Opium 1.朝 #VRChatと小説

はじめに

この物語はフィクションです。
実在する人物、団体、プラットフォームとは一切関係ございません。
あらかじめご了承ください。

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 私は、一日のうちに二度、朝を迎える。
 最初の朝は、一日の始まりに迎える。
 もうひとつの朝は、一日が終わる手前に迎える。ゴーグルをかぶり、コントローラを両の手でそれぞれ握り、網膜に焼き付いたスイッチを、押すふりをして、私が呼び出すのだ。
 しばらく、無明の中をただようようにして、やがて私の視界に、朝がフェードインした。
 雲の上のベッド。一面の青空。屋根も、壁もなく、目の前にはフレームのない大きな鏡がある。
 鏡には私が映っている。獣の耳と尾のついた、少女の躰。
 鏡のほうに手をかざす。感触はない。
 ゆびさきのいくつかを、中空に放つ。プログラムされたとおりに、私は表情を変える。
「おはよう」
 口にした科白をマイクが拾い、私の口はそれらしい動きをする。
 朝。
 私のもうひとつの朝。
 電気信号の中から引きずり出した、私のための、朝だ。

 その日、雨は土砂降りだった。私は電器店に逃げ込んでいた。
 雨から逃げていたのではない。私は、私の感情から逃げていた。仕事や、生活や、部屋の隅の汚れから受け取る、私自身の感情から。
 その日、私は縋るものを探していた。同時に、私は何かに縋ることはできないと感じていた。縋るという行為を、赦される時間はとうに過ぎていると、身勝手にもそう思っていた。
 電器店の中は煌びやかだった。私自身からたちのぼる湿気で眼鏡が曇り、視界はまるで万華鏡のようだった。
 私はそのレンズの中に救いを求めた。その、数センチ四方の樹脂だけが、私の掴む藁だと、その時私はそのように考えていた。
 足元を濡らしたまま、私は電器店を彷徨った。生活の色を、私はそこで薄めていった。私の生活の中にある、あの鈍く澱んだ匂いから、すこしでも遠ざかりたかった。
 洗濯機を通り抜け、冷蔵庫をかき分けて、そこで私はころげた。足元を掬われた。ばちん、と身体中に痛みが走り、吹き飛んだ眼鏡が、がちゃごちゃと耳障りな音をたてた。
「お客様、大丈夫ですか」
 近くにいたのだろうか、店員がすぐに駆け寄ってきた。私以外の客が、私から一歩引きさがるような空気を感じた。
 手渡された眼鏡をかけなおす。条件反射でレンズをぬぐってしまい、それで自分が自分でつかむ藁を抜き取ったこと悟った。
 私は私をみじめに思った。その時の状況だけをとりたてたわけではない。それまでのすべてを感情のほうに引っ張り出して、私はみじめさを吐き出した。
「すみません。大丈夫です」
 店員を遠ざけて、私はゆっくりと立ち上がった。周囲を見渡さないように、他のお客と視線が交わらないように、目を伏せながら。自然と、私は展示されている物のほうに視線を合わせた。そしてそこにそれはあった。
 ゴーグル型の大柄な機械。商品説明に、VR、と書いてある。
 私はいつか見たニュース記事を思い出した。それは確かSF映画の記事だった。
 私はそこに吸い込まれる自分を想像した。立ち竦み、受容して、揺蕩う自分を。
 次の瞬間、私は持ち場へ戻ろうとする店員を呼び止めた。在庫あります、と書かれたプラカードが、誇らしげに艶めいて見えた。


 朝を迎えた後の私は、いつもと同じようにメニューボタンを押して、目の前にコンソールを出した。ホログラムのメニューを操作しながら、友人の行き先を眺める。
 アヤコさんは雪山にいる。見たことのない場所。すこし怖そう。
 miiyamaさんはダーツをしているみたいだ。私は、ダーツがちょっと苦手だ。思った通りに矢が飛んでくれない。いつも刺さる手前の空間に矢が止まってしまう。
 かわさきさんは昨日の晩お酒を飲みながら「ライブに行く」と楽しそうに話していた。行き先が非表示になっているので、たぶん招待制のところなんだろう。
 他の、たくさんの友人をざっと眺めて、それから私は、今日一日をどうすごすか考えた。どこへ行って、誰と会って、何をするか。それはとても心躍るものだった。それらは私を赦している。私は、それらに縋っていいのだ。
 とるものとりあえず、私は友人たちのうちのひとりに、会いに行った。ショートさんは、私がふたつめの朝を手に入れたばかりの頃、友達になった。私よりももっと色素が薄いひとで、私と違って獣の耳や尾を生やしていない。週末はいつも、おどっているのだという。
 ショートさんは、少し狭い部屋の中にいた。そこには、ショートさんのほかにも何人か、友達か、そうでない人がいた。
 ショートさんは空中で寝転がっていた。ショートさんは身体中にセンサーをとりつけているので、体の動きのほとんどが、このバーチャル空間にも反映されているのだ。その部屋には、ショートさんのほかにも、そういう人々がいた。そうでない人々は、中腰の状態で、ショートさんたちと肩を並べていた。
「こんばんは」
 私は挨拶をした。しかし、私の声はその空間には出力されない。私と同じ台詞を、別のプログラムが代わりに口にする。少女の機械的な声。それがこの世界での私の喉だ。
「コノハナさんだ」
 ショートさんが、寝転がったまま私に手を振った。私は手を振り返した。私は、そのように設定しているので、自然と笑顔になった。
「きょうは、なにを、しているの」
「え、なんもしてねぇ」
「そう」
 私は、ショートさんの隣に座り込んだ。そうして、ショートさんの頭を撫でた。感触はない。そういうふりを、私はやっている。けれどそれで満足だった。
 ショートさんは、いやがらなかった。何事もなく、他の友達や、そうでない人々と、雑談をしていた。私の知らない遊びの話だった。
 壁の一面が、鏡になっている。そこには、中腰の私と、ねころがったショートさんと、それ以外の人びとが映っている。私はにこにこしている。ショートさんは無表情のまま、わからない話を楽しそうにしゃべり続けている。
 無関係な私を、しかし誰もが、赦している。ひどく抽象化されたぬくもりに、私は縋っている。
「あ、時間だわ」
 十分かそこら経ったころに、ショートさんは言った。
「今日イベントだったわ。行ってくる」
 ゆっくりと立ち上がったあと、ショートさんはメニューを操作して、そのまま消えた。
「あ」
 挨拶もできなかった。私はぽっかりとした。そしてすぐ、鏡に映る私以外の視線が、気安さを喪った。
 呼吸が詰まる。
 さようなら、と私は挨拶をして、人々の挨拶も聞かぬまま、すぐさま別の場所へ移動した。


 私は、いつもそうだ。
 本当に眠るまで、気安さを見出したひとびとのもとに行き、彼ら彼女らの気安さに縋り、時折さえずっている。
 それはとても寂しいけれど、しかし私は満足していた。そして彼ら彼女らも、私にそれ以上を求めなかった。それ以上を必要としなかった。私たちはそれで完結している。この世界は、それを赦している。それそのものが、私にはひどく心地の良いものだった。
 二時間か、三時間が、私のもうひとつの一日である。縋りつかれて、私はやがて雲の上に戻る。
 私は鏡の横のスイッチを押した。視界が、一瞬で夜になった。
 次の次の朝が来たら、今度は何をしよう。誰と会おう。何を話そう。いつもと違う事。やってみようかな。
 心を少女に包み込みながら、私はゆっくりと中腰になった。
 ベッドに埋もれ、目を開けながら目を瞑る。
 最初の朝を、受け入れていく。
 悲しさや、寂しさや、恐怖を、全部、飲み込んでゆく。

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