「消えない」
個性が消えてしまう。という話を聞いたことがある。
私は本が好きだ。たくさん読むのが好きだ。でも本を覚えるのは好きなわけじゃない。片っ端から読んでどんどん忘れていく。
どんどん忘れても本にはどんどん影響を受ける。生まれたときからこれまでの人生、私は影響を受けなかったことは一度もないだろう。
私の個性は、私自身が持っているアンテナと、そこに引っかかった数々のものたちで出来ている。ココロの遺伝子をきっと受け継いで今に至るのだ。
絵でも小説でも、誰かの影響を受けているけれど、誰かの影響を受けていてもまねして描いているわけではないし、私の個性が消えることもない。
随分若いとき、ネット上の詩の集団の中に居たことがある。私はけして詩に詳しいわけではないが(知らないことも学びきれていないことも、覚えきれてないこともたくさんある)、詩集を読むのは好きだし集めるのは好きだ。
若い人、ではなく同年代ぐらいの人にこういわれたことがある。
「僕は詩をかくから読まない、影響を受けたら僕の個性が消える」と。
そんな程度で消える個性なら個性じゃない、と私は言ったと思う。随分傷つけた言葉になったようだ。泣かせてしまった。
でも詩にあこがれて、詩人に出会って詩を好きになって、だったらたくさんの詩を読みたくならないものなのだろうか。たくさん読んだら、わたしもかいてみたい、そう思ったりはしないのだろうか、とイライラした記憶がとてもよく残っている。
今になったらそんなイライラはしないけれど「そんな程度で消える個性なら個性じゃない」と思っているのは間違いない。
私は遅まきながら日本画を習い始めている。正確には習い始めて2年目である。牛歩のごとく覚えるのが遅いので、やっと少しずつ最近覚えてきたことがある程度で、がんがん描いてます!とはいえない。慎重なのじゃなく不器用なのだ。
日本画を書こうと思う前から日本画は機会があれば見に行くようにしていた。幅が広くてどれに憧れを持っていいのかわからないまでも、上村松園の絵が好きになった。あんな美しい美人画か描けたらとは思うが、私の絵柄はまったく違うので、まねしたところで模写が上手なわけでもなく、結局私は私なのだ。先生に絵をなおされて、先生の絵柄に近づいたとしても、結局清書しだすと私の絵になる。私も負けん気が強いもので、先生のなおしたのではなっとくできなくて何度も直す。人物画の下書きが終わるまで一年もかかってしまった。のんびりにもほどがある。
人形教室にも通っているが、先生の人形にはちっとも似ていない。一番好きな人形作家である先生の人形をつくりたいわけじゃない、やっぱり作り始めたら自分の人形になる。個性は消えたりはしないのだ。うまい下手はあったとしても、うまい下手は個性じゃない。そうじゃなくて自分なりのものがある。
私は個性にあんまり期待をしないので、自分の個性とか考えたりはしないほうだ。第一自分が消えるわけがナイとも思っている。
模倣しようともなんだろうとも、自分が書いた線は自分のものだ。
どれだけたくさんのものを見ようとも、増えるのは知識と経験と好きと嫌いと技術に対する興味だと思う。
その程度で消えてしまうなら、最初からそこに自分を投影してはいなかったのだ。自分なんかいなかったんだ、と思う。
でも実際は自分はちゃんといるから、自分でみつけられないだけなのだ、とも思う。自身のなさが誰かから影響を受けることを怖がっている。それだけにしか過ぎない。
学校で教わることで個性が消える、という人もいる。それは教える先生がへたくそなだけだ。個性は絶対消えない。技術が幅をひろげてくれこそすれ、技術が自分を邪魔することはない。しいて言うなら技術に頼るからわかんなくなるだけだ。描きたいものを描くための道具が技術だ。
描けているならそういう技術はいらない、そういうだけだろうと思う。
私もあなたも、どれだけ影響を受けても絶対消えない。
そうして、どんだけ否定しても誰かの影響は必ず受け継いでいる。
命をつむぐように、そうやって過去から未来へ手渡しする。
それが表現だと思う。
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