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果たして私はチー牛じゃないのだろうか

私は前回の記事にて京大エンカの事を書いた。
そして酢酸や蜂蜜から容姿について褒められたのだが、、私は未だに🤓であると思っている。

確かに容姿を褒められるのは嬉しい。
これは人類共通と言っても過言ではないだろう。
何にしても人間という生き物は褒められるだけで何か幸せを感じるのである。
ぼっちざろっくというアニメがある。
作中の主人公後藤ひとりは陰キャで根暗であり、彼女はダンボールに入っているイメージがあるだろう。
しかしながらそんな彼女も褒められると調子に乗り自己肯定感が上がるのである。
褒められるということはとても嬉しいということを体現しているのである。

だがしかし、褒められようが彼女は変わらず根暗な陰キャである。
これは作者であるはまあじきも言っているが彼女は永久にいじられる運命と言っても過言では無い。
よって褒められたところでなにか変わるという訳では無いのだ

という例から、私も同じ感じであるように思う。
しかしながら思うだけで証明できない。ということで認知学の観点から見てみよう。

ということで使うのはjstageである。
ここには山ほどの論文がある。ということで東京都立大学の山本先生が書かれた認知された自己の諸側面の構造という論文を用いて考えてみる。
これによれば外見、容姿は自己の外見的側面を表すものとなっている。そして家系などで自己の認知が決まるとのことらしい。

そして男子は知識など内面の自己の側面性が高いことがわかった。
よって自分は自分、他人は他人と言えることが分かる。

ということで自分がチー牛なのかはFFの判断に任せるとしよう。


参考文献
認知された自己の諸側面の構造
山本 真理子, 松井 豊, 山成 由紀子

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