狂気にのみこまれることはたまにあるがそれを是としない

これは教訓だ。幼いころ、狂気に身をゆだねたことがある。その出来事について書いておく。

僕は自分で自分のことを頭のおかしい奴だと評価している。けれど、普通の人はこうするからこうしなきゃ。とか、一般的にはこうだからこうしよう。とか、そんなことは考えないようにしてる。僕よりももっとぶっ飛んだやつはいっぱいいっぱいいるからだ。

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詳細な年齢は覚えていないのだが、3-5才。よく母に連れられて外出することが多かった。その日、父はその場にいなかったからおそらく平日、レビンという今では古いスポーツタイプの車に乗せられて、相模大野の伊勢丹に向かった。

幼い僕にとって伊勢丹は退屈に分類されるタイプの百貨店だ。おもちゃコーナーにゲームの体験版がなかったから時間をつぶす手段がなかったし、当時はスマホなんて存在しない。本のフロアはあるが、長時間の読書は不可能。おそらく母はそのことを理解していた。

たいていデパートの地下では食品を販売している。伊勢丹も例外ではない。母はソフトクリームがすきだし、ジェラートも食べる。ミルク味を好む。遊ぶ手段がない僕に、母はコーンに乗ったジェラートを与えた。これが狂気の始まりとも知らずに。

物心がついたのは何時か、それを明確に答えることは難しい。1991年9月26日についたとは言えない。それは徐々についていくものだから、境界線を引くことはできない。ただ、あの時の僕は少しばかりの物心は持ち合わせていたのは確かだ。

『買ってもらったばかりのジェラートを床に落としたい』

なぜその思考が生まれたかは説明することはできないが、通常その破壊的衝動は理性を働かせずとも容易に抑えることはできるだろう。

狂気とも言えるその行動を、僕は、実行に移した。

ソフトクリームは伊勢丹の床に落ちた。

...

この行為をして何かが満たされた。ということはなかった。

『ああ、こんなものか』というのがすべてで、好奇心が満たされる高揚感も、破壊行為によって得られる爽快感も、ジェラートを失うことによる喪失感も一切ない。虚無。母もそんな僕の心情を知ってかしらずか、甘やかすことなく、幼い僕の予想通り退屈に普通に叱った。

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狂気に身を任せても得られるものは何もない。しいて言えば、孤独...?

僕はやらないほうがいいなって思うことはやらない。

やりたいことすら満足にできないのだから。

P.S.
この文章を書いてる途中で思い出した、切れるとわかっててカッターナイフで人差し指を深くえぐったり、やばそうってわかりながら耳かきを思いっきり耳の奥まで突っ込んでみたり( この時は救急車で運ばれた)、やけどするって思いながら炊飯器の鉄の部分をしっかり触れてやけどしたりしたのはまた別の話。

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