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『火の顔』、『アンティゴネ』の観劇によせて

2023年4月12日、吉祥寺シアターにて川﨑星輝(少年忍者/ジャニーズJr.)主演の『火の顔』、大浦千佳主演の『アンティゴネ』を観劇した。深作健太氏演出の<ドイツ家族劇>を謳うこの2作品は、同じキャスト、同じセットで上演されることが何よりの特徴である。 
ドイツ現代戯曲と、ソフォクレス原作のギリシア悲劇を元にした戯曲。一見何の関連性もないこれらを今この時代、同時に上演する事に一体どのような意味があるのだろうか。


『火の顔』
どこにでもいる、普通の四人家族。
父は現実から目を背け、母は自らの母性をアピールする。
姉は外の世界へ出る事を夢見て、弟は爆弾作りに没頭する……。
そこへ突然、現れる姉の恋人。
閉ざされた家庭に、新しい〈風〉が吹き込んだ時、思春期の少年に渦巻いていた〈炎〉は、音を立てて燃えあがる。
――これは、現代の〈分断〉の物語である。

引用:公式HP<https://hinokao-antigone.fukasakugumi-map.jp/

『アンティゴネ』
第二次世界大戦直後、焼跡のベルリン。
廃墟の中で、ギリシア悲劇〈アンティゴネ〉が演じられる……。
戦場から逃亡し、処刑された兄。
王クレオンは、彼の遺体を葬る事を禁じるが、アンティゴネはその禁を破って兄を埋葬し、捕らわれる。
個人として、〈人間〉の法を主張するアンティゴネと、王として、〈国家〉の法を主張するクレオン。
――同じキャスト、同じセットで描く〈戦争〉の物語。

引用:公式HP<https://hinokao-antigone.fukasakugumi-map.jp/


両作品は解釈を固定させてしまうにはあまりにも惜しく、それゆえこうして考察じみたことを公開するのは若干の抵抗があるのだが、観劇後のこの衝動を抑え込んでおくこともできず、こうして筆を執る事にした。

本来ならダブルキャストである『火の顔』をそれぞれのキャストで観劇した上で書くべきなのだが、あいにく手元にチケットがないため、以降言及する『火の顔』はA版キャストの解釈のみである。また、作品名と人物名を区別するため、本稿では作品名を『アンティゴネ』、人物名をアンティゴネといったように表記することをここで明記しておく。

先に述べておくが、以降続く感想は15,000字オーバーである。私情や余談を多分に含むため、決して読み易いとは言えないだろう。また、劇中の台詞は日本語訳版戯曲を元にしているが、観劇各1回の状態で書いているためニュアンスに若干の記憶違いがあるであろうことはご了承いただきたい。

さて、本稿では私の観劇順に伴い以下のように章立てて感想を述べようと思う。当然の話ではあるが、全てはあくまで個人の感想であり解釈を押し付けるつもりは毛頭ないので、適度に読み流す事を推奨する。


1. 『アンティゴネ』の感想

はじめに

 「どうか皆さん、最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、いや、似たような行為はなかったのではないかと、心の中をじっくりさぐって頂きたい」

引用:ブレヒト著(谷川道子訳)『アンティゴネ』p.19-20

ブレヒトが1948年にこの戯曲を書き上げた後、1951年の再演に際し敗戦間近のベルリンの姉妹を描いた序景を削り、代わりに追加されたプロローグにて登場人物達が観客に語りかける言葉である[1]。初演時、敗戦直後の東ドイツにおいてはこの問いかけがナチス政権を示唆していることが明確だが、時を超えた今、この語りかけは昨年勃発したばかりのプーチン政権によるウクライナ侵攻へと意味合いを変えてしまった。

巻末解説にて再演以降はプロローグのみを上演するようになったと述べられていたため、事前に発表された配役にSS親衛隊将校や総統の愛人(エヴァ・ブラウン)があることを疑問に思っていたのだが、まさにプロローグにおけるストーリーテラーの川﨑星輝さんが上記の台詞を発したすぐ後、舞台は戦火が広がるベルリンへと移行することでこの疑問がすぐに解決された。この舞台では両方やることを選んだのだと。 


ドイツ演劇のあり方

後に紹介する『火の顔』はほとんどが戯曲通りであったのに対し、『アンティゴネ』にはかなり独自の要素が多かったように思う。というより、上述した序景を元に本編各所、またエピローグにナチスドイツやウクライナ侵攻の話を入れ込むことで、より現代に即した物語にしようという意思を感じた。こういった独自要素の中でも特に印象的なのは、アンティゴネにより優生思想に基づいた差別や迫害の歴史が羅列されるシーンだ。これは批判では無く単に興味深かったという感想なのだが、強制収容所の名前を叫ぶ前に安楽死や品種改良を並列していたのには思わず一定の思惑を測ってしまった。

また戯曲を読んだ際にはアンティゴネは保守的な妹イスメネに対してだいぶ辛辣な印象だったのだが、本舞台では大浦さんの演技のおかげか妹を想い愛する姉としての姿が強く出ていたように感じた。イスメネが姉を庇うために自分も掟を破り兄の遺体を葬ったのだと虚偽の申告をする前の、アンティゴネとクレオンの討論もかなりグレードアップして描かれていた印象だ。この討論はプロローグ同様度々観客への語りかけがあり、まさに生物である演劇でしか取れない手法の問題提起で大変面白かった。

しかし、彼らの討論に面白さと同時に一定のしんどさを感じたのも事実だ。マイノリティ批判や古臭いジェンダー観を聞く事は戯曲既読の上で覚悟していたのだが、予想外にしんどかったのは、所詮私はアンティゴネにはなれずマジョリティの口を閉ざした傍観者にしかなれないと痛感していたところにアンティゴネ本人から傍観者批判をされるところだ。何しろ「恥を知りなさい!」と叫ばれるのだから。
物語として一方的に消費するからこそアンティゴネのような広義での正義人に共感できるのだが、いざ目の前に存在する彼女が正義を貫くほどに、所詮私は時の流れに身を任せるその他大勢にしかなれないことを突きつけられてしまう。アドルフ・ヒトラーの演説に心酔してしまった過去の痛みからドイツ演劇では感情を揺さぶられず批判的に鑑賞する文化が育った、というのはパンフレットに書かれていた背景なのだが、いざそういう姿勢で観劇に臨んだら激昂したアンティゴネに傍観者であることを批判されるのだから、その衝撃といったらないだろう。共感能力の欠如した人間は電気羊の夢を見ないアンドロイドと同じだ。ドイツ演劇のあり方に一石を投じたようにも感じた。


独裁者と正義

ところで、愛原実花さんは劇中では原作における長老の役割も兼ねていたように感じるが、役表記はヒトラーの愛人であり自殺直前の地下壕で結婚したとされるエヴァ・ブラウンのみであったのは何故なのだろうか。妻でいえばクレオンにはエウリュディケという妻がおり、一説には自殺した末息子ハイモンを追って死んだとされているのだが、『アンティゴネ』には登場しない[2]。愛原さんが明確にエヴァとして舞台上に立っていたのは最後にヒトラーと共に自殺するシーンのみであったと思うので少し疑問だった。

さて、このヒトラーの自殺であるがまず一つ、理解できない演出があった。というのも、エヴァが史実通り服毒自殺をした後、舞台上のヒトラーは最初はこめかみに、次に口内に拳銃を向け、渋った末にナチス幹部に銃殺される展開となった。史実ではヒトラーは確かに拳銃自殺をしたとされているはずなのだが、この改変にはどのような意図があったのだろうか。
しかし、ヒトラー及びクレオンが自身の起こした戦争の結末に怯えるシーンはそれまでの独裁とは裏腹に彼らの人間臭さを感じ、宮地大介さんの演技も相まって思わず同情に近しい感情すら覚えた。

『アンティゴネ』で理解できなかった点はもう一つあり、このヒトラー銃殺後に移行するエピローグではまるでプロローグに巻き戻ったかのようにして二人の姉妹がベルリンの防空壕から出てくる芝居が再び始まるのだが、姉妹のうち妹がSS親衛隊将校にナイフで首を斬られるプロローグとは異なり、姉が妹を守るためSS親衛隊将校をナイフで刺し殺した後、亡霊が次のようなニュアンスの言葉を述べる。「アンティゴネの行いもまた、敵と同じなのである」。理解不足なら申し訳ないのだが、私にはアンティゴネが敵と同じであるとは思えず、自分の信を貫く女性という概念的な意味でのアンティゴネならどちらかというとフックに吊るされ嬲り殺された脱走兵の兄をナイフを用いて助けようとした妹であるからして、このシーンで姉にアンティゴネを重ねて正義を語られるのはどうにも腑に落ちなかった。

とはいえ果たしてアンティゴネは正義なのだろうか、という点については十分に議論したい題材である。
謀叛人である兄ポリュネイケスの亡骸に砂をかけた事についてクレオンに尋問された際、アンティゴネは「人間ならみな私と同じ考えだ」という発言をしていた。確かにそうかもしれない。しかしそういう考えを顕にし、行動に移せる人間は限りなく少ないから、独裁者が生まれるのだろう。頭では何かがおかしいことを理解していながら、悪事は見て見ぬ振りをして独裁に加担する理由探しばかり上手くなり、反抗者や出る杭は挙って打たれてしまう。アンティゴネのような向こう見ずな言動は場合にして事態を悪化させる危険も秘めているのだと、自分に言い聞かせて納得させる。
往々にして勝者が正義、敗者は不義とされる歴史において、アンティゴネが本当に正義なのかは誰も明確に答えることができないだろう。


アンティゴネになれない私は

繰り返されるエピローグがプロローグと異なる点として、姉妹とSS親衛隊将校の結末以外にもう一つ無視できないことがある。それが、彼らの殺戮劇と同時に舞台上手で行われていた家族団欒の様子である。
ビール片手に談笑し、殺戮を見せ物かのように傍観している姿には悪寒すら走ったのだが、これもまた今起こっている、あるいは起こりうる争いの火種を見て見ぬふりをしている、我々観客の暗喩なのかもしれない。劇中で度々語られる「全てのアンティゴネ」ではないことを、盲目であるということを痛いほど突きつけられた場面だ。

【アンティゴネの死出の道行きを見送る第四のコロス】
だがあの娘もかつては、奴隷たちが焼いたパンを食べていたはず、……血まみれの手が戦争を身内のものにさしだした、しかし身内は受けとらず、それを相手の手から奪いとる。怒りに燃えたあの娘、真の世界に身をなげる、……冷たさが、あの娘の眼を開かせた、最後の忍耐が費やされ、最後の悪行を数え切った、そのあとで。盲目となったオイディプスのその娘は、ついに己の眼からも、ぼろぼろの目かくしをとりはずし、深淵の底をのぞきみた。だが、テーバイの民は相変わらず、目かくしをはめたまま、かかとをあげて、よろめきながら、勝利の酒に酔いしれる……。

引用:ブレヒト著(谷川道子訳)『アンティゴネ』p.87-88


こういった演出を踏まえて、輪郭の掴めないぼやぼやした感想ばかりが心中を渦巻く中でただ一つ明確に抱いた感想は「選挙に行こう」というものである。この舞台を観劇した全ての人間の内、「全てのアンティゴネ」に値する人間が一体何割を占めるのかは分からないが、少なくとも、クレオンのような独裁者を生まないために選挙には行こうという気にさせる意味で、非常に有意義な観劇体験になったのではないだろうか。

「戦争は女の顔をしていない」
アンティゴネが叔父クレオンに対して突きつけたこの言葉は恐らく、激化した独ソ戦の記録が男の言葉ばかりであった戦後でほとんど初めて女性兵士の証言を記録し、物議を醸したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの著作から引用した言葉だろう[3]。昨年直木賞や本屋大賞の候補作ともなった逢坂冬馬著の『同志少女よ、敵を撃て』も同じく<戦争と女性>をテーマに据えた作品であった。
もはや、今の戦争は女の顔をしているのかもしれない、それどころか友人や家族の顔をしているかもしれない。我々は皆当事者たりうるのだ。アンティゴネはこうも言っていた。「私は人間を憎むのではなく、人間を愛するためにこそ生きている」。国家よりも人間の尊厳を選んだ彼女は、絶望的な状況でなおも、人間を信じ愛したいと思っていたのだ。
似たような言葉で、ジャヤワルダナ元スリランカ大統領がサンフランシスコ講和条約演説にて仏陀の教えを元に述べた以下のような言葉がある。

”hatred ceases not by hatred, but by love.”
(憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む。)

引用:ジャヤワルダナ元大統領、1951年


いつの時代も争いは繰り返され、連なった憎しみの鎖は途切れる事なく続いている。けれども、アンティゴネになれない私は、その時それでも愛を信じてみたいと思えたのだ。

 


2. 『火の顔』の感想

はじめに

私と姉妹に初潮が来た時、家では赤飯が炊かれた。友人達も、多くが同じ様に祝福されたと話していた。当然その食卓には父も同席しており、その事実に喜びや気恥ずかしさ以上の気持ち悪さを感じたことを覚えている。勿論、恥ずべきものではないのだが、望んで女に生まれてきたわけでもないのに、ただ正常に身体だけが大人になったことを祝福されても素直に受け取れなかったのかもしれない。
なぜこんな話を始めたかというと、『火の顔』冒頭で母親の使用済みの生理ナプキンを見つけたクルトに対し性教育を始めようとする両親を見て自分の話を思い出したからだ。唯一あの瞬間だけ、私はクルトやオルガと同じ気持ちになれた気がした。

さて、劇中では様々な火の解釈が登場するが、ベースとなっているのは火を万物の根源とするヘラクレイトス的思想だろう。対して私が火に抱いている印象は、どちらかと言ったらネガティブなものである。
そもそも多くの人間には、幼少期にあらゆる大人から火は危険だから扱いに気を付けろと忠告されてきた経験があるのではないだろうか。古今東西あらゆる場所で火を題材にした作品や逸話は生まれているが、身近に思いつく物では八大地獄、八百屋お七などが挙げられる。また、私の好きな都々逸に「お前死んでも寺へはやらぬ 焼いて粉にして酒で飲む」という物があるのだが、これもまた火は死体を焼く役割を担っているのだから、こういった知識経験を踏まえてして火が全てを焼く尽くす悪魔的存在であると感じてしまうのは無理もないだろう。
放火は大罪、焼身自殺は苦しい、でも、だからこそ火は誰かを魅了してならないのかもしれない。

 

クルトという爆弾

クルトに対する解釈としては様々な余地があるが、私が至った解釈は家族を燃料に自ら爆弾になった少年といったところだ。
というのも、一般的に人間というのは、世界が狭く自己を唯一無二の存在と過信していた幼少期から、歳を重ねることで常識を知り社会に順応し群衆の一人へと成り代わっていくのだろう。クルトにとっては、無知で、本能で生きている子供は炎であり、他人から見た自分ばかりを気にしている大人は冷たく、死んでいて、だからこそ火にくべて燃やさなければならない。「自ら燃えることのできなくなったものは燃やされる」のだ。クルトが放火を繰り返したのは、こういった思想を抱えていたからだと考える事ができるのではだろうか。

途中クルトは狂ったように叫び回りながら「他人に吹き込まれた考えは捨てて、隙間を閉ざせ」と述べていたが、この密封という行為は、爆弾の作る上でも必須である。冷たい家族やイノセントな本能を燃料に、世界を閉ざし、他人の干渉を拒否して塞ぎ込んで作った爆弾で自分もろとも爆発する……。
これこそクルトが爆弾であると感じた理由である。北川拓実主演の初演から追加されたというクルトの吃音描写も、世界から断絶された存在であることの裏付けではないだろうか。
また自分が作った爆弾で顔面に酷い火傷を負ったクルトは、パウルが自身の親父に顔面を殴られたのだと説明している場面で、「奴はわざと父親に殴らせた。俺の火の顔を見て羨ましく思ったんだ」というような虚言じみた事を言っていたのだが、これも、みな潜在的に爆弾でありたいはずだという願望や偏見の現れなのかもしれない。

ここで矛盾が生じていることに気づいた。
クルトは度々動物的だと述べられていた。私はこれを、すなわち本能的だと捉えたのだが、本編では以下のように述べられている。クルトが何より愛した火は理性を有しているというのはなんという皮肉だろうか。

「(引用する)宇宙とその中にある万物に対して、火による裁判が行われる。火は理性を有し、万物を支配する。火は近づき、すべてを捉え、そして裁く。私も陪席しようと思う。」

引用:マウリス・フォン・マイエンブルク著(新野守広訳)『火の顔』p.106


話を戻そう。クルトが爆弾になりたいと願っているのなら、その最たるもの、歴史上最も多くの犠牲者を出したものが、ロバート・オッペンハイマーが主導して開発した原子爆弾だ。
クルトは最後に焼身自殺をする直前に、「ママがぼくを生んだ時、4トンも軽くなって、そしてそれから43秒のカウントをした」のだと回想していた。4トンは原子爆弾の重量、43秒はB-29爆撃機による原子爆弾投下から核爆発までにかかった時間である。劇中でクルトがB-29爆撃機の模型を少年のような、あるいは恍惚とした表情で眺めていたことを踏まえると、ある種の胎内回帰願望を抱いているとも考えられる。いや、単純な胎内回帰というよりは、そもそも生まれ落ちる前に戻りたい、間違えて生まれてきたのだというような風情で、そう考えるとある意味では反出生主義的な思考を抱えているのかもしれない。いずれにせよ、世界を炎に包むことを望んでいるのなら、随分狂気的な少年である。

「(引用する)対立し合う力がある。物を生成させる力は争いや闘いと呼ばれ、世界を炎に包む力は協調や平和と呼ばれる。」

引用:マウリス・フォン・マイエンブルク著(新野守広訳)『火の顔』p.90


子供の羽化

そもそも思春期の子供というのは、自分を思い返してみても、何でも背伸びして大人に混ざりたがったり、一方では無意味に反抗的になったりと、常に大人への憧れと嫌悪感を抱いているように感じる。そしてこういった側面のうち、クルトは嫌悪感だけに感情のメーター振り切れていたとも考えられる。これは決してクルトだけのせいではなく、他力本願で売春婦殺人事件の新聞記事ばかり気にする父や、子供達は自分達夫婦の為にあえて狂ったふりをしているのかもしれないと現実逃避する母のせいでもあるのだが。
一方で、クルトと同様にゆらゆらとした炎を宿していた姉オルガには、度々正体不明の気怠さがのしかかるのだが、パウルと大人の関係になっても消える事のなかったその炎は、クルトと共に両親を撲殺した後、パウルに連れ出されるようにして逃げたことでついに消えてしまった。いや、あるいは羽化に成功したのだろうか。オルガはパウルの手によって大人への羽化を成し遂げ、クルトは、固い皮に守られたぐちゃぐちゃな子供のまま死んでしまったのだ。

『火の顔』は『アンティゴネ』に対してかなり戯曲通りの展開で進められた訳だが、あえて変更点を挙げるなら、クルトと母親の関係性である。原作ではクルトの前で裸になったりクルトが色気づくのを受け入れられない母親とそんな母親に嫌気が差しているクルトの様子が窺えるのだが、一方で本舞台ではクルトの手を繋ぐ、抱きつくといった甘え方にむしろ母親は怯えているようにも見えた。クルトもどちらかというと、母との関係よりはオルガへの性愛の方が目立って描写されていたように感じる。「俺はもう姉ちゃんとヤってんだ」「俺も姉ちゃんを我慢している」「ぼくたちをネジでつないでしまおうと思う」等、劇中の発言からもクルトのオルガに対する異様なまでの執着を感じることができる。唯一同じ腹から産まれ落ちた存在であるからだろうか。オルガも出生を思い返しては「最悪の時期は脱した」と繰り返していたのだから、ある意味お似合いの思考だ。

ここでパウルの話もしておこう。パウルは馬鹿だけど、その中でも可愛げのない馬鹿で個人的には全く共感できなかったのだが、余所者らしく新しい風となり、閉め切ってじめじめした一家の通気性を良くしたという点では評価されるべきだろう。例えその風がクルトの炎をより一層燃え上がらせたとしても。
パウルにより急速な変化を遂げた一家は、オルガの羽化をもってして終幕を迎える。

 

家族と分断

物語も終盤、クルトとオルガが工場を爆破する場面にて、それまで時に激しく鳴っていた音楽はまるで二人の心中を表現するかのように一転して軽快なものへと変わる。観劇後にサウンドトラックを試聴したら記憶以上にポップで驚いたのだが、何より注目したいのはそのタイトルが“Toy Soldier 2023”であったことだ。劇中泥酔した父とパウルがクルト達の悪行に対して「テロには屈しない」などと叫んでいたが、テロリストやソルジャーというにはいたいけすぎる趣で放火という重罪を犯す二人のアンバランスさが、この軽快な音楽によってより一層際立っていた。

またその後、一度の別居(という名のクルトの隔離)を挟み、両親がガレージで放火の証拠を見つけクルトを呼び戻したことで意図せず再開した二人は、クルトが警察に連れて行かれることを恐れ、両親を殺害する決意をする。両親が寝静まった静寂の夜、言葉を発さずアイコンタクトのみで淡々と、あるいは動物的に準備を進める場面で流れていた音楽には『レ・ミゼラブル』の”Bring him home”を彷彿とさせるメロディラインが含まれており、たまらず切ない気持ちにさせられた。
しかし何より切ないのは、ここまで共犯を繰り返した二人だが、その繋がりはオルガが全てをクルトのせいだと言い張りパウルと共に外の世界へ行く事で呆気なく分断されてしまうことである。

『火の顔』は現代の<分断>の物語であると述べられていたが、敗戦後東西に分断されたドイツの歴史から、時を経て現代、分断は世界規模でも、または家庭という小さな単位でも起こっているのかもしれない。そういう意味では『火の顔』とは我々の普遍的な物語なのだ。



3. 同時上演である両作品の関連性について

人間を人間たらしめるもの

フランス人哲学者ジャック・ラカンがアンティゴネと関連して構築した概念が「対象a」であるのだが、これは「他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの」だという[4]。この概念自体については、論じるどころか正確に理解できる自信が全くないので追求は避けるのだが、『火の顔』にてオルガは以下のように述べている。

「あたしはどこにいったらいいか、分からなくなった。何時間も鏡の前に立っていると、鏡の中から顔を取り出してみたくなる。……交差点のど真中で自分とすれちがうことがある。あたしとまったく同じ姿をした女の人だ。……あたしはみんなと同じ格好をしている。この町には、少なくとももう一人あたしがいる。」

引用:マウリス・フォン・マイエンブルク著(新野守広訳)『火の顔』p.80

一方でクルトの発言はこうだ。

「おまえたちは、他人との関係でしか自分を見ようとしない。それ以外の見方はできないんだ。おまえたちは他人という鏡に自分が映っていると思いたがり、そこに映っている他人の姿を自分だと考え、だから自分は存在すると考えている。そんな考えはみんなゴミだ。」

引用:マウリス・フォン・マイエンブルク著(新野守広訳)『火の顔』p.83

成熟するにつれ自分の本質というものは他者からみた自分で覆われていき、それに多くのものは気づかないかあるいは受け入れるが、その事実に耐えることのできない者だけが苦悩し場合によっては死を選ぶのかもしれない。

話は逸れるが、加藤シゲアキ著の『ピンクとグレー』には以下のような文がある。

僕は完璧に作り上げた白木蓮吾を脱いでみたところを想像してみた。じりじりと背中のファスナーを外すと、そこにはまだ微かに鈴木真吾がいるはずだった。でも実際は違う。そこには肉も骨もない。ただただ無色だった。鈴木真吾は白木蓮吾に完全に飲み込まれていた。僕の生きてきた幼少期も思春期ももう溶けていて、張りぼてとそれらしい装飾だけが薄くぱたぱたと佇んでいた。僕はそれを確認し、白木蓮吾のファスナーを再び静かに閉めた。

引用:加藤シゲアキ著『ピンクとグレー』(単行本)p.248

背景を軽く説明すると鈴木真吾は本名、白木蓮吾は芸名なのだが、現役アイドルが綴ったこの言葉はわたしに重くのしかかった。
というのも、私が次元性別問わずアイドルという存在を応援しているのは、偶像であることを自ら選んでいる事が信じられず目を離せないからだ。芸能に生きる人の中でも特にアイドルという存在は多くの人間に消費されるほどイメージが出来上がり、またそのイメージを元に概念が構築され、そうして年月を経て名声を獲得するほど人だったものは外郭を纏った思念体のような偶像になるのだと思う。ファンと呼ばれる存在が、膿んで開かなくなったファスナーを一方的にこじ開けて偶像の内側にある人間らしさを発見したとき勝手に幻滅する姿を嫌というほど見てきた。
ジャニーズJr.とは完全に偶像になる前の、まだ人間の部分が残っている存在であると解釈しているが、それでも私はこういった思想のもとでアイドルを応援しているので、アイドルである川﨑星輝さんが自分を他人からの評価で定義する事に批判的な台詞を発した事は、私を堪らずいたたまれない気持ちにさせた。


閑話休題――。

 

共通する要素

冒頭で説明した通り『火の顔』はダブルキャストであったのだが、私が観劇した『アンティゴネ』と『火の顔』Aでは姉であるアンティゴネとオルガ、弟であるハイモンとクルト、そして物語を引っ掻き回す部外者である預言者テイレシアスとパウルをそれぞれ同キャストが演じていた事は、続けて鑑賞する上では大変楽しめる配役であった。

舞台上には多くの小道具があったが、中でも両作品で印象的に用いられていたのは金魚鉢だろう。興味深いのは『アンティゴネ』では本物の水が入っていたのに対し『火の顔』ではビー玉に入れ替わっていた事だ。『アンティゴネ』ではクレオンが姪であるアンティゴネとイスメネを追い出し、ハイモンを迎えるまでの短い間にまるで体の熱を冷ますかのようにして水に触れる。一方で『火の顔』ではクルトが家族から逃避するかのようにして塞ぎ込んだ自室で金魚鉢の中のビー玉に触れる。クレオンの怒りの炎はまだ消せる段階にあるが、クルトの内に灯った火はもはや消化できないといったところだろうか。

また、『アンティゴネ』でヒトラーが拳銃自殺を試みたのと同じ場所、同じ姿勢で、『火の顔』でのクルトは口内に拳銃を当て、そしてえずいていた。ここでヒトラー=クルトとするのはあまりに安直であるが、しかし一体どのような意図があったのだろうか?
ヒトラーといえば舞台下手手前、つまりはクルトの部屋にその肖像画が飾られていた。『アンティゴネ』観劇中盤で気付いたので明確ではないのだが、おそらくずっと表向きで置かれており、唯一クルトが工場に放火をする前に抱擁のような仕草を取った後初めて裏返されていた。

クルトはまた同じ場所で、頭蓋骨の模型を愛おしそうに抱えていたのだが、骸骨といえばナチス・ドイツにおけるSS親衛隊の帽章であるトーテンコップが挙げられるだろうか。記憶が確かなら、これは両親がガレージで見つけた焼け焦げた雀の死骸について議論している傍での仕草である。もしかしたら骸骨は単に死への倒錯だけでなく、クルトの火への忠誠を表しているのかもしれない。

また、『火の顔』にて両親がクルトとオルガにより撲殺されたベッドと同じ位置で、『アンティゴネ』序景に登場する姉妹の兄は撲殺されていた。『アンティゴネ』の荒廃した舞台セットにおいては、これらの殺戮の現場となった下手奥の血みどろのベッドの上に(おそらく月桂樹の)リースが立て掛けられていたのだが、これは姉弟に殺された両親への弔いか、勇敢なる戦死者エテオクレスの墓か、あるいは全ての脱走兵や犠牲者への弔いなのか。このリースは『アンティゴネ』終盤、自殺直前のアンティゴネ自らの手によって瓦礫の山の上に移動されていた。

  


4. この時代このキャストで上演する意味

繰り返される歴史

『アンティゴネ』エピローグにてナイフを所持していた妹がSS親衛隊将校により殺されるシーンは、何度も巻き戻しを挟み、姉が将校をナイフで刺し殺すその瞬間まで、冗長なほど繰り返されたのだが、こういう演出の末彼らの結末を変えたのはある種の夢オチか、ループか、あるいは歴史は繰り返すことも変えることもできるというメッセージだろうか。『火の顔』では以下のようにも述べられている。

「世界は火から発し、再び火に戻る。一定の周期ごとに、耐えざる変遷を経て、溶融して永遠になる。」

引用:マウリス・フォン・マイエンブルク著(新野守広訳)『火の顔』p.69

火をロゴスと捉えたこの文章もまた、世界の耐えざる変化と保存を示唆しているだろう。また、時代背景的には明らかに『アンティゴネ』→『火の顔』であるはずなのに、舞台セット的には『火の顔』終盤で荒らされたものがそのまま『アンティゴネ』冒頭へと繋がっている。少しメタ的な視点になるが、実際『アンティゴネ』と『火の顔』は約1週間のあいだ計15公演が上演されるのだから、劇場という箱の中で歴史が繰り返されていることを観客は体験していることになる。

印象的なのは、キャストや関係者各位が口を揃えて「今この時代に上演する意味を考えて欲しい」と発信していたことである。両作品を通してみても、全編に散りばめられた凶悪な独裁批判、ホロコースト批判、プーチン大統領が自国の戦死者の母親へ向けた言葉、原子爆弾、玉音放送といった要素からは強い反戦思想を感じざるを得ない。
他人の思想を勝手に憶測するのは得策ではない。しかし、『アンティゴネ』で述べられた「時は短く、僕たちは過去の戦争と次の戦争の間の時代を生きている」という言葉をもってしても、私には少なくとも演出家である深作さんは永久の平和などなくいずれ国家権力という怪物によって戦争は繰り返されると考えていて、だからこそ演劇を通して一人でも多くのアンティゴネを生み出そうとしているのだと感じた。実際、侵攻は今の時代に起こっていることなのだから。

 

趣意

マウリス・フォン・マイエンブルクが共同制作メンバーとなったベルリン・ドイツ座構内の仮設スペース「バラック」は、伝統的な劇場とは異なり舞台と客席が明確に区切られていないという特性を生かした、演者の熱気が観客にダイレクトに伝わる演劇で人気を博したという[5]。
今回『火の顔』『アンティゴネ』両作品が上演された吉祥寺シアターもまた決して広いとはいえないキャパシティの小劇場であったが、息を吸う音さえ直に聞こえる劇場でこそ得られる何かがあるのだと、確かに実感した。

またやはりジャニーズJr.が出演する舞台ということも相まってか観客の9割以上は女性であったのだが、そう言った客層であることが容易に想定できる中での双方の劇中で繰り返される前時代的な女性軽視の発言、そしてそれを問いかけるような演出は、挑戦的であると同時に何かを観客に伝えようとしているのだと感じさせた。特にアンティゴネは<戦争と女性>をテーマにした作品であり、主人公は常に自分なのだと突きつけられている感覚すら覚えた。



最後にあえてこのことに言及するのだが、これらの演目、特に『火の顔』を初演に引き続き10代のアイドルに演じさせたのには意図があるのだろうか。

前述の通り私はアイドルに偶像性を強く見出しているのだが、同時に、含蓄のある言い方をすると「子供であること」の価値が大きい事務所に所属しているアイドルがこういう思想の人間を演じている光景を見て、なんとも言われない想いであった。
またクルト、ハイモンを演じた川﨑星輝さんが実際に弟であることはファンにとって周知の事実だが、同じグループに兄が所属しているという事実は、彼が弟であることを強調させる。従って、どうしたって観劇中にそのことを意識してしまう瞬間があったことを懺悔したい。


 

5. その他雑感

  • これまで川﨑星輝さんなどと若干よそよそしく呼んでいたのだが、私は彼が所属する少年忍者というグループのファンである。初めて生で見られる機会に緊張して行ったのだが、冗談かと思うほど小さい顔に全ての意識がもっていかれ緊張どころではなかった。スタイルがリアル9等身でびっくりした。信じられなくて観劇中5回くらい目測で頭身を測っていたが何度みても9頭身なので本当にスタイルが良い。ファンの欲目を抜きにしても、それだけで目をひいたので大きな武器だと思った。演技が好きで上手なのは知っていたのだが、加えて滑舌も十二分に聞き取り易く、2公演を通しても唯一気づいたミスらしいミスはクレオンに対して「あなたの兄……、いや私の兄メガレウスが」と言い直したところくらいだろうか。それも自然にリカバリーしていたので、気づくのに一瞬間があったほどである。あと『火の顔』で演説しながら飛び回る時の動きが明らかにアクロバットができる人のそれで、ベッドの上に飛び乗った時にはそのまま台中するかと思った。陰鬱としたクルトが爆弾の作り方について演説しながらスタンドマイクをぶん回し始めると、途端にスター性を帯びるのだから謎に興奮してしまった。

  • ところでクルトに限らず度々挟まれたマイクパフォーマンス、マイクを通して言う台詞になんの意図があったのだろうか。

  • 当たり前なのだが皆演技が上手く、特にアンティゴネ役とオルガ役を務めた大浦千佳さんの演技には感動を覚えることが度々あった。

  • 決して咀嚼が容易とは言えない両作品であるが、おそらく意図的にモダナイズドされていた演出(例えば残り24時間以内のテーバイの陥落を察した長老がクレオンに渡すものが拳銃であったり、「売春」が「パパ活」になっていたり、クルトがスマホで地図を見ていたり)は理解の一助にもなり同時に興味深くもあった。

  • 個人的な事を言えばグロテスクな描写が極度に苦手なので、芝居といえど殺人描写を何度も目にする事には一定の苦痛があった。特に『アンティゴネ』冒頭、ステージ奥に姉妹の兄の死体が吊るされていた様子には思わず目を覆いたくなった。また、観劇にあたって翻訳・ドラマトゥルクを務められた大川珠季さんがTwitterにて紹介していた映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』を視聴した。当然本作中には多くのナチス幹部が登場するのだが、『アンティゴネ』にて真横の通路をナチス幹部役の富田健太郎さんが通ったときシンプルに恐怖を感じ、不意にその恐ろしさを実感することができたのはある意味貴重な体験だったと言えるだろう。

  • 特筆しておきたいのは、音響の凄まじさである。舞台上手奥、演劇が進行する傍で、縦笛、ギター、マッチで火をつける音、銃声、それだけでなく見た事もない楽器と呼ぶのかも分からない謎の物体が次々と登場していた。そもそも舞台上にPA卓がある演劇を初めて観たし生演奏にも驚いたのだが、スタッフクレジットをよく見たら音楽・音響・演奏:西川裕一と書いてあった事に後になって気付いた。この西川さんであるが、単に音響の仕事をしているだけでなくクルトが演説をしている時には顔を見合わせて盛り上げたり、バッカスの宴では一緒になって踊っていたりしていて、思わず目を見張ってしまうことが度々あった。

  • 衣装は全編を通してもはや気が狂いそうなほど白基調であったため、一層血や火の赤が際立っていた。例外的に色のついた衣装を着用していたのは、『アンティゴネ』ではヒトラー、エヴァ、ナチス幹部といった異なる時代の3人と加えて預言者テイレシアス、『火の顔』ではパウルと、家の外に出る時のクルトとオルガのみであった。ところで預言者テイレシアスがブルゾンwithサングラスのイケイケのラッパーみたいな容貌で登場した時には驚愕を通りこして思わず笑ってしまったが、これも彼が部外者であることを表現していたのかもしれない。

  • パンフレットに各キャストの家族観が載っていた。ぼんやりと、家族と一緒に観劇したい舞台だったなと思った。





さて、今執筆している修士論文を優に超える15,000字もの感想をしたためたところで、この感想ブログを締めたいと思う。

改めて、キャスト及び関係者の皆様、素晴らしい舞台をありがとうございました。

 

[1]『アンティゴネ』(ブレヒト著、谷川道子訳、古典新訳文庫、2015年)における谷川道子による巻末解説を参照。
[2]『ギリシア・ローマ神話辞典』(高津春繁、岩波書店、1960年)を参照。
[3]『100分de名著』(NHK、2021年8月放送)を参照。
[4]『ラカンの精神分析』(新宮一成著、講談社、1995年)より引用。
[5]『火の顔』(マウリス・フォン・マイエンブルク著、新野守広訳、論創社、2005年)における新野守広による役者解題を参照。

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