男どうしゆえ

去勢手術したばかりの犬がずっとエリザベスカラーをつけて憂鬱そうなので散歩に出かけた。うちの犬は食に興味がないらしく、まるでご飯を食べない。少し腹を空かせてやろうという気持ちもあった。

去勢手術というものは麻酔が効いてメスを入れてからものの10分で終わるもので、傷口も二針ほど。マーキングが減ったり食欲が旺盛になったりと(うちの犬にとっては)メリットも大きくやらない手はないものらしい。

それでも生後1年半年、これまで渋っていたのは、他でもない、可哀想だと思ったからだ。聞くところによれば発情したメスの匂いに興奮することも無くなるわけで、それはそれで相当なストレス軽減になるらしい。しかし本来あって差し支えないものを、飼っている人間の都合だけで変えてしまっていいものか。少なくとも繁殖の心配であれば別に雌犬を飼わなければいいだけの話である。

ちらっとネットで調べた情報によれば、ヨーロッパ(のどこかは知らないが)犬の去勢手術は相当抵抗があることらしい。例えばマーキングやマウンティングといったいわゆる問題行為とされるものは、飼い主の責任で躾をきちんとすればいいもので、それができないからと去勢手術にメリットを求めるのは酷い話だということらしい。ヨーロッパでは動物の人権(犬権?動物権?)を大事にするらしい。モルモットも寂しがるので単体で飼ってはいけないと聞いたことがあル。どこの国か知らないが。

私としては、まったくもってその通りだと思ったと同時に、やられる犬の気持ちにもなってしまった。犬からすれば、どうやら今日はお出かけらしい。嬉々としながら車に乗せられてどこへ行くのか。着いた先は病院で、預けられてそのまま飼い主は帰ってしまう。その不安たるや想像するに耐えない。眠らされて目が覚めると何が起こったかわからない。股間に傷があって縫われていて、でも自分自身何が変わったかもわからない。男性の大事な部分を取られた自覚があるのかないのかも、人間であるこちらとしては想像もつかない。自宅に帰ってもエリザベスカラーをつけられ、患部が痒くても舐めることもできない。

飼い犬に去勢手術をするかと悩んだ時、最初に思い至ったのは中国の宦官だった。彼らはホルモンの関係か、共通した顔の特徴を持つと言われる。うちの犬も去勢することで顔が変わってしまうのではないか、このまん丸で真っ黒いお目目がひしゃげて卑屈な顔になってしまうのではないかと一瞬想像したりした。しかしまあ、私の知る限りそんな犬は近所で見たことがないので、少なくともそれは杞憂であろうと至った。つまるところ、問題は男として睾丸を取られることの重大さに絞られた。

ネットで調べてみると、去勢手術には確かにメリットが多い。前述の問題行動が軽減されるほかにも、精巣がんのリスクが減ったりもする。性欲に悩まされず、命に関わる病気にもならないということが人生において有益なのだとしたら、仮に自分だったら望んでその手術を受けるだろうか。どうにもそこには単純なメリットでは切り離せない男特有の矜持のようなものが絡んでいるような気がした。

試しに犬に「お前、どうする」と聞いてみたが、彼は黒く丸い目でじっとこちらを見つめるだけで、無垢な表情を崩さなかった。やっぱりわからんか、と落胆しながらも、この判断を委ねられる人間側も相当にリスクを負っているものだと思った。家畜ではない、野良犬でもない、共生するペットにこんな酷い仕打ちをしなければならない現実は、ではペットとはなんなのだという気がしてくる。野良犬ではないのだ。

不意に前に飼っていたジリスのことを思い出した。あいつも最後は大きな腫瘍ができて、最後の判断を任せられた。小さな身体でコブを取ろうと手術すればそれだけで死んでしまうかもしれない、それでもやりますか、という話だった。去勢どころの話ではない。この犬も、いずれ命の判断を迫られる時が来るのだろうか。できるだけその時が来るのを先延ばしにできるよう、今回は予行演習のようなものだと思うしかないと腹を決めた。いい人生にしてやるためと思ってのことだから、100パーセントやってよかったと思えはしないけれど、堪忍してくれ。恨んでくれて構わんから。

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