遺書代わりコラム その3

自分がこの世で一番不幸だと思いたいわたしとしては、周囲の人が不幸になるのは許せないことだ。この世で不幸なのはわたしだけであってほしい。勝手に不幸を蔓延させないでいただきたい。

人というのは愚かな存在で、社会的距離が遠い(知らない国の知らない人の苦しみ・幸せなどわかるはずがない)とか、時間的距離が遠い(自分たちの言動の50年後の影響などわかるはずがない)話をうまく想像できないし、ほんとうにやるべきことがわかっていても、見栄とか小銭のために軽率に振る舞う。強い信念とか固い意思を持っていると思っているのは自分だけで、実際のところ、環境・状況に応じてずる賢く動く。愚かな人とそうでない人がいるのではなく、みんな愚かなのである。一見賢そうな人は、幸運にも賢く振る舞うことができる環境に身を置いているだけで、賢くいられない環境に陥ればいくらでも愚かになる。素敵じゃないか、わたしの信じるわたしと、他人から見えるわたしが食い違うことほどおもしろいことがあるだろうか。

おそらく、人は社会を作って生きる動物だ。なので、人と社会を切り離して考えることはナンセンスだろう。社会なしの人、人なしの社会について考えるのはきっと無意味だ。われわれにとって、社会というのは人工物でもあり、自然物でもある。現代のわれわれを取り巻く社会は、自然物っぽさより、人工物っぽさが強いと思われる。われわれが原始的な社会を作り始めてから、長い歴史を経て、現代の社会は高度に作り込まれた品となった。ケーキは元を辿れば小麦、牛乳、砂糖などの自然物に至るが、ケーキはあきらかに人工物である。とても素朴で、素材を感じながら食するケーキもあれば、高度に洗練されて元となったものが何かを計り知れないケーキもある。現代社会は後者のケーキと似ているかもしれない。

現代社会の多くが人工物っぽい以上、社会を完全に拒絶することはできないとしても、“この社会”を拒絶することはできる。人は社会なしで生きてはいけない、しかし“この社会”なら別になくても良いのではないか、と考えることは可能である。“この社会”で良いと思う人もいれば、“この社会”ではうまく生きられないと思う人もいるだろう。“この社会”に受け入れられていると感じる人もいれば、“この社会”から嫌われていると感じる人もいるはずだ。ときにわれわれは、社会と“この社会”を混同して語り、“この社会”を拒絶する人を、社会なしで生きていこうとしている人と捉えたりするが、それは誤りである。“この社会”に受け入れられている人からすると、“この社会”こそが唯一の(正当な)社会であるように見えるが、実際のところ、“この社会”というのはさまざまな社会の中のひとつでしかなく、“あんな社会”や“そんな社会”はいくらでも想定できる。“この社会”を拒絶する人は、まさに字面通り、“この社会を拒絶している”のであって、社会を拒絶しているわけではないだろう。

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