バルザック(水野亮訳)『「絶対」の探求』(原題:La Recherche de l'absolu)
翻訳を読むと読みやすいので良訳だな、と思う。一か所えっ・・と思うのは娘マルグリットが成年に達するまであと4,5月なのか4,5日なのか。おそらく後者だろうが。 訳注で疑問にふされているということはない。もちろん原書と首っ引きで調べたわけではないので本当のところは分からないが。
ところでフランスの小説は人の名前が言いにくいのはなぜだろうか。ヌシンゲンとか。
訳者の言葉で「読者の退屈をおそれるバルザックは、全巻四百ページのうち、難物の化学には、わずか八ページしか割かなかったといっている。」(364頁)と書いてあって、似たようなことは法律の話をたくさんしていることにもいえると思う。関係なく法律の話をしてはいけない。少々長いが引用すると
「・・(前略)『愛するマルグリットさん、』こういうエマニュエルの声音には、愛情のこまやかな権利までかちえて味わう喜びがおどっていた。『僕は森を買った人たちの名前や住所をさぐり出しました。彼らは伐り倒した材木の価格のうち、まだ二十万フランという残額を支払わなくてはならないんです。あした、あなたさえ承諾してくだされば、コニンク氏の名によって行動する代訴人が、ーいずれコニンク氏もそれを認めてくださるでしょうが、彼らにたいして差押えを執行するんです。六日以内にはあなたの大伯父さんも帰ってきて、親族会を招集して、十八歳のガブリエル君を親権から解除するでしょう。あなたとガブリエル君は、自分の権利を行使することが許されるのですから、材木の売上げ価格のなかからあなた方の分け前を請求するんです。クラースさんは差押えられた二十万フランは私たちのものだというこちらの要求を、拒絶することはできません。あなた方がそれ以外にもなお当然受けるべき十万フランはどうするかというと、いまあなた方が住んでいらっしゃるこの邸にかかってくる抵当義務を取得するのです。コニンク氏は、フェリシーさんとジャン君のものになる二十万フランにたいしていろいろ保証を請求します。そうなるとあなたのおとうさんは、すでに十万エキュの債務をしょっている。オルシーの平野の不動産が抵当に入れられるのを、だまって見ていることを余儀なくされます。法律は未成年者の利益のためにする登記にたいしては遡及的の優先権を与えています・・(後略)」(同訳書232ー233頁)と長々とやっているが、法律の話と言ってもフランスの法律の話なので僕の書いた話より更に縁遠く大抵の日本人には使えない。それでもこのように日本語訳されて日本で広く知られる文学作品になっているということは、この作品にはただの法律解説書に留まらない文学的価値があるということである。本作における文学的価値は即ちエマニュエルと前に登場しているピエルカンとのキャラクターの対比である。エマニュエルの篤実な人柄とピエルカンの姑息で卑しい人柄との対比を際立たせるために両者に同じ法律の話をさせているのだと思う。別に作者は法律の知識を披歴したかったわけではないと思う。
明らかにWuthering Heightsのhe conceals depths of benevolence and affection beneath a stern exterior! He’s not a rough diamond—a pearl-containing oyster of a rustic:・・(ChapterX)の影響をうけているところもあり面白い。
68頁以下の女性生理に関する記述が分かるようなよく分からないような。
「教育のおかげで、どんなことでもおよその意味をつかむのに慣れている男は愛する男の考えを理解しえないということが、女にとってどんなに恐ろしいことであるか知らないのだ。神のように気高い彼女たちは、われわれは男よりいっそう寛大であるだけに、自分の魂の言葉が相手に通じないときには、なんにも言わずにだまってしまう。自分の感情の優越さをわれわれ
男に感ぜしめえるようになりはすまいか、それをおそれるのだ。そこで、男にはついにわからない女の楽しい思い出を秘し、かくして口に出さない場合とおなじほどの喜びをもって、自分の苦悩を推しかくしてしまう。しかし、愛情にかけてはわれわれ男よりもずっと望みが大きいだけに、男の心としっかり抱き合っているだけでは満足できないで、それといっしょに、男のあらゆる思想をわがものにしたいと思う。夫が専心没頭している学問についてなんにも知らないということは恋仇が美貌であるということのくやしさよりもずっと激しいくやしさをクラース夫人の心に生みつづけるものであった。・・」(68ー69頁)
を読むと、まあ聞いたこと、読んだことはあるが、本当にそうか、実感として本当にそうなのかと女性に聞いて「答え合わせ」したくなる。訳が合っているかどうか調べるしかないのは自分が男性であること”の悲しさだろうか。”
ここなんか読むと、小説家になる上で、優しさや思いやりが必要なのかと勘違いしてしまう。
「「まだお前にはいう気になれなかったが、私と『絶対』との距離はもう髪の毛一筋というところなんだ、金属を気化するためには、気圧がまったくない環境、つまり絶対真空のなかで、金属に無限の熱を加える方法さえ発見すれば、それで十分」なのだ。」
クラース夫人は、こういう利己主義的な返事には我慢できなかった。こちらの犠牲的行為に対して、熱狂的な感謝を期待していたのに、さて受け取ったものは何かといえば、化学の問題であった。突然、夫のそばを離れた彼女は、奥の間へ下りて行って、安楽椅子に身を投げると、泣き崩れてしまった。びっくりしたマルグリットとフュリシーは、両方からめいめい彼女の片手をとって、安楽椅子の両側にひざまずきながら、彼女の悲しみがどういうことからきているのか、知りもしないで・・」(150ー151頁)
僕にとっての最大のの謎はなぜ結末をアンハッピーエンドにしたのかということ。ハッピーエンドにも十分できたはずだ。バルザックは金のために民衆向けに小説を書いていたはずだ。民衆が好むのは終わりよければすべてよし、とばかりにハッピーエンドの小説だ。アンハッピーエンドにしてでも「絶対」を探求することへの恐怖を表明したかったのか。
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