見出し画像

コースは世界をよりよくするためのものではない?

昨日の記事の、以下の引用部分ですが、
テキストではなく、
加藤三代子さんが書かれた小冊子「原因についてのコース」を開いて、書かせていただきました。

あなたが好んでいると思っている夢も、恐れが見えている夢と同様に、あなたを引き止める。なぜなら、どの夢も、いかなる形を取るように見えても、すべて恐れの夢にすぎないからである。恐れは内側にも、外側にも、その両方にも見られる。あるいは、快い形に偽装されることもある。恐れが夢の中に不在ということは絶対にない。なぜなら、恐れが夢の素材であり、夢はすべて恐れから作り出されているからである。夢の形が変わることはあり得るが、恐れ以外の何かから夢が作り出されることはあり得ない。(T-29.Ⅳ.2:1-6)

昨日の記事を書き始めた当初は、
この引用部分のことは、頭にまったくなかったのですが、
昨日の記事で、

でも、博士のコース(ワプニックの道)においては、
「自我のシナリオ」も「聖霊のシナリオ」も全部「自我のシナリオ」ということになっているように思います。

と書いたときに、

「まてよ。確か、『原因についてのコース』に、夢はすべて恐れから出来上がっていると書いてあったよな。ということは、やっぱり、博士の解説のほうが正しいのか」

ということが思い浮かんだんですよね。

加藤さんは、テキストの上記の部分を引用することで、

ですから、どのような角度から見ても、『奇跡講座』は、この世界をよりよく作り変えるための教えではありません。

と、「原因についてのコース」の中で、言っているわけなのですが、
疑問に思って、上記の引用部分のあとを読み進めてみたところ、

聖霊が与える夢は、恐れを核心とするものではない。

ということが書いてあったんですよね。

また、加藤さん自身、小冊子「思考の逆転」を、
ワークブックの以下の引用で締めくくっております。

赦しが描き出す世界では、苦しみは終わり、損失は不可能となり、怒りは意味をなさない。
攻撃は過ぎ去り、狂気には終わりがくる。
そのとき、どのような苦しみがありえるだろう。
どのような損失を被ることができるだろう。
世界は喜びと豊かさと慈愛に溢れ、いつまでも与え合う場となる。
世界は今やあまりにも天国に似ているので、そこに反映されている光そのものへと速やかに変容する。
そうして神の子が始めた旅は、彼の故郷である光の中で終わる。

「世界は今やあまりにも天国に似ている」という言葉を素直に読むならば、
「自我が作り上げたこの物理的世界は、最終的には、天国に似たものとなる」
と解釈できるように思います。

ということであれば、

コースはこの世界をよりよく作り変えるための教え

と言ってもよいのではないでしょうか。

というか、正確な表現としては、
「世界は、世界が生じた瞬間に、神によってよいものに作り替えられており、わたしたち時間の中にいると信じているものは、そのことを時間の中で少しずつ目撃し、実感していく、
そのための教えがコースである」
ということになるように思います。

「マニュアル」には、以下の記述があります。

神の教師たちは世界を信頼している。
なぜなら、彼らは、世界はそれ自体が作り上げた法則によって支配されてはいないと学んだからである。
それは彼らの内にありながらも、彼らのものではない力によって支配されている。
すべてのものを安全に保持しているのはこの力である。
神の教師たちが赦された世界を見るのは、この力を通してである。

加藤さんは、

「どのような角度から見ても、『奇跡講座』は、この世界をよりよく作り変えるための教えではありません」

と断言していますが、
聖霊が見ている角度から見れば、やはり、

「『奇跡講座』は、この世界をよりよく作り変えるための教え」

と言ってもよいのではないでしょうか。

より正確な表現で言うと、

「この世界をよりよくするのはあなたたちの仕事ではありません。それはもうすでに神によってなされているのです」

ということになりそうですが。

とはいえ、この点については、
もう少し考察が必要のような気がしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?