カニと退屈
一度だけ、たらばがにを食べに行ったことがある。朝がたに、あやこと話をして、そういうことになった。
あやこは、同じ大学の、同じ学部の、ひとつ年上の、同回生の子だった。
「たべたことないの、たらばがに」
ことさらおおげさに、あやこは言った。
「ない」
ちょっとむっとしながら私がそう返すと、それに食いつくように、わたしも、とあやこは同調した。
「いまから、食べに行かない」
「でも、いまから講義だよ」
「いいじゃん、どうせ今日だって寝てるんじゃないの」
それはあやこだけなんじゃないの、と喉元まで出かけて、けれど、無邪気に眼を輝かせるあやこを前にして、そういうのは言えなかった。
今日の講義の退屈さを、私たちは身をもって知っている。
いや、講義だけじゃない。
なんとなく、私たちは退屈なのだ。私たちは、退屈さにせかされている。そういうものだった。
それから私は、抵抗することなくあやこについていった。たらばがにを食べに。
それは二月の終わり、春がすき込まれる、ほんのすこし前の季節のことだった。
チラシに差し込んでください、と言われて渡された、ひどく画質の悪いカニの写真を見て、十年も前の、とるにたらないことを、ふと、思い出した。
カニは、いかにも、それがしが高級食材でござい、といったいでたちで、客からのメールに添付されていた。
もっと映りのいいカニはないのか、と尋ねたが、これがもっとも良いカニである、という回答だった。
こちらでカニを用意してはだめか、とも尋ねたが、このカニでないといけない、という回答だった。
それで、困り果てて、コーヒーを淹れて、それからしばらく、カニのかたちのモザイクをこねくりまわして、それで、思い出したのだった。
あのときのカニの味を、すこしだけ、覚えている。あまくて、たんぱくで、みずっぽい味。たぶん、そんなに良いカニではなかったんだろう。
けれど、あのカニを食べた後、私たちにはなんとなく達成感のようなものがあった。おいしいとか、おいしくないとかは、どうでもよかったのだ。
要するに、私たちは埋め合わせをしたいのだ。今飲んでいるコーヒーだってそう。たりないものごとを、ふさがることのない隙間を、ごまかすためのそれだ。
あやこはいまどうしているだろう。大学を途中でやめてしまった彼女の消息は、今や私の知るところではない。たらばがにの女であったこと以外、私は彼女のことを思い出せない。
顔も、声も、仕草さえもおぼろげなままの彼女のことを考えながら、私は先方に、カニをいじってはだめか、とメールした。
かに、あんまり美味しくなかったね、と、運転席であやこは言った。
そうだね、と同調する私は助手席で、道路をまっすぐ見つめるあやこの顔が、夕日に照らされるさまを見ていた。
最初、わたしたちは、駅前の、いかにも海鮮料理専門店でござい、といった感じの店に、行くつもりでいた。けれどそこは夜にしかかにを出してなくて、お昼は唐揚げ定食と天ぷらうどんだけだった。
「からあげ」
店先の、安っぽいラミネートに包まれたポスターを見て、ひとりごちるようにあやこは言った。
「うどん」
私も私で、あやことうり二つの様子で、これまた茫然とした。
なんだか、どうでもいいな。途端、私はそういう気持ちになった。胸の内にあった熱が、急激にしぼんでいった。
もう、からあげでもうどんでもなんでもいいから、適当に何か食べて午後の講義はちゃんと受けよう。
そう言おうとしたけれど、あやこはすでに私の隣から離れており、あたりを見回すと、速足で駅に向かう彼女の後ろ姿があった。
「ちょっと、あやこ」
私は駆け足であやこに近づいた。あやこは振り返ることもなく、駅の中にある本屋に入った。
「なに、してるの」
観光ガイドを手に取るあやこに、私は問いかけた。
「探すの」
「なにを」
「たらばがに、たべられるところ」
私は、どぎまぎした。そこまでしなくたって、とも思った。ページをめくる彼女を制止して、もうどうでもいいから大学に戻ろう、と言ってしまおうか、とも考えた。
けれど、私はそうしなかった。あやこの、ちょっと執念めいた感じに、私は少し気おされていた。
結局あやこはレンタカーを借りて、海沿いの町まで走った。片道一時間ほどの道程だった。
「あたしの我が儘だから」
私が渡そうとしたレンタカー代の半分を、あやこは受け取ろうとしなかった。気がとがめたけれど、それ以上押し付けようという気にもならなかったので、取り出した三人組の野口を、いそいそと財布に戻すしかなかった。
到着した店はかにを食べる店、というよりも、かにも食べられる店、というほうが適切で、周囲には店らしい店もなく、海端の県道に、ぽつりと取り残されている様子だった。
まだいちおうランチタイムではあったけれど、平日の、それもこんな辺鄙な場所にお客はまばらで、窓際の座敷に通されたあとも、その殺風景さから居心地はあまりよくなかった。
「なんになさいますか」
伝票しか見ない店員に、あやこはたらばがに、とだけ伝えた。
「かにですか」
呆けたような声で、店員は答えた。それからメニューを覗き込んで、あー、と、これまた呆けた声で納得した。
「以上でおねがいします」
ほかになにかございますか、との店員の言葉にかぶせて、あやこは言った。私はそれをひきとめなかった。ほかのなにか、がないわけではなかったけれど、メニュー表の値段で、それはないことになっていた。
なぜ車を走らせているのか、それは私にもわからなかった。ただ、今の自分の中にあるのもののかたちが焦りに似ているという事だけは、感覚的に理解していた。
あの頃私たちを急かしていた退屈は、今はもうどこにもいない。だからなのか、あの頃の淀んだ退屈の中にあった、見栄ばかりのたらばがにのことを、その行く末を、私は急に確かめたくなったのだ。
県道は、本当に何もない、路だけの道だった。バイパスから分岐して、右手には海、左手には崖、ただそれだけ。二車線で、路肩もなく、制限速度を示す看板は海風やらしぶきやら土砂にさらされて、目をこらさなければなんと書いてあるかわからない。
そうして十分ほど走ると、いよいよ看板が見えてきた。当時ですら褪せていた看板の印字は、もはや看板としての意味をなさないほどの様相となっていた。
そろそろ店が見えるころ、と私がひとりごちたすぐあとに、しかし私の期待を裏切るように、チェーンに囲われた駐車場が見えた。
あっと思った瞬間、立ち止まろうとして、しかし私はそれができなかった。チェーンを乗り越えて車を停めることはできないし、停車できるような路肩もなかった。
しかたなく、私はそこを通り過ぎた。よそ見をするわけにもいかなかったので、目の端だけで、廃墟となったそれをとらえた。
何かを揶揄するように、それは私を、あるいは私を含む風景を、眺めていた。
サイドミラーの隅で、過去はどんどん小さくなってゆく。記憶の中にひとさじ残っていた、あの安っぽいカニの味が、また口内でじわりとした。
私は車をまっすぐ走らせた。そうすることしかできなかった。
たのしいことだけができるのは、今だけっていうのよ。
帰りの車内で、あやこはそんなことを言った。助手席の私は、すこしだけうとうとしながら、夕暮れの逆光の中にあるあやこを、眺めていた。
「お父さんも、お母さんも、それにサークルの先輩たちも、みんなそう言うの。たのしいことだけなのは、ただの今だけだって」
「だから、今日はかにを食べに行ったの?」
夕暮れに向かって、私は訊ねた。
「ううん」
あやこは、口許だけでかぶりを振った。
「ただ、ヤケになっただけ。だっていやでしょ。私、死ぬまでたのしいだけでいたいもの」
あついコーヒーが沁み込んで、わたしの胃袋は寒空の対極へ滑り込んだ。バイパスと合流した先のコンビニで、私の愛車はトラックに囲まれていた。
昼が夕方に変わる直前の、眠たげな空を眺めながら、私はあやこのことを思い出そうとしていた。
カニをたべてから二年ほど経った後、就職活動やら卒業論文やらの足音が聞こえたところで、あやこは急に大学を辞めた。
そういえば見かけなくなったな、と思った次の週には、きれいさっぱり、まるで春の幻だったかのように、一切の痕跡も残さず、消えていた。
記憶の跡地には安っぽい噂話だけがたちこめて、無責任な私たちは、それらを好き勝手にもてあそんだ。
私、死ぬまでたのしいだけでいたいもの。
かつて飲食店だったあの廃墟がサイドミラーからも消えた後、私は最初、言葉だけを思い出した。それがやがて風景になり、あやこの表情になり、声色になり、そしてジオラマになった。
あやこはいま、どうしているのだろう。あの時言っていたように、たのしいだけの人生をおくっているんだろうか。
私は太陽に手をかざした。陽光はすでに私たちの手前で熱をうしなっていた。昼間というものの残り香だけが、私の視界を覆っていた。
後日、私は客先の事務所へ行って直接カニのデータをもらった。案の定、メールを送るときにカニの画像は圧縮され、劣化していた。
「このカニ、食べたことありますか?」
帰り際、私は担当者に訊ねた。
「ええ、一度だけ。試食ということでいただきました」
「お味はどうでした?」
続けて私は訊ねた。
担当者は答えた。
「ええ、それはもう。たいそう美味でした」
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