見出し画像

母の墓前に捧げる本

今日、私の初めての著書が発売になった。この本が生まれたそもそものきっかけは、1年前の母の訃報だった。

今までこのnoteでほとんど母の死に触れてこなかったが、それは私の気持ちの整理がついていなかったからだ。

だが、もしこの機会を逃したらいつまで経っても書く気にならないだろうと思ったので、本の執筆に至った経緯について、ここに残しておくことにした。やや暗い話になるが、お付き合いいただければ幸いである。


2023年3月22日、WBC決勝戦。日本中が熱狂の渦に包まれていた。

最終回、大谷がトラウトを三振に切り、歓喜の瞬間が訪れる。

やった!日本優勝!!

ずっと生中継で試合を見守っていた私は、感動で胸が一杯だった。

おめでとう、侍ジャパン!

さあ、胴上げだ。

その瞬間、スマホが鳴った。

妹の夫からの電話だ。

義弟とは仲良くしているが、特段の用事がない限り普段は電話なんてしない。

もしや母に何かあったのかと、嫌な予感がした。

「もしもし、どうした?」

「あ、お義兄さん。驚かんでくださいよ、お母さんが…」

やっぱりそうか。

事故か?

まさか、急に倒れたとか…?

「お義母さんが…亡くなりました…」


目の前が真っ暗になった。

聞けば高血圧による心筋梗塞が原因らしい。

確かに最近は血圧を下げる薬を飲んではいたが、変わらず元気に働いていたのでまさかという思いだった。

電話を切って、すぐに地元に戻るための飛行機を手配した。



私の母は我慢強い人だった。私が17歳の時に他界した父は真性のアル中で、DVは日常茶飯事だった。酒が原因でガンを患い、借金を残して死んでいった。これまでさんざんな目に遭わされてきたため最終的に父とは別居に至っていたが、もういよいよ最期だという時になると、母だけは病院に泊まり込んで一人父を看取った。

私はずっと父への反抗心があった。父の葬式でも、涙の一つも出なかった。だから、母が父の最後を看取ったことに対して「なんでそこまでするのか」という思いが正直あった。それでもどこか心の中に、母の芯の強さに敬服するところがあった。

そんな母の我慢強さに、私も甘えてきたのは確かだ。病気が原因で一年間引きこもりニートだった時、母は何も言わず普段通り接してくれた。会社を辞めて急に東大受験の勉強を始めた時も、気にする素振りは見せながらも何も聞いてこなかった。私が口出しされるのを嫌う性格だと分かっていたからだ。私がこれまでめちゃくちゃな経歴を歩んできながらも今まともに生きていられているのは、間違いなく母の支えがあったおかげである。

7年前に私が実家に母を一人残して東大に入ったのも、まだ母が元気だったからこそだ。毎年正月くらいしか帰省しなかったが、いつも変わらず迎えてくれる姿を見て安心していた。そしていつかは地元に戻って、母の世話をしながら暮らすつもりではいた。

これまで大した親孝行もしなければ、面と向かって感謝の気持ちをきちんと伝えたこともなかった。円満な家庭とは言い難く、離婚危機もあったことから、父親へのものとはまた違った複雑な感情が母にもあり、素直になりきれないところがあったのだ。

だからここまで育ててもらった自分なりの恩返しのつもりで、最後はまたいつか実家で一緒に暮らそうと思っていた。だが、それも叶わなくなった。何も親孝行できなかったという、罪にも似た意識は今も消えない。

2年前に東大を卒業してからは、自分の今後の身の振り方に迷っていた。大学で勉強した英文学が思いのほか面白く、一度は大学院でさらに学ぼうかとも考えたが思い直した。地元に帰って自分の塾でも開きながら母親の面倒を見ようとも思ったが、もう一つ背中を押してくれるものがなかった。かといって、このまま東京でしたいことも特になかった。

大学に入ってからも塾講師や家庭教師の仕事は続けていたが、かつてビリヤードのプロを目指したり東大受験に挑んだりした時のような、心が燃えるような大きな目標に飢えていた。それでもまたいつか何かのきっかけで、そんなワクワクするようなことに出会えるだろうと思いながら、卒業後もダラダラ過ごしていたのだ。そんな折の、急な訃報だった。



実家に帰って棺に入った母の顔を見た瞬間、涙が止まらなくなった。それまではずっと「何かの間違いだろう」という、どこか現実じゃないような感覚があった。だが、実際に遺体を目の前にして母の死という事実を突きつけられ、一気に悲しみがこみ上げてきた。70近かったので、もしかしたらそれほど遠くないうちに母を見送る瞬間がくるかもしれないと覚悟はしていたつもりだったが、こんな形であって欲しくなかった。その晩、私は実家に一人残り、冷たくなった母に向かって思いつく限りの「ごめんなさい」と「ありがとう」の気持ちを言葉にした。


葬儀が済んで東京に戻る道すがら、これからの身の振り方を考えた。先にも書いたように、特別何かしたいことがあるわけではない。ただ、このまま何となく生きていくのは、死んだ母に申し訳が立たないような気がして仕方がなかった。「何でもいいから自分の存在を誰か、何かの役に立てたい! 誰か必要なら自分を使ってほしい! 」そんな気持ちが溢れて、いても立ってもいられなくなった。

その時ふと頭に浮かんだのが、カルペ・ディエムの名前だった。現役東大生の西岡壱誠さんが立ち上げた、教育事業を中心に展開している会社で、私の知り合いもそこで働いていると以前聞いたのを思い出したのだ。

会社の理念や事業内容を調べてみると私の経歴や経験が活かせそうだと思い、すがるような思いでコンタクトを取った。正直、やりたいことなんて具体的には何もなかった。とにかく自分が情けなくて、このままでは母に顔向けできないから、何か新しく一生懸命になれる対象が欲しいだけだった。

西岡さんとの最初の面談では、母の死については触れずに、「こういう経歴なんですが、何か御社で私ができることはありませんか?」と尋ねた。

40歳にもなって面接でこんなことを言うやつは落ちるに決まっている。「別にあなたのような人はうちの会社としては必要ありません」と言われてもまったく不思議ではなかったが、私は嘘がつけない性格だ。もしそう言われたら、素直に地元に帰るつもりだった。

だが、私の30過ぎからの東大受験や学習指導の経験に興味を持っていただき、なんとその場で「青戸さん、本出しましょう!」という話になった。最初はまったく現実味がなかったが、実際に企画書が出て、出版社の方とお話しさせていただいて、あれよあれよと話が進んでいった。

実は私は幼い頃から、一生のうちに一冊は自分の本を出すのが夢だった。自分が死んだとしても生きていた証が残るからという理由で、何のジャンルでもいいから自分の名前で本を出したいとずっと思っていた。それがこんな形で叶うのだ。母への償いと言いながら、結局母のおかげのようなものである。最後まで世話になりっぱなしだ。

そしてついに、その本の現物を手にする日を迎えることができた。今までのことを思い出して、胸にこみ上げてくるものがあった。

これを書いている今も涙が出るくらいだから、心の整理が完全につくことはもしかしたら一生ないかもしれないが、それも自分のせいだから仕方ない。今度地元に帰った時はこの本を母の墓前に捧げて、改めてありがとうと言いたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?