見出し画像

学問・芸術・実践(後編)

実践の変化

「ケア・対話・居場所」

 ちょうど1年ほど前に整理できた自分の学問的関心が、「ケア・対話・居場所」という3つ組の概念であった。「ケア」は学術領域――具体的には、「ケアの倫理」と呼ばれる分野――との出会いから得た関心であったが、残りの「対話」と「居場所」は実践のなかで出会った関心であった。これは昨年度の話にはなるが、避けてはいまを語れない内容のため、少し立ち寄っていきたい。
 昨年度3月まで、私はUTSummerという学生団体に所属し、主に中高生に向けて対話イベントを企画していた。そこでの対話は、哲学対話と呼ばれるワークショップをアレンジしたもので、参加者それぞれが日常では語りにくいことを語り合うことのできる場となるものだった。UTSummerで活動する中で、対話とはいったいどのようなもので、どのような対話を届けていくべきなのか、そもそも対話を届けることなどできるのか、と自分自身に問いかけ悩むことが増えていった。それが、「対話」という私の関心へとつながっていった。
 もう一つの「居場所」は、昨年度4月からボランティアとして活動を始めさせてもらったNPO法人KATARIBAの拠点施設である文京区青少年プラザb‐labでの経験によるものである。この施設は、文京区内在住・在学の中高生が放課後や休日を自由に過ごせる場所で、中高生にとっての居場所――サードプレイスを謳っている。ここで活動していくなかで、ある場が居場所になるにはどうしていけばいいのか、居場所では何が起きるのか、などなど居場所に対する関心が高まり、そして同時にそれが「ケア」や「対話」という元々持ってた関心ともリンクしていったのである。

「居場所」が前景化した半年間

 前編の最後でも触れた通り、2022年度上半期は特に「居場所」への関心の比重が高まり、他2項に対して前景化した期間となった。それは、学術的な要請というよりも、むしろ実践による影響であった。
 まず、「居場所」が前景化したというよりも「対話」が後景化した。私が「対話」を考える出発点であったUTSummerが昨年度3月で活動を停止し、対話との実践的な結びつきがそれまでよりも薄れたのである。対話の企画をつくる中で、あるいは実際に自分が対話に参加する中で「対話」というものに向き合ってきた私は、実践においても学問においても「対話」から一歩退くことになったのであった。
 その一方で、今年度でb-labでの活動は1年を超え、b-labという場の変化や不‐変化を感じられるようになってきた。b‐labでの経験も積み重なり、授業での話題を自分でb‐labと結びつけて引き受けられるようにもなってきた。そして、実際に自分がb‐labで過ごし、中高生と関わり、そして業務に関わっていく中で、今まで以上に「居場所」を問い考えることができるようになってきたのである。

訪れるという実践

 もう一つ、「居場所」が前景化してきた理由として、今年度上半期に居場所を訪問させていただく機会が増えたことがある。これらについてもまたどこかの機会で文章に起こしたいが、b‐labと同系統のユースセンターや自立支援施設、Safer Space、プログラミング塾などを訪問させていただいた。そしてそれと重なるように、前編で述べたように歌舞伎町との出会いがあったのである。こうした様々な居場所を直接目にする機会によって、私のなかで「居場所」に対する思考が進むと同時に、更に問いが広がっていった。
 ところで、バーチャルコーヒーハウス(本note原稿の元となっている発表会)で話した際から引っかかっていたのだが、「実践」という語で私が言い表している内容が昨年度と今年度とでは変わってきているような気がする。昨年度は、UTSummerやb‐lab、地域での企画など、実際に現場でなにかアクションを起こすことを想定したいた。しかし今年度実践として取り上げているのは、b‐labでの活動は続いているものの、むしろ訪問という形式である。ある場所を訪問するというのは、果たして実践なのだろうか。

学問・芸術・実践

学問と実践

 実践とは何か、何が実践に含まれるのか、という問いは、学問とは何か、何が学問に含まれるのか、という問いと近接している。ただし、ここでしたいことは、学問と実践を丁寧に切り分けて重ならないように定義することではない。そうではなく、実践が同時に学問であるということがここで重要なのである。私が中高生にイベントを企画することもb-labで活動することも、それはそれ自体で完結した一つの実践である。そのうえで、その実践が私の持つより大きな学問的関心と響き合うものであるならば、完結した実践をすること自体が同時に学問となる。これは、訪問においてもそうである。ある施設を訪問するという行為は、その施設を知りたいという気持ちから出発した、それ自体で完結する一つの実践である。この実践は、他の実践――たとえば、b-labでの活動――につながると同時に、より大きな学術的関心――たとえば、「居場所」というテーマ――にもつながる。だから、訪問は実践であり、実践であるがゆえに学問であるのだ。
 注意せねばならないのは、「実践は同時に学問である」ということは、学問が実践に対してより上位の概念であることを意味しないという点である。そうではなく、その反面、学問もまた同時に実践であるのだ。なぜならば、それ自体完結した一つの学問――哲学であれ社会学であれ――は、それを私が学ぶときには、具体的な実践領域と響き合うものとなるからだ。学問と実践とは、分離されたカテゴリーでも、一方が他方を包摂するカテゴリーでもない。それは、一方を選べばすぐに他方でもあるような、一つの部屋についた別々の入口なのである。

芸術の存在

 最後に、私は話題を再び芸術へと戻さなくてはならない。なぜならば、芸術はそれ自体同時に実践であり、そして同時に学問であるからだ。私が現地を訪れ、カメラを構え、写真を撮るという行為は、まず芸術である以前にそれ自体一つの実践である。そこでできた写真を私が芸術と呼ぶのだとしても、芸術が可能となるのは常に実践に立脚してのことである。そして、写真を撮りながら芸術を志すとき、それは同時に大きな学問的関心と響き合ってしまう。これはもちろん、実際に撮っているときに学問的に考えているという意味ではない、撮るときは撮るという行為で完結しながら、それでいてそこに学問が侵入し、同時に芸術が学問へと侵入している。

学問・芸術・実践

 学問・芸術・実践という今年度のテーマでもあるこの3つ組は、いったいどのような関係にあるのだろうか――バーチャルコーヒーハウスでは語り切れなかったこの部分を語ろうとしてnoteを書いてきたが、しかしやはりまだ語り切れていないように思える。これらは、いわば三位一体のような関係にあるのだろうか。各要素は同時に互いに別の要素でもある、という私の主張はまさにそう語っているようにみえるが、しかし、これらが全く同じものだという、そういう話で決着していいのだろうか。
 学問と芸術と実践と。今回提示したこれら3つ組の概念とは、今後も向き合っていくことになるだろう。2022年度を終える頃に、もう少し視界がクリアになっていることを期待して、今回はここでひとまずの着地としたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?