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カコ

私は父に褒められた事がない。かけっこで一番になっても、テストで一番になっても。父の口癖は俺の父だから当たり前。家族よりも仕事に重きを置き、家にはほとんど帰って来ない。祖母からは祖父も仕事を一番に考える人で若くして過労死で亡くなったと聞いた。私はそんな父を尊敬していたし、私自身仕事に生き過労死したいとまで考えていた。しかし、母は違っていた。家族第一で育てられた母には、それが理解できなかったのだと思う。
 ある日、母がおかしくなった。自殺未遂を繰り返すようになった。病院に運ばれる毎日。始めは父も心配しよく見舞いに来ていたが、それが当たり前になると来なくなった。そんな母を私は恥じていたし大嫌いだった。今思うと、母は寂しかったのであろう…それから少しして母の暴力が始まった。始めは殴る程度、私が抵抗できる歳になってくると刃物を持ち出すようになった。私は外に出た。毎日馬鹿げた事ばかり繰り返し泥だらけ、血だらけになって家に帰った。私も寂しかったのかもしれない。程なくして義務教育が終わると自由の街東京に繰り出した。東京は見る物全てが新鮮で私の村にあった1番大きな杉の木よりも遥かに大きなビルが立ち並んでいた。誰も私を知らない街で一から始めた。私が働いていた会社は俗に言うブラック企業で休みはなく、サービス残業は当たり前。でもそこで自分が必要とされていると思っていたし、自分がいなくなったら困ると思っていたし幸せだった。そんなある日
「おいガルこれを運んでおいてくれ」
 と上司に言われ立ち上がった瞬間、地面が揺れて、息が吸えなくなった。そこからの記憶がない。次に気がついた時には病院のベッドの上にいた。先生から言われたのは過労。数日入院するように言われた。
 私は焦っていた。やらなきゃいけない仕事が溜まっている。私がいなきゃ仕事が回らない…。悶々とした数日をベットで過ごし会社に復帰した。ほんの数日休んだだけで私の居場所はなくなっていた。奪われていた。あれだけ一生懸命作った居場所が。そして私がいなくても会社は回っていた。それからはもっと、もっと仕事をした。誰よりも認められるように、必要としてもらえるように、頼ってもらえるように。家にも帰らなくなった。私の頭の中は仕事でいっぱいだった。そんなある日また倒れた。重度の過労からくる鬱病だった。自分が許せなかった。過労で亡くなっている祖父、家族を投げ打って働く父。ちょっとの過労で倒れてしまう自分。私は死にたかった。そんな弱い自分に大嫌いな母を重ねてもっと死にたくなった。心療内科から精神内科、最後は精神病棟まで回され親身に話をしてくれる先生を眺めながらどうやって死ぬかだけを考えていた。自由の街東京は全然自由でなくなっていた。何を食べても味を感じない、何も見ても頭に入らない、大好きだった曲を聴いても分からない。頭の中は死ぬことで一杯だった。
 次の日私を動かす映像を見た。ガリガリに痩せた人達が死を悟ると歩き始める。ある場所を求めて。そう私の求めている死を受け入れてくれる場所に向かっていく…
 私はすぐにそこ行きの片道のチケットを取った。全てを置いて。片道チケットに、パスポートそして1万円札1枚。これが全ての荷物だ。そしてこの国に降り立った。死ぬために。私の死に場インドに!
 

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