旅と嘯く

 イトウトモヒロが死んだ日の朝、空は半分曇っていて、半分晴れていた。
 梅雨が明けかけていて、日光がじりじりとひりつきだした、そういう時期の、曖昧な空だった。
 そういう日の朝に、イトウトモヒロは車に轢かれて死んだ。煙に巻かれた。彼が私のことを好いていたと聞いたのは、それからひと月ほど後のことだった。


 見知らぬ女と、旅に出ることとなった。職場近くの書店で、アルバイトをしている女であった。私よりここのつ下の、女のこどもである。
 また、女は時折、イトウトモヒロであった。女の臓腑の一部がイトウトモヒロなので、女の記憶がイトウトモヒロになり、女のこころもまた、時折、イトウトモヒロになるのだった。
 幼いころ、女の病は、深刻であった。あとひといきで、死ぬほどであった。そこに、都合よくイトウトモヒロが死んでしまったので、その臓腑が、都合よく、女にあてがわれたのだった。
 はじめは、疑わしかった。ばかばかしいと思った。そんなものは、画面のむこうにある、おとぎ話のようなものである、と。
 しかし、女に呼び止められ、話を聞くうちに、そういうこともありうるかもしれない、と、あるいは、そうあったほうが面白い、と、思うようになった。
 だから、旅に出ることにした。計画も何もなかったが、私たちは互いに、休みをとった。荷物を用意した。こころを練った。
そうして、そうなった。


 国道沿いの凡庸な街並みから抜け出したのは、午後三時を過ぎたあたりからであった。それまでに、私たちは靴を買い、牛丼を食べ、珈琲を三杯ずつ飲んだ。
 イトウトモヒロは、女の声を借りて、昔の話をした。入学式の話、体育祭の話、授業の話、教師の話、部活動の話、文化祭の話、その他、諸々。
 それらを、イトウトモヒロは、さっき見てきたかのように話す。その言葉はぎらついていて、私はときおり、そのぎらつきに、ぞくり、とする。
 適当に相槌をうちながら、一時間ほどやり過ごした。やがて私の軽自動車は城下町風の街並みに流れ着いた。近頃の、よくある、観光向きの街並みである。
 一日六百円の駐車場に車を停め、私たちは街並みを歩いた。雑貨屋だとか、喫茶店だとかが、折り重なるように連なっていた。
 とるものとりあえず、私たちは一軒の雑貨屋に入った。狭い敷地の中に、いかにも、といわんばかりの、家具やら、輸入文具やら、洋服やらが、並べられていた。それらを、私たちはばらばらに見まわした。
 車を降りてから、イトウトモヒロは終止無言であった。時折、私に視線を向けては、女の口をもごもごとさせるが、言葉にはならないまま、すぐに閉じてしまう。
 行き詰まってしまったので、私は店主に、近くに宿はないか、と訊ねた。街並みの中腹から少し山手に入ったところにいくつかあるとのことだったので、今日はそこに泊まることにした。
「それでいいかな」
 店主から渡された観光用の地図を眺めつつ、私はイトウトモヒロに訊ねた。イトウトモヒロの首は、ほんの少し、傾いだ。
 店主に礼を言い、私は店を出る。去り際に振りかえると、イトウトモヒロは何かを購入していた。
「なに、買ったの」
 訊ねるが、イトウトモヒロは答えなかった。ただ、いたずらっぽく、はにかむだけだった。
 山手にあった四軒の宿のうち、三軒は満室ということで断られていた。残った一軒だけ、キャンセルが出て一室空きがあったので、私たちはそこに泊まることにした。
 部屋は、二階の一番奥であった。窓は建物の裏手の方で、開けると、眼下に先ほどの街道が広がった。
 私たちは、身体を弛緩させた。きゅう、と、腑のあたりから空気の抜けるような音がした。狭く古い宿だけど、心地がいい。
 ちらりと視線を横にやると、女もまた、きゅうと腑のあたりから空気が抜けていきそうな体勢であった。
 私たちは、泥のようになっていた。張りつめて、威嚇しあい、ここまで過ごしていたら、どうにも、力が喪われていた。
 しばらくの間、私たちはそうして溶けていた。やがて夜がきて、箸をとり、懐石を食べた。海のものとも山のものともつかぬ、懐石だった。腹が満たされたら、いよいろ瞼が重くなってきたので、風呂に入ってから、程なくして眠った。
 大浴場へ行ったのは、私だけだった。
「僕は部屋で入りますから」
 イトウトモヒロはそう言って、部屋から出てくることはなかった。


 翌日、私たちは街並みの中を並んで歩いていた。結局ひとつの店をぐるりとしただけだったので、もったいないから、そのようにした。
 私と女は、隣り合って歩いた。隣り合って歩くと、女の顔は、少年のようにまごつく。女の声で、あ、とか、う、とか、少年のように言う。
 ふと、私は、倒錯的な気分になった。より正確にいうならば、私の中にあった、倒錯的な気分に、いよいよ、気づきだした。
「ねえ、あなた、イトウくんなんだよね」
 女が頷く。
「どこまでが僕なのか、わからないけれど」
 でも、たしかに、僕はイトウトモヒロでもあるんです。
言葉を放つ女の視線は泳いでいる。
 私は急に、女が知りたくなった。女と、イトウトモヒロの、まざりもののことが、知りたくなった。
 ふと、昨日の、ぞくりとする感覚が、戻ってくる。
「イトウくんは」
 女を、はじめてそう呼んだ。
「イトウくんは、今、女なの、どう思うの」
 イトウトモヒロは、とまどっていた。あからさまに、どぎまぎしていた。
「どうも、ないよ。僕はちがうけれど、私はそうだったんだし」
「うそだ」
「うそじゃ、ない」
 あからさまに、女の顔が赤くなった。カンノウについて、深く理解しているわけではないが、私はその瞬間、カンノウのせかいだ、と思った。
 こころが、ぐつぐつする。ぐつぐつしてしまって、思わず、女と手をつないだ。女はびっくりしたが、やがてなすがままになった。
 なすがまま、私たちは店をまわった。私はずっと、ぐつぐつした。とめどなくなった。とめどなくなって、女を店に引きこんだ。いろいろ、してやりたくなった。
 私は女に小物を買った。服も買った。地味な、動きやすいばかりの恰好を、ほんの少し、着飾らせてみせた。女のなかにあるイトウトモヒロの部分が、いくばくか、恥ずかしがった。
「やっぱり、イトウくんは、おとこなんだね」
 私は言った。
「そういうところも、あるよ」
 買ったばかりの麦わらを深く被りなおしながら、イトウトモヒロは返した。
 それから、私たちは遅い昼餐をとった。こじゃれた喫茶店のような店で、ひと皿に全部盛ってあるような、こじゃれたものを食べた。
 腹をこしらえて、いよいよ私は、たまらない気持ちになっていった。女を引き連れて、店を出入りしたが、収まる気配がなかった。
 女のスカートがひらめく。女のにおいを撒く。しかし女は、同時に、イトウトモヒロである。
 旅の前にあった、煮こごりのようなものが、ごうと燃えて、融けて、いつのまにか、いなくなっている。
「ねえ」
 私は、イトウトモヒロに、訊ねる。
「イトウくんは、私のこと、好きだった?」
 所在なさげに目を泳がせていた女が、私に向かって目をみはり、やがてふたたび、目を泳がせた。そして一寸留まり、地面に向かうような格好で、口を開いた。
「いまも」
 女が立ち止まる。半歩遅れて、私も立ち止まった。振りかえると、女は地面をななめににらんでいた。
「いまも、すき」
 女のくちびるから、イトウトモヒロの言葉がこぼれる。
 その言葉を受け取った瞬間、心臓のあたりがじゅんと滲んで、私はどうにもならなくなった。どうにもならなくなって、どうしようもできなくなって、女を抱きしめて、ぐるぐると回った。
 イトウトモヒロは怒った。恥ずかしがりながら怒った。
 しかしもう、どうにもできない。私は動物だった。ばかになった。
 そうして、ばかのまま、宿に戻った。きのうと同じ宿であった。連泊できるようだったので、そのようにした。
「ねえ」
 部屋へ続く階段をのぼりながら、私は女を見た。女の中で、イトウトモヒロは、怯えたような、期待しているような顔を、私に向けた。
 これから起こりうることを、イトウトモヒロは、女は、私は、理解している。そして、それを止めようとも思っていないことも。
 結局、女も、イトウトモヒロも巻き込んで、私たちは、ともに、動物になった。ばかになった。


 翌朝、私たちは晴れやかであった。何もかも、許してしまうようになった。朝食の納豆が一粒容器からこぼれてもなんとも思わなかったし、女の寝癖がなおってなくても愛嬌だと思うようになった。
 私たちはくだらない話をした。宿を出て、車を転がしながら、休日の午前中にふさわしい、毒にも薬にもならない話を、した。
 くだらない話をしていると、だんだん可笑しくなって、私たちはたくさん笑った。昨日とは、またべつのかたちで、ばかになっていった。
「ぼくはもう、なんだか、満足だよ」
 イトウトモヒロがいった。
「私も、なんだか、満足」
 そう言って、同調したら、急に私は、ばかじゃなくなってしまった。
 ほんの少し前まで理解せずに捨ておいていたものを、ふと、思い出してしまった。
 旅の終わり。
 それそのものについて、思い出してしまった。
「ねえ」
 私は女に訊ねる。
「あと一日、どこか、泊まらない」
 女は少し、困った顔をした。それから手帳を取り出して、なにごとか呟きだした。
 私は固唾をのんだ。親のおゆるしを待つ子供の気分であった。
 信号が赤になる。私はブレーキを踏んづけて、女に視線をやった。
 女は、女であった。明日からのスケジュールについて、仕事の具合について考える、ささやかな青さを秘めた、女の顔である。
 私は急に寂しくなった。恐ろしくなった。この旅のなかで、あるいは、この旅にいたるまで、一度も持ち合わせたことのない、感情だった。
 しばらくの無言の後、女は、うん、と言った。
 そして、信号が、青になった。


 群青色の軽自動車が、高速道路を回遊する。私たちは、無垢になったまま、さまよっていた。焦りだけが、輪郭をくっきりとさせて、膝の上に横たわっている。
 日は既に落ちていた。宿は見つからなかった。私たちはすっかり諦めて、帰路についていた。
「おなか、すいたね」
 イトウトモヒロが言う。そうだね、と相槌をうちながら、私はハンドルをかたむける。サービスエリアである。
 サービスエリアの店の中は、目が痛くなるくらい、明るかった。こぢんまりとしていて、空間のすべてが、それぞれ、どこかしら古めかしい。
 フードコートは、既に閉まっていた。厨房の薄暗さから、ねっとりとした疲労感が、込み上がってくる。
「レストラン、空いてるね」
 イトウトモヒロが言う。
 私はイトウトモヒロの言葉に頷いた。そして、レストランに向かった。
 レストランにむかう時、私は軽く、女の手を握った。女は、抵抗しなかった。
 ひと気のないレストランの、いちばん隅っこの席に、私たちは座った。それから、とめどないほどたくさん、ものを食べた。
 サラダを食べて、ステーキを食べて、ピザを食べて、うどんを食べて、煮つけを食べた。さらに、瓶のコーラを四本頼み、それらをすぐさま空にした。
「お酒、のんでいいよ」
 私はそう言ったが、イトウトモヒロは首を縦にふらなかった。
「そんなものなくたって、すぐに酔っぱらうよ」
 イトウトモヒロは言った。そして実際、そうなった。考えていることや、思っていることが、散り散りになって、さだまらなくなった。
 そうして、食べるだけ食べて、飲むだけ飲んで、私たちはレストランを出た。宿に泊まれるくらいのお金を払った。足が重たくて、とても、歩けるものではなかった。外に出てすぐに気分が悪くなって、二人して、トイレで吐いた。
 吐いているうちに、私は、みっともない気持ちになった。悲しくて、やるせなくて、そういうのが、いじきたないように感じた。だんだん泣きたくなって、我慢をしようとしたけれど、吐くのに夢中で、我慢できなかった。
 私はわんわん泣いた。泣きながら吐いた。隣の個室で、女も、吐いていた。時々、ずるずると洟をすするような音がしているから、きっと、イトウトモヒロも、泣いているのだと思った。
 しばらく吐き続けて、それにも疲れて、私は口元をべとべとにしたまま、自販機コーナーに向かい、ペットボトルの水を二本買った。水はきれいに澄んでいた。私はその水を口に含んで、ぐちゅぐちゅとかき回しながら汚して、トイレの中に吐きだした。それを何度か繰り返した後、残りの水を全部飲んだ。それから、もう一方のペットボトルを渡しに、女のいる個室へと向かった。
 女はくたくたにのびていた。私は女の頬を軽くはたき、蓋の開いたペットボトルを差し出した。
 女はその中身を口に含み、私と同じように汚し、吐き出した。
 私は女を見ていた。同時に、イトウトモヒロも、見ていた。
「ねえ」
 イトウトモヒロが口を開く。
「僕は、死んでしまったんだね」
 私は、うん、とも、いや、とも言えなかった。言えないまま、女を担ぎ、車に戻った。
「すこし、眠ろう」
 後部座席に女を横たえながら私は言う。イトウトモヒロは軽く頷いて、私のなすがままにくつろげられた。
 女が、間を置かずに寝息をたてだす。私の意を介さぬまま、膝枕の体勢になった。
 後部座席で、私は女を見下ろす。女は、女の寝顔をしている。あまく、濡れそぼっている。
「ねえ」
 もう眠ってしまったイトウトモヒロに向かって、私は囁く。
 ねえ、私、イトウくんのこと、けっこう、好きだったよ。
 私はまた少し泣いた。それからすぐに、ぐったりとして、眠たくなって、やがてほんとうに、眠った。

 駅前のロータリーで、陽光が波打っている。斑模様の陰影が、たちの悪いたとえ話のようにも思える。
 翌朝になって、私たちは、諦めるように帰途についた。ようするに、私たちの旅は、旅だと嘯いたものは、終わるのだった。
「着いたよ」
 助手席の女に、私は言う。
 女は、窓の外をぼうっと眺めている。すっからかんの、女である。
「あ、うん」
 女はすっからかんの返事をして、すっからかんの手つきで荷物をまとめ、すっからかんの足取りで去っていった。
「さようなら」
 去り際に、女は言った。さようなら、と私も返した。
私のその言葉を聞いたあと、女は軽い会釈をして、どこへともなく立ち去っていった。最初の日に買ったであろう、紅色の丸い根付が、旅行鞄の持ち手に、まるで形見のようにぶら下がっていた。
 女を見送って、いよいよ私はひとりになった。ひとりになると泣いてしまうだろう、と思ったけれど、不思議なくらい、涙は出なかった。きっと私たちは精算されたのだ、と、私は身勝手にもそう思った。
 ふう、と息を吐く。
私はハザードランプを切って、前を向き、そして、アクセルを踏んだ。
車の窓の、ガラスのむこうで、空は半分曇っていて、半分晴れていた。

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