がるこの冒険〜インド総編集編〜

 
    がるこの冒険
 
 ◆第一章 始まり
  
 私は絶望していた。パスポートと半券そして200ルピー。これじゃあ日本に帰れない。これじゃあ、さっき食べた大盛りのカレーセットが50ルピーだったから…あと4食分!?
 そのまま崩れ落ちた。もうダメかもしれない。底知れない恐怖と孤独が私を支配していた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
 今思えば、それが全ての始まりであった。
 
 ●出会い
 誰かに話しかけられて、私はびっくりして飛び上がり、立ちつくした。そこにはガリガリに痩せ細った少年が、私のことを覗き込んでいた。
「ねえ、どうしたの?僕の言葉通じない?」
 私が何よりも驚いたのが、それが流暢な日本語だったということだ。日本から約6000キロ離れたインドの旧市街であることを忘れさせる驚きであった。私はやっとの事でこういった。
「日本語が分かるの?」
 すると彼は優しく笑って
「なーんだ大丈夫そうだね。倒れてたからさ心配になっちゃったんだよ。お姉さん狙われてるよ?ほらあそこと、あそこと…」
 周りをよく見るとギラギラと目を光らせたいかにもという人達が私を舐めるように見つめていた。
「僕の名前はビーカー。お姉ちゃんの名前は?」
「私の名前はガルだよ。」
「ガルか〜ふーん遊びに行こうよ!」

 そういってインドの旧市街を自分より遥かに小さい子が、紳士のように私の手をひいて歩く。何故か周りがその子の為に道を開けているようでもあった。さっきまで人混みの中を人にぶつからない様に頑張って歩いていたのが嘘のように。
 ガンガ(インド北部に流れるヒンドゥー教の聖地と呼ばれる川。別名ガンジス川)のほとりに着く。ガンガはインド人の生活の中心でその水を使って沐浴し、調理し、洗濯し、汚物を流し、そして最期はその川に死体まで流す。そんな川のほとりに2人で座った。
  
「ガルは観光?じゃないよね?インドで何してるの?」
 そう言われた瞬間涙が溢れてきた。多分ずっとそれを聞いて欲しかったんだって…
 
 ●過去
 
 私は父に褒められた事がない。かけっこで一番になっても、テストで一番になっても。父の口癖は俺の子供だから当たり前。そう言って全てを片付けられた。家族よりも仕事に重きを置き、家にはほとんど帰って来ない。祖母からは祖父も仕事を一番に考える人で若くして過労死で亡くなったと聞いた。私はそんな父を尊敬していたし、祖母からは、いかに仕事が大切かを毎日のように聞かされた影響からか、私自身仕事に生き過労死したいとまで考えていた。
 しかし、母は違っていた。家族第一で育てられた母には、それが理解できなかったのだと思う。
 ある日、母がおかしくなった。始めは転んで怪我をする程度であったが、怪我をすることにより父が心配してくれる事に味をしめて、最終的には自殺未遂を繰り返すようになった。病院に運ばれる毎日。始めは父も心配しよく見舞いに来ていたが、それが当たり前になると来なくなった。そんな母を私は恥じていたし大嫌いだった。今思うと、母は寂しかったのであろう…それから少しして母の暴力が始まった。始めは殴る程度、私が抵抗できる歳になってくると刃物を持ち出すようになった。私は外に出た。毎日馬鹿げた事ばかり繰り返し泥だらけ、血だらけになって家に帰った。私も寂しかったのかもしれない。父は仕事、祖母も仕事、母は自分の事ばかり…程なくして義務教育が終わると自由の街東京に繰り出した。東京は見る物全てが新鮮で私の村にあった1番大きな杉の木よりも遥かに大きなビルが立ち並んでいた。誰も私を知らない街で一から始めた。私が働いていた会社は俗に言うブラック企業で休みはなく、サービス残業は当たり前。でもそこで自分が必要とされていると思っていたし、自分がいなくなったら困ると思っていたし幸せだった。そんなある日
「おいガルこれを運んでおいてくれ」
 上司に言われ立ち上がった瞬間、地面が揺れて、息が吸えなくなった。そこからの記憶がない。次に気がついた時には病院のベッドの上にいた。先生から言われたのは過労。数日入院するように言われた。
 私は焦っていた。やらなきゃいけない仕事が溜まっている。私がいなきゃ仕事が回らない…。悶々とした数日をベットで過ごし会社に復帰した。ほんの数日休んだだけで私の居場所はなくなっていた。奪われていた。あれだけ一生懸命作った居場所が。そして私がいなくても会社は回っていた。それからはもっと、もっと仕事をした。誰よりも認められるように、褒めてもらえるように、必要としてもらえるように、頼ってもらえるように。家にも帰らなくなった。私の頭の中は仕事でいっぱいだった。そんなある日また倒れた。重度の過労からくる鬱病だった。自分が許せなかった。過労で亡くなっている祖父、家族を投げ打って働く父。ちょっとの過労で倒れてしまう自分。私は死にたかった。そんな弱い自分に大嫌いな母を重ねてもっと死にたくなった。心療内科から精神内科、最後は精神病棟まで回され親身に話をしてくれる先生に適当に相槌を打ちながら、どうやって死ぬかだけを考えていた。自由の街東京は全然自由でなくなっていた。実家に帰るという選択肢もなかった。何を食べても味を感じない、何も見ても頭に入らない、大好きだった曲を聴いても分からない。頭の中は死ぬことで一杯だった。
 ある日私を動かす映像を見た。ガリガリに痩せた人達が死を悟ると歩き始める。ある場所を求めて。そう私の求めている死を受け入れてくれる場所に向かっていく…
 私はすぐにそこ行きの片道のチケットを取った。全てを置いて。片道チケットに、パスポートそして1万円札1枚。これが全ての荷物だ。そしてこの国に降り立った。死ぬために。私の死に場インドに!
 
 ●死に場所を探す
 
 日本から約10時間。インディラ・ガンディー国際空港に到着。空港で全財産の1万円札を両替すると、その辺にいる人に「ガンガ」「ヴァラナシ」この2つのワードを言い続けた結果、空港から徒歩6時間でニューデリー駅につけた。途中オートリキシャ(三輪のタクシー)や、バスがあったらしいけど明日には死ぬ身。最期に自分が死ぬ国をゆっくり見ておこうと思い歩き続けた。
 
 ●インド
 
 インドは私が考えていたより飢えていて、活気があって、めちゃくちゃだった。道はもちろん舗装なんてされてないし、通行区分もない。クラクションがそこら中から鳴り響く。人が歩いていてもガンガンバイクを飛ばす。道の真ん中を牛が堂々と歩いていく。インドは牛が神聖な生き物で人は轢いても牛は轢いてはいけないらしい。そんなふざけた街。

 ●トイレのおじさん
 
 ニューデリー駅に行く途中公衆トイレに寄った。紛れもない公衆トイレに。そこにはしっかり英語でpublic toiletと書いてあったのだけれど、そこには1人のおじさんが立っていた。トイレに入ろうとしたら
「シャウチャライ ダスルピー!」
 と両掌を広げて言った。私が分からないというジェスチャーをすると10ルピー札を見せて中に入る動作をした。私はおじさんに10ルピー札を渡すとトイレットペーパーを2巻丁寧に切ってくれ私にニコッと笑って手渡した。トイレから出てくるとおじさんの近くには青年と少年がいて仲良く何やら話していた。私が何気なく彼らを見ていると青年が流暢な英語で話しかけてきた。
「そんなに怖い顔してどうしたの何もしなくても太陽は昇って落ちる。それは誰にも止められない事だよ?」
 と分かりきったことを言ってきた。トイレのおじさんとの関係が気になって私は聞いた。
 すると
「あのおじさんは僕の父だよ。父はねこのトイレに20年いるんだ。20年間このトイレの番人をやって僕を大学まで行かせてくれたんだ。そしてこの子が僕の子供。僕は父を誇りに思ってるよ!」
 彼の父は自分の子供には自分と同じ思いはさせたくない。子供は幸せにしたい。そう思いトイレの番人を始めた。父を誇りに思う子供。果たして私は本当に父を誇りに思っていたのだろうか…
 
 ●現在
 
「それでガルはその人になんて言い返したの?」
「何も言い返せなかった。ただひたすらその親子を眺めていたの」
「ふーん。ほらみて!流れてく!追いかけよ!」
 そういうと、いきなりビーカーが走り出した。
「おらおら見てみて!」
 たまにおかしな日本語を使うビーカー。その目線の先にはカラフルな布に包まれたナニカが浮いていた。
「ついてるかなー?でもあの大きさだと農民かなー」
 ビーカーがその布を川から引き上げ、めくった。そこには黒い塊が幾つも入っていた。よく分からないので覗き込む。すると独特な香りが漂ってきて、その黒い塊に混じって白いものが見えた。私がそれが何なのか分かる前に涙と吐き気が襲ってきた。必死で吐き気を抑える横でビーカーが布を綺麗に巻き直して川に流した。
「どうしたの?多い時は1日300近く流れるんだよ。たまに大物も付いてたりするんだよ!大物の見分け方はね、とにかく小さいんだよ!何でかっていうとね…」
 ビーカーが目を輝かせながら話している内容は殆ど頭には入ってこなかった。
「ねえビーカー今のってさ、やっぱり…」
「貧しい多分農民の死体だよ!」
 あっさり、はっきり答えたビーカーは私の表情をみて不思議そうに私を見つめる。
「僕たちインド人はガンガから生まれたんだ。今の人はガンガに帰ったんだよ。生きてたら必ず死ぬんだからさ!」
 
 ●インドの死壮観
 
 そう言ってビーカーはインド人の死を語り始めた。
「人はいつか必ず死ぬ。死んだ人は火葬する所に運ばれて、薪で燃やすんだ。
 その灰を布で巻いてガンガに投げ入れる。
 川の流れに乗って流れて行って、そのうちにガンガの一部になって、消えちゃうんだ。それでまた生まれるの!僕たちはねサンサーラって言ってるんだけど前世でした行いが今のカーストになっていて、今やってることが来世のカーストになるんだ!だからきっと前世では僕とーっても悪いことしちゃったと思うんだよね。そういうの輪廻転生?っていうんだよね!」
 
 ●カースト
 
 インドの街はぐちゃぐちゃだ。あちこちで日本では考えられないことが起きている。そんなぐちゃぐちゃな国インドに1つだけ守らなきゃいけないルールがある。それはカーストと言う。4つのヴァルナとジャーティからなる(ヴァルナについてはここでは省略する。興味のある方は調べてみて欲しい。)
 
 ジャーティとは職業で、たとえば靴磨きのジャーティに生まれたら死ぬまでずっと靴磨き以外やってはいけません。(仕事を自由に選べません)。
 結婚も、同じジャーティの中の人同士でしなければならず、食事も異なるジャーティの人とはできません。ジャーティは、インド全体で何千とあり、とても複雑な仕組みなのです。
 
 ●五体不満足

  人は川の流れのように常に動いていて止まらない。蝿がたかる肉売りのおじさん。ニンニクの皮を小さな少女が弟をおんぶしながらむいて売る。そのちょっと端に彼はいた。
 始めは小さな子供のように見えた彼は実は青年だった。そうそれくらい小さい青年が。頭はしっかりある。けれど身体がないのだ
 話しかけずにはいられなかった。言葉も通じないけれど。牛の糞にまみれた地面にしゃがむ。その彼の前に置かれたものは五つあった。
 一つはお金を貰うための薄汚れた紙カップ。そして白くなった細い何かが四つ。目を凝らしてよく見た瞬間…悪寒と恐怖と嗚咽が私から溢れてきた。何を見ても何も感じなかった私に…久々の感情だった。
 それは…それは…白骨化が進んだ…その少年の手足だったのだ。しばらくの間何も何も言えず、ただただ眺めていた。眺めざる終えなかったのかもしれない。腰が抜けて動けなかったのだから。この光景はかなり時間の経った今でも鮮明に思い出せる。
「んん?」
 彼が何かしらの言語を発したなと思い、彼の顔を見ると太陽のような笑顔で私に微笑みかけてきた。
 
 ●現在
 
「その人はアウトカーストだね。物乞いをする為に周りの人に手足を切ってもらったんだね!他にも目を潰される人とか、顔をぐちゃぐちゃにしてもらう物乞いもいるよ!それでお姉ちゃんはどうしたの?」
「それをみてインドに来た理由がなくなっちゃったんだよね〜ねえビーカー私をみてどう思う?」
「それでお姉ちゃんは今から死ぬの?」
 ビーカーが尋ねてきた。
「そのつもりだったんだけど、生きたくなっちゃったんだよね。生きて、生きて生き抜きたくなった!」
「いいな!お姉ちゃんは羨ましい!」
「何が羨ましいの?最悪でしょ。」
「僕さダリットだからさ。」
「ダリット?」
「そう。ダリットってねアウトカーストなんだ。つまりカーストに入れないの。仕事は素手で排泄物を片付けたりね。僕らは触ると穢れる人間なんだ。僕のお母さんはカーストの高い人がご飯を食べてる横を歩いちゃったんだ。それで殺された。それを守ろうとしたお父さんも僕の目の前で殺されちゃったんだ。僕は何もできなかった。それがインドの常識。だから僕はビーカーなの。ビーカーはねヒンドゥー語で不要って意味なんだ。だって両親を守れない僕って不要でしょ?」
 目一杯に涙を溜め、今にも折れてしまいそうな身体を私は抱きしめた。そして少しの間胸を貸してあげた。
「200ルピーか嫌になっちゃったよ。」
 いつのまにかビーカーの手には私の全財産が握られていた。
「ガルさ、いかにも外国人じゃん。お金持ってると思ったんだよね。さくっと盗んで逃げようと思ってたんだ。でもやめた!」
 そう言って私の前に手を出した。
「僕の手汚いかな?」
 勢いよく私が手を握ると、どこにそんな力があるの?ってくらいの力で立ち上がらせてくれた。
 
 〜ここからガルの冒険が始まった。生きる為の冒険が〜
 
  
 ◆第二章 

 ひたすら2人で歩き続けた。私たちの居場所を探してーー
 
 ●お金
 
「ねービーカー本当に1ルピーも持ってないの?」
「ないよ」
「本当もう一歩も歩けないよー」
 お金も気力も失っていた私達。なんとか稼がなくてはならないのだが、ビーカーはジャーティーにより稼ぐことができない(ジャーティとは職業で、たとえば靴磨きのジャーティに生まれたら死ぬまでずっと靴磨き以外やってはいけません。(仕事を自由に選べません)。がるこの冒険1参照)
「お姉ちゃんがなんとか稼いでよー」
 ビーカーに稼いでもらうことは叶わない。なんとか私が稼がなくては…
「じゃあとりあえずカップ拾ってきてよ!」
 
 ●お金を稼ぐ
 私は自分の前に薄汚れた紙コップを置くと、そこに胡座をかいて座った。カップの横には一言「日本人です。困っていますと」日本語、英語、ヒンドゥー語で書いた紙を置いた。
「お姉ちゃん本当にやるの?」
「本当にやるよ。これしか方法ないし私インド人じゃないからジャーティーも関係ないでしょ?」
「まあそうだけど…」
 そのまま1日座り続けた。入ったのはたったの2ルピー。面白がって現地の人が入れてくれた分だけだった。
「やっぱりね。無理無理。入んないよw」

 ●神様
 
 インドはひたすら飢えている。餓死する子供も多い。その中で私は不思議に思うことがあった。牛が悠々と私達の目の前を通り過ぎる。その牛が私にはステーキにしか見えなかった。今日もカップの前に座り、なんとなく街を眺めていた。
「ねえビーカーあの牛食べていいかな?」
「ダメに決まってるじゃん!神様だよ!」
「じゃあさ、あそこに供えてある食べ物は?」
「それもダメ!神様へのお供え物だから!」
「なんで?神様はみんなを救うものじゃないの?あのお供え物、牛が食べてるじゃん。牛が食べるくらいなら私達が食べてもいいんじゃない?ほら!あの子だって今にも餓死しそうだよ!」
「だから絶対ダメだってば!」
「神様ってそんなに大事なものなの?」
「当たり前じゃん!」
 
 日本にもかつてキリスト教が広がっていた時代があった。かの徳川家康が水野守信に命じて、みんな平等というキリスト教の教えに恐れをなして絵踏みと呼ばれる通達を出した。それはキリスト教のイエスキリストやマリアを模した像を踏ませるというものだ。信仰があるものはその像を踏めないというものなのだが、今に残るその像の顔はほとんどなくなっている。それは何故か、教えよりも自分の命を守るために多くの者がその像を踏んだのだ。自分の信仰を捨てて…それくらい日本人は自分の命を家族を守ることに必死だ。
 それなのにインド人は、、、
 
「ねえビーカーちょっと実験してみたいことあるんだけどいいかな?」
「任せるー何するの?」
「その辺におちてるカップ何個か持ってきてくれない?」
 
 ●お金を稼ぐ2
 私は自分の前に薄汚れた紙コップを4つ置くと、そこに胡座をかいて座った。カップの横には今度は言葉を書き足した。
 カップごとに宗教を書いたのだ。私がその時書いたのは次の通り
「キリスト教
 イスラーム教
 仏教
 ヒンドゥー教
 あなたの信じている神はどれですか?私は困っています。」
 世界は宗教に支配されている。アメリカの貿易センタービルに旅客機が突っ込んだのも、世界中で毎日のように殺し合いが行われてるのも、目の前のお供え物を食べられないのも。皆、神を信じていてるから。そんな世界がどれくらい神を信じているのか私は疑問であった。今私が信じる神はおらず自分以外信じられない。そんな世界に立っていたからだ。
 
 1時間後、私達の周りには人だかりができていた。それは置いたカップは溢れかえっていたからだ。文字が読めない人達のためにビーカーが通訳して回る。あなたはどの宗教を信じていますか?と。皆口々に自分の宗教を信じているといいと話しかけてくれたほぼ全ての人が少なからずのお金を入れてくれたのだ。また少し立って覗きに来て何故〇〇教のがお金が入ってるのだ!もっと入れねば!と何回も入れてくれる人もいた。
 その日私たちは久々にご飯にありつけた。
 そして久々にシャワーを浴び、ベッドで眠った。
 それから数日私達は、変わらず物乞いまがいをしていた。不思議に思ったのだが同じ方法で毎日それなりにお金が入ったのだ。
 ひたすら歩いていた。ひたすらにどこかに向かって…ふと目線を上げると川の向こうに真っ白に輝く何やら素敵な建物が立っていた。その建物はインドにあるにはおかしなくらい白く、均等で美しすぎた。
 
 ●タージマハル
 
 私達の周りには、不思議な時間が流れていた。今までのインドのめちゃくちゃさは全くなく、ひたすら静かで優しい時間が流れていた。ビーカーもその建物の事は知っていたようだったが実物は初めて見たようで、彼も何やら物思いにふけっていた。
 
 その川の辺りで絵を書いているお爺さんに会った。
「こんにちは」
 と、私が声をかけると手を止めて私を見つめたように見えた。
「やあ」
 と返してはくれたが、彼の両目はどこまでも続く漆黒であった。
 白に染まりかけた金髪に凛々しい顎髭、昔はよく身体を鍛えていた事を思わせる身体つき。私は1発で軍人だと思ったのと、既にそんな事では動じない自分に少しびっくりもしていた。彼の名前はピーター•ペンディングと言ってイギリス人であった。
「絵を書いているのですか?」
 そう私が言うと絵を見せてくれた。その絵は目の前に広がるタージマハルと寸分変わらぬような画角で書かれて、本当に素晴らしい絵であった。その絵は降り注ぐ太陽に煌めいて金色に輝いていたからだ。
「これは夕焼けか、朝日を書いたものですか?とっても素敵な景色が見えるのですね!」
 と言うと
「これは昔のタージマハルさ。僕は返しに来たんだ。」
 と言って胸につけられた金色に輝く十字架を握って見せた。
「タージマハルは昔、金色に輝いていたって知ってるかい?僕も見たことはないのだけれど…そしてタージマハルに使われていた金がこれさ。僕の大祖父ウィリアム•ペンディングはタージマハルの金を剥がしただけではなく、タージマハルまで売っちまおうとした男さッ。会ったことなんてもちろんないが俺の胸にこいつがあるってことは変わらない事実なんだなあ。まあ、でもあれだ売っちまわなくて本当良かったよ。イギリス人が売ったらきっとこのままの形では残ってなかっただろうからね…」
 そう言って遠くを見るような仕草をした。
「どうして今インドで絵を書いているのですか?その目も…」
 と私が言葉に詰まると…
「女房に言われたんだよ。それが彼女の最後の言葉だったし、俺はあいつを戦場に連れていって殺しちまった男だからな…」
 そう言って彼は語り始めた。
「俺は本当に馬鹿な男だよ。俺は女房のことが好きすぎて片時も離れたくなくってさ、女房まで兵隊にしてしまった。女房は案の定、死んじまってさ…死の間際、女房が言ったんだよ。本当あなたシャー・ジャハーンみたいねって。そしてあなたが帰れたらきっとそのネックレスをタージマハルに返してね。とな。その後の戦争で俺は両目を失った。だが生きていたからインドに来た。」 
 
 ●愛の墓
 
 遠くを見つめながらピーターは話を続ける。
「シャー・ジャハーンっていう王様がいてな、愛妃のムムターズ・マハルを物凄く愛していたんだ。それは、たびたび戦場にまで連れていくほどだったらしい。ムムターズ・マハルは遠征先で、36歳という若さで死んじまって
 早すぎる死に絶望するシャー・ジャハーン王は悲しみの果てに、愛する彼女のために霊廟を捧げようとタージマハルを建てたんだ。22年かけ国を傾けるくらいの金をかけて。そんくらい愛する女のためにできる奴ってかっこよくないか?」
「すごいと思う!」
 とビーカーが無邪気に答えた。
「でも黒タージマハルの話は知らないの?」
「黒?白じゃなくて何だい?それは?」
 と、ピーターがビーカーに聞いた。
「奥さんの為に色々やってあげるのは良い事だと思う!でも他の人にあんまり迷惑をかけるのは違うと思う!だからあんな死に方したんだよ!黒タージマハルっていうのはね、今目の前にある白いタージマハルの前に自分用の黒いタージマハルを作ろうとしてたんだよ!白作るのに22年!国が傾いちゃうくらい、いっぱいお金をかけて、それで死んだ人もいっぱいいると思う!それなのにもう一個作ろうとした!それで息子に王様も奪われてアーグラ城に幽閉されちゃうんだ。つまりその頃にはシャー・ジャハーン王に味方する人がいなかったって事だよね?王様にだよ!それって悲しくない?最後1人ぼっちになっちゃったんだ。僕みたいに…」
 ビーカーは最後に寂しく笑って話してくれた。ピーターは静かにそれを聞いて
「ありがとな少年!」
 そう言ってビーカーの頭をわしゃわしゃと撫でた。ビーカーの頭が取れるんじゃないかってくらい力強く。
「でもね今は2人仲良くタージマハルで眠ってるんだ。今は2人で寂しくないね!」
 それを聞くと今度は少しの間ハグした。ハグを終えた2人はなんだかスッキリしたような顔をしていた。目が赤く見えたのはきっと私の錯覚であろう…
「これやるよ!」
 ピーターはビーカーに自分の首から十字架を取って渡した。
「きっと俺からはこのネックレスをタージマハルに返す事はできない。だがインド人の君だったら…」
 とビーカーの首に巻いた。
「本当にいいの?でと僕売っちゃうかもよ?なくしちゃうかもよ?」
「いいんだよ。それがインドだろ。さあ俺は役目も果たしたし国に帰るよ。俺も親戚中に散々迷惑かけちまったからな。その罪滅ぼしもたくさんあるんだよ。さあこれから忙しくなる!」
 と言ってどこかに走って行った。
「ガル!ねえ今の話に続きがあるの知ってた?」
「最後は2人仲良く一緒にいてハッピーエンドじゃないの?」
「ここはインドだよ!そんなことないさッ」
 と、不敵な笑みを浮かべて
「じゃあ実際行ってみようよ!」
 そう行って私たちはタージマハルに向かった。真っ白な門を抜けてお庭に入る…そうすると左右対象に木々が立ち並び真ん中には水路…そしてその先には真っ白なタージマハルがそびえ立っていた。多くの観光客達が写真を撮る。その中をビーカーと無言で歩いていく。中央に見える庭園には天井の4本の川をあらわす4本の水路が四方に流れ、この水路が交わるところには天井の泉を表す池がある。
 何もかもが、ぐちゃぐちゃで何でもありでそんな国インドで始めてみた均等で統一感があって綺麗で、そしてシャー・ジャハーン王の愛の詰まったタージマハル。 
 
「…でしょ?」
 ビーカーが何か言った。
「綺麗でしょ?」
「うん!」
「じゃあ行こう!」
 観光客の波に乗って中に入る。ちょうど観光客の群がる真ん中に柵がありシャー・ジャハーンとムムターズ・マハルの真っ白な墓石がある。
「2人はこの下に仲良く眠ってるんだ。でも最悪だよね!」
「どうして?」
「インド人は輪廻転生って言ったの覚えてる?ガンガに流されてまた生まれ変わる。なのにこの2人はここに身体があるから生まれ変わることができない。僕からしたら変なのーって思うな。生まれ変わって、また仲良く生きればいいのに…」
 その言葉を聞いて私は楊貴妃の有名な言葉を思い出していた。「天にあっては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝とならん」
 空を飛ぶ鳥に生まれ変わったら、雌雄一翼の鳥になって二羽一緒に並んででなければ飛べない鳥となろう。地上に生える樹になるならば、二本の樹の交えた枝の木目が連なった連理の枝となりたい。いつの世にも離れることのない夫婦でありたい。といつの日にか読んだ楊貴妃の物語を思い出して、ビーカーの言葉に少しだけ納得してしまう自分がいる。
「それにさ、毎日毎日何千って人が来てさ、ぜーんぜん2人の時間作れないよねwでもこれがインドなんだ!」
 そう言ってビーカーは服の上から十字架を強く握った。そう。これがインドなのだ。

 ●星が降り注ぐ
 
 それから10日ほど経ったが、ビーカーの胸には金色に輝くそれがまだ光輝いていた。そしてそれと同じくらい光輝く星々が空に輝く。私たちはいつの間にか街を抜けて砂漠の様な荒地を歩いていた。家はポツポツとしかない。そんなど田舎だ。
「最近嬉しそうな顔する様になったよね!」
「どういうこと?」 
「なんで日が暮れるのが嬉しいの?チャンドラが好きなの?」
「チャンドラって?」
「月の神様だよ!」
「ああ!太陽も月も好きなんだけど日が暮れて大地が赤く染まるのが好きなの。夕日を見るとなんだか今日も生きれてよかった。生きてて良かった!って最近そんな風に思う。日本にいたら仕事に追われて気づいたら日が暮れて朝が来ている。こんな風に毎日空を見上げる事なんてないからね!」
 ふと空を見上げるとさっきよりも目が慣れてもっとキラキラした星々が輝いていた。
「キレイ…」
「なんで日本にいたら空を見なかったの?忙しくても顔を上げることはできるでしょ?」
 今これを読んでいる皆さんも少しの間携帯を置いて空を見上げて大きく深呼吸してほしい。それだけで見える世界が変わるから…
 それくらい私たちは空を見上げてない。
「その通りなんだけど、日本にいたら夜になっても星空は殆ど見えないの。それくらい街が明るくて…人がいっぱいいて…」
「なにそれ!毎日ラマダーンみたいだね!いいな!いいな!僕も生まれ変わったらもっといいカーストになってきっと日本に行くんだ!」
 そうだ。この少年は…
「ちょっと僕あっちの方行ってくる!」
 
 私はこの時ビーカーを止めなかった事を今でも悔やんでいる。
 次の日になってもビーカーは帰ってこなかった。私はフラフラとビーカーを探して歩いた。私はずっと嫌な予感がしていた。夜になっても見つからない。ついに私は動けなくなってその場に腰を下ろした。そういえば昨日から何も食べていない。近くの家に行ってみよう。そう思いもう一度立ち上がった。すると遠くの方から小さな影がゆっくり進んでくるのが見える。その姿を見た時、私は全速力で走り始めた。
「ビーカー!ビーカー!」
 倒れる寸前、私はビーカーの身体を抱きしめる。顔は素の顔が分からないくらい腫れ上がり、身体中アザだらけ、息を吸うのも大変そうだから肋も何本か折れているだろう…
「どうしたの!何があったの!」
「ごめんな…さい。取られちゃった。ごめんなさい…」
 そう言ってビーカーは涙を流すと
「ありがとう。」
 そう言って目を瞑った。次の日も、次の日も、次の日も。街の人が私をビーカーから無理やり引き離すまでずっと。ビーカーは私の手の中で亡くなった。私はインドに死にに来て、インドで生きようと思って、インドでまた生きる希望を失った。
 
 ●旅人
 
 とても幸せな夢をみた。ビーカーと何かを話している夢だった。とっても楽しくて楽しくて、でもビーカーは急に怖い顔をして言った。
「ガルには生きて欲しい。大丈夫。」
 気づくと朝だった。久しぶりにお腹が空いた。街に行こう。ふらふらとゆっくり、でも一歩ずつ進む。
「…せ…い?」
 何かの声が聞こえた。
「幸せかい?」
 私が顔を上げる。
「幸せかい?」
 もう一度その人は言った。逆光のせいでよく顔が見えない。
「99%の国民が自分が幸せだと言い切れる国がある。そこに行きなさい。君の幸せを探して」
 
 がるこの冒険インド編 完
 next journey is...
 
 

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