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ヴィクトリア朝のドレス

 今ね、レース編みをチマチマしているの。
それは手縫いの下着を見て、作りたいって思ったから。そんな製作意欲がかられたのは、4月にあった半分解展へ行ったからなんです。


今回、この展覧会のテーマは、ヴィクトリア朝のドレスと題していて、ロココの後期のシュミーズドレスから、鹿鳴館時代でお馴染みのバッスルスタイルのドレスが眺めて触って匂いを嗅げるという展覧会。そこで、手縫いの(この頃はミシンが存在してなかった)下着やシュミーズドレスを見て、ああ作りたいとなってしまったのです。
この展覧会は、本物のアンティークドレスを半分分解し、標本したりする展覧会なのです。
 今回は、体調と日程を調整して、ほぼ日参を目標に参加しました(再入場可なので、何回も入れます)。開催場所は渋谷。早番の仕事帰りに、休みの日にと(流石に遅番は行けませんでした)、約二週間時間が許せば通っていました。(流石にあまりにも興奮して、途中でバテて、1日お休みしまたが)
 そこには、所狭ずにアンティークドレスが埋め尽くされてます。
 今回の展示会は時代が限定されているので、あるのはヴィクトリア朝のドレス達です。
この時代のドレスといえば、前期の薄い更紗のシュミーズドレス。ヴイクトリア女王が即位時着用していたようなエンパイアスタイルのドレス。そして、段々と袖が膨らみ、ウエストが細くなるジゴスリーブ、そして、次はスカートがだんだんと大きく膨らむクリノリン、中期のお尻を強調するクリノレット、後期のフリルプリーツを多用したバッスル。それから、何でもありなドレスです。展示会も色々なドレスを見れて触れて大感激でした。
 この展覧会は、個人(この展覧会の主催者長谷川氏)のコレクションを展示されていて、もう100年200年前の現存するドレスをそのままだったり、修復し綺麗にしたモノであったりが埋め尽くされているのです。
(後からこのドレスは海外の美術館から買っている話を聞きました)
 そして、名前の通り一部の衣装は、半分分解し標本の様になっています。 
昔の女性が当時着ていたドレスが間近で見れる貴重な場所なんです。
 来場者は色々な方がいて、歴史の考察のための方、単にドレス好き♡という方、本職の服飾デザインの方など色々な目的の方が多く、行けば楽しく、同好の志なので、熱く語り合ったりしました。  
 その場で色々と話したことを裏付けしようと調べたら、間違っていたこともあり、その訂正の意味から、もう一度、ファッションに特化した時代背景を考察し、さらに歴史のおさらいしようという事で、まとめて見ました。
 
取材も来ていました、こちらで雰囲気が楽しめます(ニコ美)
300年前のドレスを博物館から買い取って分解している衣服標本家の展覧会を巡ろう(進行:橋本麻里)【ヴィクトリア朝のドレス展×ニコニコ美術館】


ヴィクトリア朝時代って?


 まずヴィクトリア時代の時代背景を書いていきましょう。歴史が分かると、より深くなりますからね。
 ヴィクトリア朝って何? いつ? となりますね。端的に言えば、朝と言っても、王朝でなくヴィクトリア女王の在位した治世と言うことらしいです。1837年から1901年の間です。これは歴代英国王室において二番目に長い在位期間となります。一番はこの間、崩御されたエリザベス女王です。


 そんな訳で、ヴィクトリア女王は若く19歳(他の資料では18歳という記述もあり)で王位に着きます。この時もちろん独身です。
戴冠式の衣装は、ジョージ・ヘイターのヴィクトリア女王の戴冠式という絵画ではシュミーズドレスぽいドレスを着用してますね。その後の肖像画のドレスはオフショルダーになってます。(絵画は色んな版権があるので検索してください)
 後年には、おばあちゃんの姿にレースを頭にかけて流行りのスタイルの肖像画もありますね。
 こうして絵画からも当時の流行りのドレス服装が垣間見れます。
 そうそう、この展覧会前に、印象派展にいったのですが、モデルの服装から、年代が、背景が分かり、絵画を見る時も考察が深くなってました。こんなところにも利点がでるんだーと、1人感心していました。
 そんな感じにファッションても遍歴の激しいヴィクトリア時代です。


 

まず歴史的なおさらい


 このヴィクトリア朝の少し前のファッションリーダはフランス王家でした。その頃のフランス王家はブルボン王朝で、ヴェルサイユ宮殿に代表される様に栄華を極めたルイ15世のロココの可憐な耽美で華美なキラキラ文化。担い手は貴族でした。横に大きく広がったローブ・ア・ラ・フランセーズに代表されるモリモリの煌びやかな衣装です。
それから市民革命のフランス革命を経て、人は、貴族、平民に違いなどはないとなり、ファッションも人間の本来の姿を耽美するルネッサンス復興、ギリシャ文化の賛美から、本来の剥き出しの人間の肉体こそ美しいと、人間本来の形に視点を持っていった懐古主義の復興を目指す、新古典主義になっていきます。この頃になると新しい階層、ブルジョワが出てきます。この頃のファッションはインド更紗のスケスケのシュミーズドレス。実はこのドレスの発案者って、あのマリー・アントワネットさんなんです。驚きです。
その後、もう少しむき出しの人間をオブラートに包む隠そうよとロマン主義が出てきます。耽美ですね。
 ナポレオンは公式の時には絹布を使うというおふれを出し、エンパイアスタイルに移ってきます。そもそも、シュミーズドレスはあの薄布でフランスやイギリスで着るんですから、肺炎起こしたり、パリではインフルエンザの大流行で、結構な数の人が亡くなっています。
そう、このファッションでの『死』が今回のヴィクトリア朝にはぴったりな言葉じゃないかと思います。これからも、若い女性がドレスのせいてたくさん死で行きますから。4
そして次のポイントは、このインド更紗。
 この薄く軽い布地が欧州中の女の人達に人気になりました。
なので、イギリスは、織物を綿布にすれば外貨獲得に有効だと思いました。丁度、産業革命期で機械化されてきている織物。糸紡ぎとか紡績とかが工業化されていきます。
 そんな感じにイギリスでは毛織物から綿織物へのシフトも簡単にてきました。なので更紗の綿布は工業化したイギリスで大量に作られる様になりました。手仕事のままのインドでは、勝ち目もなく、綿インドの織物は衰退してしまいました。これでインドは多くのものが失業してしまい、食うに困るようになってしまったと言われてます。

植民地貿易と産業革命

 イギリスが次に欲しくなるのは綿花となりました。最初は綿花もインドから輸入していましたが、それも、距離があり、面倒となりました。
 コロンブスの新大陸の発見から、欧州諸国はアメリカに植民地を作ってました。遠くインドの綿花を持って来るより大西洋を渡る方が手軽です。
この辺も産業革命からタービンエンジンの開発とから高速の船が作られるようになり、大型客船も作られていました。
なのでイギリスは、西アフリカの原住民をアメリカに連れて行き、そこで、農園労働をさせます。プランテーション経営です。しかし、時代から奴隷の人道問題が浮上します。イギリス嫌いなフランスが嫌がらせのようにアメリカの独立運動の支援をしてきます。そもそも、フランスは、その前七年戦争の時、イギリスに新大陸の領土の殆どを取られてます。だから、対イギリスへの嫌がらせなんでしょうね。
アメリカのイギリスから独立の手助けをフランスがすれば、当たり前のように自国の庶民も決起します。そこでフランス革命が起きます。王政の廃止と共和制の樹立

ウィーン会議


しかし、フランス市民の台頭に危惧した近隣の諸侯王族達が対仏大同盟を作ります。そもそも、彼ら王族の頭の中では、王権は絶対なので、支配者は王。それは神より与えられた権利という揺るぎないモノという信念で、侵せられな絶対不可侵な権力だと思われていたのでした。
そんな不遜な思いなので、逆に軍人ナポレオンの台頭を許ちやうんです。ナポレオンは力は正義なのでね。そこで、さらに近隣諸国は警戒を深め、フランスの軍人支配、軍国主義に抵抗し始めます。何回も対仏大同盟が結ばれ、フランスの包囲網が出来上がってきます。それを打ち破る様にナポレオンは、イギリスの南下を防いだり、オーストリアをやっつけたり、と、初期の頃は無双でした。
この勝利に気の良くなった国民議会は、俺たちが選んだ人が統治すればよかろうと、ナポレオンを大統領に任命しちゃいます(1804年)。皇后はこの時のファッションリーダーの「陽気な未亡人」のジョゼフィーヌ・ド・ボアルネです。この人、貴族でした。フランス領の西インド諸島のご出身でした。
会場でわたし、平民だよねって言っていたので訂正しますね。
 当のジョゼフィーヌさん、無口で根暗ってナポレオンの事言っていたんですよね。それなのにちゃっかりと皇后におさまりました。
ナポレオンの戴冠式です。絵画でもジョセフィーヌさんは薄いエンパイアスタイルのドレスですね。
こんなに綿布が人気になると、高い絹製品を身につける人は少なくなります。それで、リオンの絹織物が死に体に。なので、ナポレオンは、公的な式展では絹の着用を義務つけます(1811年)。

そんな皇帝ナポレオンは、イタリア、エジプトに進行したりしました。まあ、そのナポレオンのお陰というか、遠因となりイタリアは統一へ向かちゃいますし、もう一方のエジプトでは、ナポレオンは戦争そっちのけで、スエズ運河の調査などもしていました。このお陰でのちのスエズ運河の竣工のきっかけとなったんですね。歴史って面白いですね。
 
 しかし、そんなナポレオンも後年になると失敗も多く、スペインへ侵攻して、王の首据え変えたら、その王様が領民からの猛反対を受け、退位させられるくらい、市民の反感をくらいました。
 その統治したスペインを足掛かりに、今度は、イギリスに上陸しようと画策し、1805年にトラファルガーの海戦で、イギリスがフランスに勝利し、英国の大西洋制海権の樹立でのきっかけとなります。フランスは、ナポレオンは負けちゃいました。そして、そんな状況を打破しようと、冬なのにロシアへ向かいます。もちろん大失敗。それがきっかけになり、議会はナポレオンの退位(1814年)を迫りました。
 これをみて、周りの国々の王様達は、市民らに、「ほら見たことか、政治はやっぱり王様がいいんだよ。庶民には無理よ。王位は王族が神からの授かった力なんだよ」とか言って、それら王族国家は絶対王権の治世の復活を目指します。そこで、話し合いがウィーンで開催されます(ウィーン会議)。
 『会議は踊る、されど進まらず』と言われて、華やかな夜会の様子が話題となった会議ですね。この時の女性の服装も絵画では、生地はシルクになってますが、エンパイアスタイルですね。

 ナポレオンに荒らされて、ばらばらになった国をキチンと戻すという、秩序の維持、領地問題の解決という名目の会議です(1814年)。まあ実際にはイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアなどと大国支配の確立と王政復興となります。
 議会は進まなかったのですが、ナポレオンがエルバ島から脱出したとの情報がもたらされると、戦々恐々となった諸国が、早いとこ決めちゃえって、一応の妥結がなされました。この後、ヨーロッパはウィーン体制となります。


産業革命の恩恵


 この時には、大量のコットン生地がイギリスで作られる様になっていました。新しい布地モスリンが作られるようになりました。薄く軽いモスリンは、クリノリンドレスに一躍かってます。だってシュミーズドレス寒いもん。透け透けの布は。モスリンの一部は毛を綿と織り込んでいるのでいる布もあり、薄くっても暖かい布なのです。それに印刷技術の向上で、プリント生地もできました。今までの刺繍はなんだったのというくらいの速さで可愛さアップ。

 その後、懐古主義的な新古典主義よりロマンだよねーと、ハイウエスト、ネックライン、ショルダーラインの下がった、踝が見えるスカート丈のロマン主義が流行ります。また袖が大変なことになりました。シゴ袖です。
 やはりちゃんといっぱい着込まないと。女に冷えは大敵。それに味方するように、産業革命のお陰で、布地も安くなりました。クープクリノリンというペチコートも発明されました。クープクリノリンってあの輪っかのペチコートのこと。
なので、昔みたいにたくさんペチコートをつけなくても良く膨らむ様になり、動きやすくなります。それによりスカートがまくれて秘する場所が露にならない様に、ドロワーズを履く様になりました。
人気のインド更紗のような生地をオシャレに作りました。新しいプリント技術の発達で、擦染、いわゆるシルクスクリーンとかできる様になり、ローラアシュレイっぽい小花プリントを作り始めます。  
 今まで刺繍でしかできないなかった模様が手軽にできるようになりました。そんな工場はそれで労働力とされてなかった、女、子供も労働力として使われて行きます。熟練工より安価で大量にあったからでしょうね。なので、その頃のロンドンでは人口が倍以上に増えてます。

新しい階級の出現

 工場を作るとなると、そこに投資が生まれますね。経済も近代化してきます。その投資、まあその前に東インド会社に投資し、莫大な資産を得たミドル階級がいました。そんな感じに小金持ちが出てきました。新しい富豪層(ジェントリー階級)です。
 そこで、その小金持ちジェントリーが文化を牽引して行きます。今まで貴族階級のものだった演劇も音楽も庶民に近くなってきてます。その担い手は、この変化に敏感だったこの人たちです。貿易で儲けたり、工場に投資したり、工場を作ったり、人を労働力を斡旋したりした人達ですね。ジェントリー階級の収入の増加があり、文化の担い手となってきました。もちろんファッションリーダーは王侯貴族様ですが、あちらはあちらで大変なしきたりの中で生きてますので、はい。
 とそんな感じで新しい息吹を感じながら、ヴィクトリア調時代の歴史的背景のお話はお仕舞いです。

 この辺はシャーロックホームズの映画とかTVドラマを見るとよくわかりますね。


https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/0N4M7L38W9SJ0PXBR29W6FDRE2/ref=nav_custrec_signin

万博博覧会の開催



 ヴィクトリア朝の中期です。この頃の目玉は、世界万国博覧会です。
産業革命以降世界の工場となって台頭してきた、我ら大英帝国は自分たちの技術力を披露します。

あと、ファッション界の一大事。微粒子病という病気がフランスで発見されます。
生糸生産が落ちてきます。次はイタリア、今度はスペインという感じです(1850年くらいからジワジワ伝染し始めてイタリアに蚕卵は1856年には全滅の一歩手前)。
 ギリシア、トルコに助けを求めるけど、こちらも感染していき、コーカサスも病魔に襲われていきます。(これを解決したのがパステュールです)
 そんなこんなで、フランスもちょっと大変だし、イギリスだって大英帝国だとうかうかしていると、後ろから凄い勢いで、アメリカがやって来そうな感じです。
 そんなことなどお構い無しで、コルセットから解放された女性は、しかし、再び窮屈なコルセットで腰を細くして行きます。しかも、動き易い服欲しいって、活動的になって行きます。時代も新しい時代と変わって行きます。エネルギーもガスから電気となって来ました。そんな近代の幕開けが感じられるパリ万博が開催された、翌年にヴィクトリア女王は崩御されました(1901年)。
後年はいろんな事言われてますけどね。19歳からちゃんと女王として背筋伸ばして生きてきたんだから、死ぬ前の数年女として楽しんでもいいかな?とは思いますね。ふふふ。


産業革命とファッションの変化



 ヴィクトリア時代って、イギリスが世界一の栄華を極めた時代ですね。産業革命により近代化へ一番乗りし、世界を工業化の道へ牽引していきました。その時の領土は世界の4分の1は「日の沈まない国」の代名詞のように、大英帝国のものでした。
 その技術力をひけらかす様にロンドンで万国博覧会が開催されます。
 問題の産業革命は、ヴィクトリア女王のお祖父さんの時ジョージ2世からお父さんのジョージ3世に渡る辺で始まりました。
当時、囲い込みで郊外の小規模の農民が大農地にくみこまれ、農民は土地を手放し小作農となっていました。そんな農地を手放した農民達を囲い混む感じに、小規模な工房ができました。この頃は、まだ問屋性で、機械をその農民なりに貸出す形の冬の手仕事でしたが、次第に大きな工場を作り、その小作人を工員として雇う形になりました。労働者の誕生です。
産業革命は、今までの小さな工房での手作業や農民の冬の手仕事だったモノが、機械を使う工場へと変わっていきました。熟練工を必要としなくなりました。場所は、囲い込みから土地を手放した農民達がいっぱいいる農村部。そこで大きな工場を作ります。土地も沢山ありますから。
 さらに、統合されたスコットランド、アイルランド人、アフリカ奴隷も居ました。そんな中、仕事の無くなった熟練工が打ち壊しを始めます。ラダイト運動です。
そんな事はお構いなしに、技術革命は進みます。だって便利だし、何でも楽になりますから。
そんな工場を経営するのは、地方の郷士と言われるジェントリー階級です。この階級が小金を持つことで、コレからの文化を牽引していきます。中流階級の誕生です。
 この新しい富裕層がコレからの未来を引っ張っていきます。
 イギリスでは普通選挙法の制定がされます。今までの貴族僧侶だけでなく、ブルジョワ階級にも選挙権が与えられました。その後、労働者にも選挙権が与えられる様になります。
そして、義務教育法もでき子供は誰でも学校へ通う様になります。
しかし、庶民は相変わらず長時間労働に勤しんでます。
その反面、この時代は、すごい勢いでテクノロジーの変化が起きた時代です。
結構、現在と似ていますね。現存の産業が廃れ、新しい産業が勃興しているのです。
その新しい産業に組み入れられる人は一晩で巨万の富を得られると。
ファッションの話に戻りますね。
工業化に伴いこの時代の衣装も画期的に変化していきます。
この時代のファッションリーダであるジェントリー階級は、当時の没落貴族よりも良い暮らしをしている者もいました。そして、夫人に煌びやかかな衣装を身に付けさせることがステータスとなってきていますから。オシャレに関心も高かったと思います。
 しかし、その煌びやかな光の反面、この時代、偉大な大英帝国は、その裕福な基盤と富を作るために、殆ど他国と戦争ばかり行っていました。
悲しいかな、戦争によって工業技術も躍進すると自然の摂理を目の当たりにします。
産業革命では、簡単な水車による水力紡績機が発明されます。次は蒸気機関による紡績機です。
いいや、いいや、本来は、蒸気機関は機関車や蒸汽船が作られていたんですね。それらも大型化、高速化が進められます。そして、郊外からの製品を街まで、遠くの国へ輸送します。
アヘン戦争により遠くインドまで船を運ばないといけません。高速タービンの必要が出てきましたし、動力の小型化することで、大砲が沢山積めます。
 そんな理由からも動力やモーターの改良伴い、新しくできた蒸気機関を使った紡績業も導入されたんですね。紡績の工業化製が進みます。糸の高速化、今まで同時に紡げるカセの数も、2個だったモノが6個で紡げるようになったり、速くなり、細く丈夫に成政いた。紡績業の改良、中でも飛び杼の発明が紡績にとっては大きく、生地幅も広くなりました。機織りって杼(シャトル)を投げられる幅しかできなかったのですが(機織したことあるとわかるのですが、幅は手で織ると肩幅くらいです)
 この発明、開発で布幅が120センチ、うーん、イギリスなのでヤードだよね、半ヤードだった布巾が1ヤード、2ヤード幅が織れるようになっているみたいです。
この飛び杼の説明はリンク貼っておきます。見た方が分かりやすいです(この中に、トヨタ産業技術記念館で、現存する織機を使い飛び杼の解説してくれるってあります。他にも水力紡績や蒸気紡績もある見たいです。行ってみたい)
飛び杼とは産業革命に大貢献した発明品:仕組み


このドレス前後ろ3枚づつの6枚剥ぎ


この頃は布幅は半ヤードくらいでした。


バッスルスタイルのドレス


 この辺になると幅も1ヤードくらいありますね。


 そして、機を織るスピードも上がり、しかも安価で布地ができる様になりました。

シュミーズドレス
↓こんなふあふあのヤツですね(コレはクリノリンになるのでもっと後のドレスです)
モスリンだったか綿ローンのプリント



新しい布


織物紡績も今までの毛織物に綿を混ぜたモスリンとか薄手でも暖かい布帛が織れるようになります。先染め糸で織り込んだり、後から擦染したりと布も種類が多くなってきました。少し絹布より軽く薄くなりました。柔らかいですし、ふぁっとなります。するとエンパイアスタイルのドレスから裾が広かったドレスに、ハイウェストで撫で肩の袖が膨らんだドレスになります。ジゴスリーブのドレスですね、それが流行ります。この辺1880年代に差しかかった辺りですね。
実はイギリスは絹糸の生産に失敗して中国から絹糸買ってました。なので絹が廃れるのはOKでした。しかし、フランスは国幹産業の一つでもあり、国内産業保護の点でも絹布の使用は必須でした。なのでナポレオンはリオンの絹布産業を守る意味もあり、公式の場での絹布の使用を強制しています。
 そして、産業革命でココで注目するのは(ファッションだからね蒸気機関車より)、新しい縫製機械ミシンの発明です。アイロンの進化もあります。
 今までの手縫いでは縫うことのできなかった、布の何枚重ねとかも縫えるようになります。
 その少し前に、工業化に反対するように熟練工によるラッダイト運動がおきます(1779年)。
 今までの熟練工が、修行が意味をなさなくなりました。機械を使えれば、誰でも良いとなったのです。そんな時、紡績工場が打ち壊しの対象と狙われたりします。最後には暴動化し、軍による制圧になりました。
 そんな抵抗も、時代の波には抵抗できず、次第に増えていく工場にのまれて行きました。
 ファッションでは、もう一つの恩恵が、布帛以外にありました。フープクリノリンの改良です。
 蒸気機関の発明から、製鉄も進化しましたから。
 今までは鯨の髭で作られていたフープクリノリンは鉄製になりました。コレをつけたら膨らみは今まで通りなのに、重さが鉄の方が軽いと。それだけ、何枚も重ねたペチコートで重たくなったドレスを着ていたのでしょう。
 これでペチコートを何枚も重ねなくて済みます。その前に、馬の立髪で作った軽いペチコートも出てきましたね。この辺の経緯からドロワーズを身につける様になったと。
それにこれらは小さく畳めるというのか重ねることができました。丈夫で柔らかいので、鯨の髭見たいに折れません。椅子に腰かけることもできます。
 そんなフープクリノリンは更に改良が重ねられて、フープが波型になったりしています。そして更に、鋼の発明で更に軽量化しました。蛇腹作りすることもできました。なので一層小さく畳めます。
蒸気機関車の発明から、時は旅行ブーム。身軽に汽車に乗ってお出かけもできます。
今までの立っているだけ、座っていだけだった身体の動きから段違いに、自由にお散歩や買い物もできます。下はドロワーズに綿のペチコート、フープカバー、ペチコート となります軽く動きやすくなりました。
 それに、鉄道の整備により手軽に遠くまで旅行にいくこともてきるようになりました。新しい娯楽のスポーツ、自転車、車の発明もそんな服装に影響してきてます。

 そうです、新しい富豪層による好景気に恵まれ、アヘン戦争の勝利から安く絹糸も輸入できる様になってきました。それに産業革命もあり、コレまで以上に絹布も安くなりました。
 消費経済も活気が出てきます。今までの単品だけの小店舗から色々な商品を扱う百貨店の開業。それにより大衆消費文化が花開きます。今まで、近所のお針子に口で注文していた人も、自分で作っていた人も、商品を見て買えます。出来合いの既製服が、百貨店で、今までより安価で買える様になりました。沢山の色とりどりの布地があります。さあ新しいドレスを作ろう。
印刷機の発明から、印刷物から情報も手軽に入るようになり、新しいファッションの流行もわかります。

新しい顔料の開発


 そんな機運が満ちた時でした。ヴィクトリア女王の夫のアルバート公がなくなります(1861年)。
 女王は喪に服します。女王が喪に服しているから貴族達は自分たちも追従しますよね。庶民も一緒です。
 ファッションは暗黒時代です。色目も地味な感じになったので、今までの自由を知ってしまった大衆は装飾に凝り始めます。地味な色だけど、細かい所がちょっと技巧を凝らします。フリジンを作ったり、プリーツやフリル、フレアをたっぷり取ったりし始めます。するとドレスもそれに合わせてなのか、生かす為にか、バッスルスタイルになります。
 実は、あのクリノリンドレスは可愛いけど、当時、暖炉も灯りも火を使っていた時代。足元を照らすガス灯の火が、あのふわふわドレスに移るのは必然、そして…。という話があります。一説によると年間3千人もの犠牲者が出たとか(1862年のアメリカの新聞では、ロンドンで75人、英国全体で750人が火災で亡くなっているとなっています)。それに裾を引きずるので衛生的にアレなんですね。ロンドンに下水道が整備されるのが1848年なので、それまでは、排泄物は道にドバーだったか、農民が肥料として買いに来ていたかでしたから。

 そういえば、クリノリンの鋼の利用からもう一つの流行が生まれます。そうあの形から軽量化されパラソルとなりました。同じように作り、小さく丸くします。印象派の絵画で女性がさしているパラソルはクリノリンの進化で生まれてきたモノです。
この辺も面白いところですね。

 何年も喪に服している服装の女王様。周りも、もううんざりです。新しいドレス作りたいけど、色が〜ってなりますね。
そこで色の話。
 そのアルバート公がなくなるちょっと前の1856年に合成色素モーヴェインが発見されます。綺麗な紫色ができました。
そして死のドレスと呼ばれる『パリスグリーン』も作られました。ヒ素の入っている合成顔料です。この緑は今までにない鮮やかな緑色なので、女性が夢中になりました。しかし、原材料にヒ素が入っているために、このドレスというか顔料で、製造工場で働いている人もドレスをきた人も何百人と亡くなっているのです。
コレも産業革命過渡期の齎したものです。
 まあ、他にも新しい色の合成染料の開発で、今までにない染料が増えました。なので、ジェントリー階級の奥様達は新しいドレス作りに精出します。バッスル飽きたと、ロココ朝のドレスを絹にプリントで作ったりしたドレスも展示会にありましたし、ビロードの浮き彫りの生地のドレスも会場にありました。

展覧会雑感


今回の展覧会の感想もすぐに書けばよかったのに、熱量が落ちてきた頃に書いてますので、あの頃の興奮が伝わらないかもとおもいますが、今回、修復の公開もあり、見させて頂きましたが、流石に美術館から買ったとしてもコンデションが良くなく、ボロって感じでしたね。今回はローブ・ア・ラ・フランセーズの袖のリボンが取れていたのを修復してました。
後、ロココのコルセットも夜の解説に出てきて、鯨の髭を百本以上入れていましたし、平面だったのです。こんな発見も驚きも体験できる展覧会ですので、秋に多分、開催されると思うので要チェックです。
後、ドレスの形、原型も観れるので、コスプレする時に、作りやすくなりますね。
わたしはローブ・ア・ラ・フランセーズの後ろのプリーツは襟に食い込んでると思ってましたがガウンと一体化していました。ローブ・ア・ラ・フランセーズは外側のガウン、スカート(ペティコート)、ストマッカー(胸当て)と分かれていることもここで知りました。その後のドレスもツーピースです。
型紙の呪いの話。次のドレスのために布を切らないダーツは折り込んでおくと、ナイトツアーで長谷川氏が説明していました。(動きにくい洋服です)
そして、色目的に地味になったドレスに、フリルからプリーツへの変化も面白く思いました。これも産業革命からのアイロンの技術革新で起きているんですよ。
そんな感じにこの時代のドレスと産業革命は切っても切れない関係となってます。
この後、アール・ヌーヴォー、アールデコと文化が熟成されて行くうちに、コルセットもなくなりしたし、服の軽量化もできてきました。この辺になると女性解放運動の影響も出てくるんですよね。
後、この時代、イギリスは文化も多様化して、ターナーやウイリアム・モリス、ラッファエル前派などの耽美系の美術の台頭もありました。
作家も、オスカーワイルド、ルイス・キャロル、『ジェーン・エア』のシャーロット・ブロンテ、『嵐が丘』のエミリー・ブロンテ、コナン・ドイルなど、今でも話題になる作家も出ています。
そうやって文化も技術力もら一際光輝いた時代がこのヴィクトリア朝だったのかと、今、これを書いていて思います。
そして、この時の技術力で世界一になり、世界の工場として万博を開催し、自分たちの技術力を見せています。
 色々と国内外に問題の多かった時代ですが、やはり、この時のイギリスの技術力は他の国の追従んを許さないくらいすごかったのでしょう。
それに、国の民主化にも推進して、普通選挙も導入されてますし、教育が大切と、義務教育も始まりました(まあ無料か化するのは先ですけどね)。
 女性の手仕事が産業化され廃れてしまうのは致し方ないのでしょうが、やはりこの時代前の手仕事のレースや刺繍を見ると人間の技の凄さも感じられます。あのシュミーズの目の細かさとかもうびっくりですよ。洗濯機のない時代なので、丈夫に頑丈に作っているのでしょうが、やはり手仕事の細かさと、同じ女性として、下着に対する気持ちが同じだなあと、感じました。
今より時間のあった時代ですが、やはりモノに対する愛着を感じられます。
 そんな感じにいつも新しい事が発見できる半・分解展は、面白いし、楽しいので、この記事読んで気になった人はお越しください。
もっとドレスの話をいっぱいしたいんだけど、上手く言葉を紡げなくなってしまい、なんか中途半端ですがこれでおしまいです。

ドレスの下に興味が出たら下のリンクを除いてみてください。
この時代のドレスの着方の動画を調べてリンクしてあります。
本当に今便利になりましたね。昔は洋書を漁らないと出てこなかったモノがしかも動画で見れるのですから。

まだまだあるので後でリミックス作って置きます。

毎月海外に出たい。特に深センで暮らしたいと思ってます。食べること作ることが好きなので、材料を買ったり、現地で料理したりしています。もちろん食べ歩きも