エモさだけでは生きられない
地元に帰る
地元、栃木県宇都宮市に久しぶりに帰った。
もちろん、今までも度々帰ってはいたのだけど、昔よく訪れた場所に行き、昔お話ししていた方々と久々にお話しした。
訪れた場所はどれも変わっていなくて、でも少し変わっていて。変わらなさと変わったところを見つけては、懐かしさと寂しさを感じながら、もう何年も前になってしまった記憶に身を浸してきた。
今流の言葉で言えば、「エモい」栃木滞在だった。
自分の育った中学校へ行く
2014年4月に入学し、2017年3月に卒業した出身中学校を訪ねた。
先生方は大きく変わっていたが、かつて私がお話ししたことのある先生方も何人かはいらっしゃった。そんなに話したことのなかった先生も、私のことを覚えていてくださり、こんな歳になって自分がここに来るということを認められた気がした。
先生に案内された廊下には、中1や中2が上野やお台場に学年で旅行に行った写真が飾られていた。その場所は、はるか9年前の私たちが写真を撮った場所とまったく同じだった。
放課後、評議会と呼ばれる生徒会や委員会の議会に顔を出させていただいた。7年前と変わらない部屋で、7年前と変わらない形で、7年前とは違う生徒たちが自分たちの学校について議論をしていた。
生徒たちの緊張感が、ひりひりと肌に伝わってきて、僕のなかの記憶を引き出そうとする。かつて、一委員長として評議会にいて、全力をかけていたあの日々が少し蘇ってくる。
懐かしくて、愛しくて、そしてそれは、もう戻ることのできない日々だった。
評議会を終えたあと、ちらと生徒会室に顔を出すと、生徒会長たちがなにやら話をしていた。中に入れてもらい、かつての学校といまの学校について話を交わす。
隣にいた事務局長はぱらぱらと資料を探し、1つの資料を取り出した。それは、7年前に僕自身が作成した評議会の資料であった。僕がここにいたというただそれだけのことが、いまでもまだ残っていた。
生徒会室に別れを告げ、廊下を歩いて行く。
掲示板、ホワイトボード、そういったさりげない物でさえ、そろそろと見てしまう。
懐かしの理科室を覗くと、科学部が賑やかに活動していた。子どもたちは元気で、部員が30人以上もいることを誇らしげに教えてくれた。
新入生が今日から本格的に部活をはじめるらしく、黒板には4つの班の名前が刻まれていた。部長たちに話を聞くと、実験はやはり少ないこと、製作はまた徐々に強くなってきたこと、そして農園班が一番賑やかなことを話してくれた。
あのとき僕たちの頑張っていた農園が、今も続いている。ただそれだけの事実が僕を嬉しくさせた。
いまは人参を育てていたらしい。ぼくらは大根や白菜を育てていた。
下校時間ぎりぎりまで農園にいるのは今も昔も変わっていないみたいだった。
今の話を聞き、昔の話をした。科学部楽しい?と聞くと、楽しいという笑顔が返ってきた。
懐かしくなって、少しどこかくすぐったい気がした。
自転車を走らせる
少し長居しすぎてしまった中学校を発ち、高校へと向かう。
あの日友達と一緒に自転車を押して歩いた道を、一人で急いで駆け抜ける。
自転車に乗りながら、先生方から伺ったことについて考えてみる。
——コロナが落ち着いてきて、ようやく体育館に全校生徒が集まれる。これまでは集まれなかった。評議会も話すようになってきた。コロナの頃はなかなか集まれなかった。
中学生たちは何を語っていたのか。
——昼食時に会話をしていいことになり、クラスのみんなも困惑している。会話しなくてもいい、とアナウンスすることも必要なのではないか。
——一つ上の先輩たちはアクティブじゃなかった、いまの2年生がアクティブで、最近は部活が盛り上がってきた。
そして、自分が語ったこと
——なんでもやれること、自分たちで学校をつくれること、それを大事にしてほしい。セルフコントロールっていうのは、そういう話なんじゃないか。
——受験を一度脇において、まずは好きな科目・好きな勉強法を見つけてごらん……?
ふと気づくと、もう高校のすぐ近くまで来ていた。
昔友達と行った味噌ラーメン屋さんは、別の名前の味噌ラーメン屋さんになっていた。
たったこれだけの些細なできごとに、少し動揺してしまう自分がいる。
地元に帰ってくるのには、勇気がいる。
自分の育った高校へ行く
予定から5分遅れで母校である宇都宮高校(宇高:うたか)に辿り着いた。来客入口から入るのに慣れなくて、どうも戸惑ってしまう。
職員室を訪れると、かつてお世話になっていた先生方がたくさんいらっしゃった。
数学を教わっていた先生とお話ししていると、あるA3用紙3枚を取り出して見せてくれた。それは、高校1年生のころに僕と友人が数学のレポートを書いて先生に見ていただいたものだった。
いまの高校1年生は、僕が高校3年生の時にはまだ小学6年生だった世代だ。月日が流れていくなかで、先生方が僕らを覚えていてくださったことがうれしく、そして同時にその戻れない日々がよみがえってくるようで、思い出に押されてしまう。
試合が終わったとの連絡が入り、顧問と一緒に競技かるた部の部室へと向かう。
そこは、紛れもなく僕の青春がすべて詰まっていた部屋だった。
こうして書いていて、訳の分からないほど僕の全てが詰まっていた場所だった。
「僕の2個下」の2個下がいまの高校3年生である。かるたの団体戦の全国大会に向けた県予選まで残り1か月という、大切な時期だった。
僕が卒業するころにコロナがちょうど始まり、かるたの団体戦では声が出せなくなった。そうして、今の今まで、それはずっと禁じられてきた。今年、ついに声出しが解禁されるかもしれない。そんなタイミングでもあった。
一度話し始めると、たくさん話してしまった。僕らが昔していたこと、それぞれが持っていた思い、そして感じていたこと、考えていたこと。
僕が高校2年生のときに書いていた団体戦の反省ノートを、顧問の先生は大事に残してくれていた。それを見ると、当時の僕の熱量がよみがえってくる。
一人ひとり、当時の仲間たちを思い浮かべながら、僕だけでなくみんなの力を借りて、現役生に対して語っていった。思い出話だった。でも、意味のある思い出話なんじゃないかと思った。どれだけ部活に思いを持っていたのか、どれだけ宇高かるた部を誇りに思っていたのか、どれだけ全力で挑んでいたのか、それが彼らに届くんじゃないかと思った。
気付くと1時間が経っていた。
伝えられることを僕は伝えきれただろうか。
高校を卒業してかるたをやめてしまった僕にも、まだ語れることがあっただろうか。
いまかるたを続けていないことに対する負い目と、もはや受け止めきれないほどの懐かしさと、新しい空気感をもっている後輩たちの頼もしさと、それらを全部感じながら、僕は和敬寮を後にした。
職員室に戻ると、高校1年生のころの担任が出迎えてくれた。その先生は最初に宇高らしさを僕に教えてくれた張本人であり、2年生以降も日本史を教わりながらお世話になり続けた先生だった。
1年生のクラスの、それぞれが思い思いに何でもやっていた頃。2年生になって、授業終わりにずっと質問をしていたあの頃。3年生として先生方の模試に全力で戦っていたあの頃。
ひとつひとつ、記憶をなでるように会話をしていく。
教科書が変わり、脇に探究のための問いが載せられたことを聞いた。「これでは丸木舟については問えないですね」と、先生と2人で笑う。
問いなど与えられなくても、問いを作りだして先生にぶつけにいくあの日々こそまさに探究的だったのだと、いまになって気付く。
当時の話を交えながらも、僕たちはいまの話をしていた。
いまの中学生、いまの高校生、いまの僕自身。
いまの僕は、紛れもなくかつての僕の延長線上にあり、そしてそれは宇高の恩師たちからいただいたものばかりだった。
恩師の声
この文章には、高校2,3年生のころの担任は登場しない。
僕の高校時代の恩師であるその担任は、昨年病気にて亡くなった。あまりに突然のことだった。コロナが流行していたこともあってか、それを僕が知ったのは亡くなった後のことだった。
実は、今回の帰省の最大の目的は、恩師に別れを告げることであった。
高校訪問の最後に、僕は国語科準備室に行かせてもらった。そこは、僕と恩師が面談をしていた部屋だった。恩師の座っていた席を見ながら、案内してくださった同じく国語科の先生と昔話を交わす。
高校1,2年生時には部活の正顧問として、2,3年生時にはクラスの担任として関わったその恩師は、最も宇高らしい先生であった。
どこまでも生徒を大切にし、どこまでも生徒を愛し、どこまでも生徒を信頼していた。
生徒を信頼していた。そして、僕にすべてを託してくれた。そして、ずっと気にかけてくれていた。慣例に反した3年生の文化祭を、快く認め応援し、そして誰よりも喜んでくれた。「おまえら、すげーな」って褒めてくれた。僕だけじゃない、すべての生徒を。「おめえさんなら大丈夫だ」って。そう言ってくれていた。今でも思い出せる。
生徒をリスペクトしていた。古典の授業に関して質問をすれば、一緒に悩んでくれていた。その見方はなかった、と言ってしっかりと話を聞いてくれた。次の日、他の訳や参考文献のコピーを持ってきて、教えてくれた。後に伺ったが、入院中も本をたくさん読まれていたらしい。これで次は前よりも答えられるはずだ、と。その願いが叶うことはなかった。
生徒を愛し、宇高を愛していた。その姿を生徒である僕たちには見せなかったが、それでも感じ取れるくらいに愛してくれていた。「俺はもう宇高を離れる」「おまえさんたちと一緒に卒業する」そう何度も口にし、そのたびに僕らは、先生には宇高にいてほしいと、宇高に来たときに待っていてほしいと話した。
本人も、宇高に戻るつもりだった。絶対に生きて、宇高に戻り、生徒と会い、そして再び授業をするつもりだった。闘病中の様子を、先生のご両親や奥様から伺った。職員室でのご様子を同僚だった先生方から伺った。あれほど宇高らしい先生はいないという僕の直観は、間違っていなかった。あれほど宇高に必要だった先生はいなかった。
先生の座っていた国語科準備室で、先生の座っていた席を眺めていると、自然と涙がこぼれた。
先生の声が聞こえる気がした。
先生の声が聞こえるはずだった。
先生の声が聞こえてほしかった。
家へと帰る
高校を出て、3年間通いなれた下校道を自転車で進んでいく。当時歌っていた曲はなんだっただろうかと考え、back numberの少し昔の曲を歌いだす。
出身中学校。旅行。クラス。生徒会。部活動。
出身高校。部活。授業。模試。部活。そして、恩師。
あまりにエモい1日だった。
そして、もうエモさだけでは生きられない年齢になっていた。
母校を巡ったあとで「エモい」と言うだけで帰れる人間ではなくなっていた。
評議会での生徒の主体性を、部活での生徒のなんでもやれるその気持ちを、高校の部活での全力で取り組む意欲を、授業や模試での先生とのコミュニケーションを、そして何よりも、恩師のあのスタンスを。目の前の子ども達を愛し、リスペクトし、信頼するその姿勢を。
それを原点として育ってきた僕だからこそ、それをすべて形にしたいと思った。
僕の通った中学校や高校に通っていなくても、あの先生方やあの環境に出会わなかったとしても、それでも得られるような社会に変えていきたいと思った。
やりたいことをやれる。
今のために今を使える。
苦労することをいとわず全力でぶつかれる。
とりあえずやってみるなかで、やりたいことを見つけていく。
仲間との大切な時間をもてる。
信頼して託してもらえる。
常にだれかが気にかけてくれている。
そんな社会にしたい、そんな社会を創れる人間になりたい。
今自分がやっていることは間違いなく、僕を育ててくれた2つの学校のスタンスから、そして何より恩師のスタンスから始まったものだった。
残していきたいと思った。
形にしていきたいと思った。
誰かに届けていきたいと思った。
漕ぎ進めた自転車は、宇都宮の夜景のよく見える橋まで来ていた。
昔も、部活帰りにこの夜景を見ながら自転車を漕いでいたなと思いだす。
昔歌っていたであろう曲を歌いながら、橋を渡っていく。夜景を見ながら。昔を思い出しながら。
エモい。とてもエモい。
でも、もう、エモさだけでは生きられない。
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