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西ヨーロッパ その4  Well done?

前々回の<西ヨーロッパ その2>では、「このヴェルダン条約、カロリング朝にとって “Well done!” 「でかした!」「よくやった!」となったかどうかについては、次回のお楽しみということで(笑)」で終わっていました。カロリング朝の男系男子に着目して、歴史を振り返ることにします。

強運の持ち主であった東フランクのカール3世(肥満王)でしたが、その栄光は長くは続きませんでした。887年に兄バイエルン公カールマンの庶子だったアルヌルフによって廃位され、肥満王は翌年に死去。アルヌルフ王は、896年にはローマ教皇によって皇帝に戴冠されます。そして、アルヌルフ王の息子のルートヴィヒ4世は900年に7歳で即位するも、911年に没し、カロリング家の男系はここで途絶えます。そして、次の国王となったコンラート家のコンラート1世アルヌルフ王の娘のグリスムートの子。

西フランクでは、しゃしゃり出るシャルル2世の次の王になったルイ2世(吃音王)が父の死から2年で、この世を去ります。幸いなことに、吃音王は3人の後継者を残していました。最初の妻との間にできた、ルイ3世カルロマン、そして、2番目の妻との間にもうけたシャルル3世

ところが、王位を継いだルイ3世カルロマンも早逝。3男のシャルル3世が誕生したのは吃音王が亡くなってから。こりゃもう、東フランク王国のカール3世(肥満王)が西フランク王を兼務し、フランク王国唯一の王となるのは、自然の流れ。

この頃、西フランク王国は、ヴァイキング(ノルマン人)・サラセン人・マジャール人の侵入に苦しんでいました。同時に、諸侯が力をつけるようになっていましたので、ノルマン人の包囲からパリを護った英雄 ロベール家のパリ伯ウードの声望が高まります。そしてついに、諸侯たちから888年、王に選ばれます。カロリング家以外からの王の誕生です!!

でも、血の正統性を欠いていますから、後継者として、カロリング家の王であった吃音王の息子シャルル3世を指名。ウードが亡きあと、19歳のシャルル3世は西フランクの王となり、単純王のありがたくないあだ名を頂戴します。その単純王も、923年、在位30年で廃位されることに。その反乱を指揮したのがウードの弟であったロベール。彼が王に選ばれロベール1世となるのですが、単純王の反撃にあい、討ち取られてしまいます。

領邦諸侯の中でも有力であったブルゴーニュ公リシャールの長男として生まれたのがラウールロベール1世の息子ユーグが王位継承を拒否したため、その姉と結婚していたラウールに王位が転がり込んだってわけ。いずれにしても、単純王は929年に獄死し、西フランクにおいてもカロリング家の男系男子の血は途絶えることに。

イタリアでは、ロドヴィゴ2世が875年に後継者を残さず死亡していますから、すでに男系男子9世紀の段階で断絶。領地を管理していた諸侯のうち、フリウーリ辺境伯ベレンガーリオは母がフランク王女であることから、イタリア王位継承の権利を主張します。ところが、スポレート公グイード2世もまた、カール大帝の息子であったイタリア王ピピンの娘を祖母に持つことを理由に王位を主張。

両者は、西フランク王位とイタリア王位を分け合うことで合意します。しかし、先に述べたように、西フランクではロベール家のウードを王として選んでいたから、さあ、困った。

目先のきくベレンガーリオは。カロリング家の男系男子であるアルヌルフに忠誠を誓い、トリエントでイタリア王に選出され、ベレンガーリオ1世(ベレンガル1世)となります。ところが、諸侯のうちでも力のあったトスカーナ辺境伯アダルベルト2世が引っ張り出してきたプロヴァンス王ルイ3世が900年に、王に選ばれることに。

ベレンガーリオ1世だって黙って引っ込んじゃいませんよ。結局、ベレンガーリオ1世はイタリア王位を守るのですが、今やその影響力はイタリア北部に限定。中央イタリアでは、トスカーナ辺境伯アダルベルト2世やスポレート公アルベリーコ1世らが、独立した統治を行うほど。

さらに悪いことは続きます。今度はイヴレーア辺境伯がブルグント王ルドルフ2世をイタリア王位につけようと陰謀を企てます。一度は敗北を喫するベレンガーリオ1世でしたが、イタリア王に再度、選ばれます。しかし、924年、ベレンガーリオ1世の波乱万丈の生涯は、ミサの間に背中を刺されて終わることとなります。

結局、3つに分かれたフランク王国の男系男子はイタリアでは9世紀後半、東西フランクでも10世紀初頭には消えてしまい、 “Well done!” 「でかした!」「よくやった!」とはなりませんでした。

次回は、男系男子の話をします。

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