プロレス超人列伝第21回「ジョン・ブラッドショー・レイフィールド」
巷でプロレスのヒールについて聞けば、次に聞こえるのは「実はいい人。」というような風潮がある。
今回はそんな「ヒール=実はいい人」を真逆でいった、とある一人の男の悪童伝説についてご紹介していきたい。
ジョン・チャールズ・レイフィールドはテキサスの土地で生まれ、身長198㎝以上の体格を生かしてアメフトの世界で活躍していた。
だが彼の心の中にはほんのりとプロレスの世界へのあこがれがあった。
特に影響を受けていたのはあのテキサスの不沈艦ことスタン・ハンセンであった。
彼のカウボーイギミックとコスチューム、そして必殺技のラリアットに強い影響を受けたJBLはプロレスの世界へと足を踏み入れた。
当然やるギミックはカウボーイ。
あこがれのスタン・ハンセンへ一歩ずつ進むことを心から喜んでいた。
1992年にプロデビューした彼はボビー・ダンカン・ジュニアとともに地元テキサスのプロレス団体でタッグを組むこととなった。
その翌年には日本でも武者修行を務めた。
1996年にはWWFに入団した。
その翌年にはニュー・ブラックジャックスというタッグを組み、全日本プロレスにもこっそり参戦していたが、このタッグは長く続かず1998年には解散になっていた。
さあ、当時のWWFといえばアティテュード時代といわれるWWFの頂点の時代でもあった。
1999年には、JBLは年上で黒人のロン・シモンズと組み、アコライツを結成する。
やがて、このアコライツはアンダーテイカー率いる「暗黒軍団」こと「ミニストリーオブダークネス」と融合。
アンダーテイカーの用心棒役として多くのレスラーを苦しめていた。
WWF世界タッグ王座も獲得したアコライツはは好評で、暗黒軍団が解散になってもアコライツは継続してそれ以降はWWFの守護神としてECW・WCW連合軍に立ちふさがるなどの活躍をみせた。
酒と金があればどんな奴でもぶちのめす、そんなアコライツには日本のプロレスファンも人気を集めた。
だが、WWFからWWEに団体名が変わると人気も低迷。
長い間手を組んだ兄貴分のファルークと離れ、2004年になるとシングルとして活動をすることとなる。
そこで、JBLは長い間副業としてやっていた株のアナリストとしての知識を使ったヒールレスラーとして生まれ変わった。
当時はイラク戦争まっただなか、2001年は人気があったジョージ・ブッシュもこのころにはすでに鼻つまみ者になっていた。
そんな中、ブッシュとほんのり似ているJBLはアメリカ中のヘイトを一心でかうこととなった。
そこで生み出されたのがJBLだった。
見た目もフィニッシャーもスタン・ハンセンだったが、そこに「ミリオンダラーマン」ことテッド・デビアスの成金ギミックを付け足すことで新時代のヒールレスラーとして多くの評価をあびる。
その後は、WWEのトップヒールとして君臨し時にアンダーテイカーにびびりちらしながら…ジョン・シナにボコボコにされるという恥辱の限りを尽くされ大いに観客を沸かせていた。
と、ここまでであればこのJBL普通のヒールレスラーにみえるだろう。
だが、彼には裏の顔があった。
彼はなんと性格も凶悪なヒールそのものだったのだ。
アンダーテイカーやビンスといった大物に甘く、新人をいびり倒し時には他団体からうつってきた選手にシュートをしかけボコボコにしたこともあった。
ECWからうつってきたレスラーのブルーミーニーは試合の最中にガチに殴られ目を負傷するという散々な目にあった。
後にミーニーはJBLと和解し、現在では良き友人になっているそうである。
だがこれはまれな例で、ひどい場合はキャリアそのものを絶たれるレベルでの被害を受けることもあったそうだ。
90年代にECWで活躍したタッグチーム「パブリックエネミーズ」はWWFに鞍かえをした際にJBLとファルークにより、試合の範囲内を越えた暴力を受けその選手生命そのものが立たれることとなってしまった。
また、00年代に活躍したモハメッド・ハッサンもその被害者になっていた。
モハメド・ハッサンはキャラとして反米ヒールを演じているだけなのに、試合の最中にJBLに殴りつけられたり、プライベートでも無理矢理酒代をふっかけられたりと散々な目にあったことがあったらしい。
ハッサンはこういったことが募り、プロレス人生をやめてしまったのだった。
悪名高いプロレス裁判では、裁判長であるアンダーテイカーに媚びる検事として他のレスラーを追及する役目を受けていたこともあった。
レスラーだけならまだしも、彼の場合は他のアナウンサーに手を書けることもあった。
ECWのアナウンサーを務めていたジョーイ・スタイルズはたびたび彼に理不尽な言いがかりをつけられいじめられていた。
堪忍袋の緒が切れたスタイルズはJBLを殴り返したそうだ。
だが、スタイルズはこの問題がきっかけでWWEから姿を消してしまいもう二度と帰ってくることはなかった。
プロレスラーとしてのキャリアを引退した最近でもマウロ・ラナーロというアナウンサーを試合の最中に必要以上に罵声をあびせ鬱病にさせるというサイコすぎるエピソードを披露し、さすがにこれは寛大なWWEファンからも「JBL消えろ!」という野次を受けとうとうWWEからもほぼ追放となってしまったのだった。
僕が思うにJBL個人がサイコパスであったというのもあるが、もしかしたらWWE自身が不要なレスラーや扱いに困ったレスラーを処分するためにJBLという存在を利用していただけではないのか…と思うことがある。
実際にブルーミーニーはJBLと話をした後、「これが俺の仕事だ」とボヤくJBLをみていたそうである。
本当に悪いのは誰だ?
現在、人員が流出しているWWEであるがこれはもしかしたら氷山の一角に過ぎないのかも。
JBLは汚れ役を会社に与えられているというのもあるのかもしれない。
これはWWEだけの問題ではなく、世界中数多くのプロレス団体でこういう制裁役を兼ねた選手というのは多かれ少なかれいるのが常である。
現在ではこの風潮はなくなっているのか、それは定かではないが…どこの世界にもこういう人間は少なかれいる、という事の証左になるのだろう。
JBLは自身の殿堂入りの際にこのようなコメントを出している。
「私のリング外での言動に傷つけられた人も多くいると思います。心からそう言った方々に言いたいことがあります…。」
「メソメソ泣いてろ、バカどもめ!俺はJBLだ!だからこそ俺はプロレスの神様なのだ!誰が謝罪などするものか!」
彼らしい言葉であるが…おそらくWWE以外のリングでは彼を迎え入れる団体や企業がそこまでないだろう。恐らく彼自身もはたらなくても生きていけるほどの貯蓄はあるだろうが…。
さて、そんなトンパチエピソードの多い彼であるがそんな彼のほっこりするエピソードを披露したい。
日本では有名なスタン・ハンセンであるが、母国アメリカではそこまでの有名人ではなかった。
そんなハンセンをWWE殿堂入りに迎え入れたのはほかならぬJBLであった。
JBLはそんな憧れのハンセンをWWE殿堂入りに呼び、まるで子供になったような笑顔でハンセンを迎え入れたことがあった。
これがきっかけになり、スタン・ハンセンはもう一度アメリカで再評価される流れが芽生えていったそうである。
ハンセンもまるで息子をみるようにJBLをみているのか、特番で対談した際には優しい笑顔をJBLに向けることがしばしばあった。
子供時代の英雄にきっちり恩返しをする、JBL。
そんな彼は悪いところばかりではないのかもしれない。
今一度、彼の存在をもう一度考え直してみる時期にきているのではないだろうか。
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