある。やはり、この本の中心は謎解きではない。
 ハリー・クバートは「悪の起源」を代表作とする一流作家であり、教養があり、上品で、洗練され、米国で最も尊敬される文化人の一人だ。バローズ大学文学部の教授を務めている。そのバローズ大学文学部にマーカス・ゴールドマンが入学し、二人は出会い、師弟関係を結ぶ。マーカスは作家になりたかった。そして、「悪の起源」のような傑作を書きたかった。ハリーは孤独だった。おそらく、マーカスの才能に気がついたのだろう。この相思相愛の疑似親子的な師弟は、最終的に欧州の文学によくある「父親殺し」が発生する。ただ、とても気持ちが良いのは、この「父親殺し」は息子が不可抗力で成り行き上仕方なく殺してしまい、父親は息子の才能を知っているが故に殺されることをあらかじめ分かっていることだ。息子は殺した後でも父親を尊敬し、父親は自分を殺した息子を誇らしく思う。
 なぜ、ハリーは孤独だったのか。
 ハリーには33年前に愛する人がいた。ノラ・ケラーガンだ。しかし、ある夏の夜に突然行方不明になった。しかも、ただの行方不明ではない。血だらけのノラが男に追われているらしいと警察に通報があり、それ以後、ぱったりと姿を消したのだ。着ていた赤い服の切れ端と血痕とむしられた金髪を残して。
 ミステリーの始まりはノラの白骨化した遺体がハリーの家の敷地内から見つかったことから始まる。ハリーではないとしたら、犯人は誰なのか?なぜ殺されたのか?なぜハリーの家の敷地内に埋められたのか?
 物語の舞台はニューイングランドの田舎町・オーロラだ。そこにはステレオタイプともいえる米国の田舎町にふさわしい個性的で良心的な人達が慎ましく暮らしている。皆がハリーを尊敬し、その弟子であるマーカスを温かく見守っている。しかし、マーカスの調査によってそれぞれの本当の姿が立ち現れてくる。物語が次第に田舎の暗い一面を映し出す。ノラとはどんな女性なのか?周囲の人間はノラとどのように関わっていたのだろうか?そして、物語全体で幾度となく20世紀米国文学の最大の傑作の一つである「悪の起源」に立ち戻る。この物語の全てが最終的に「悪の起源」に収斂していく。「悪の起源」が終わりの始まりであり、「父親殺し」のステージであり、著者が読者を裏切る道具なのだ。
 だから、やはりこの本をミステリー小説として読むべきではない。この本は、傑作にまつわる作家の悲劇を描いた物語だ。ハリーにとっても、マーカスにとっても、傑作は悲劇をもたらすものでしかない。「悪の起源」が書かれなければ、ノラは死ななかったのかもしれない。それでいても、なお作家は傑作を欲する。それが作家の業なのだろう。

上巻
出版社 ‏ : ‎ 東京創元社; 文庫版 (2016/11/11)
発売日 ‏ : ‎ 2016/11/11
言語 ‏ : ‎ 日本語
文庫 ‏ : ‎ 512ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488121047
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488121044

下巻
出版社 ‏ : ‎ 東京創元社; 文庫版 (2016/11/11)
発売日 ‏ : ‎ 2016/11/11
言語 ‏ : ‎ 日本語
文庫 ‏ : ‎ 477ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488121055
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488121051

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