もやもやしている話

気がつけば最後に更新したのが去年の11月だった。
この間、なにも書いていなかったわけではなくて、別にあるアカウントの方には毎日、とまではいかないまでも頻繁に何かしらを書いてあげている。
どうしてそちらの方には書くのかというと、そちらは既存の知り合いには話さない、自分の恥やなんかをかなぐり捨ててなんでも書き連ねてやろうという、無防備な裸のままを曝け出すようにしているからだ。知り合いに見せない、ではなくて、既存の知り合いには見せない、というもので、新しく知り合った人には見せている。つまり、僕のことをゼロから知る分にはもうどんなふうに思われても構わないじゃないかという半ば捨て鉢なのだ。
なんでもありの場所という手前、少し矛盾に感じなくもないけれど、そこでは一応漠然としたルールのようなものがあって、要するにどう書こうかとか、どう見られようかとか、文法が気になるとか、誤字脱字に思考が停止するとか、そういうことで手を止めない。最初の話から脱線もするし、本題(なんてないのだけれど)に戻ってくるかもわからない、その代わり、嘘はつかない。嘘をつかない手前自分や他人に辛辣になることもある。ただ、なんとなく普通に生きていると、人間、というか少なくとも自分には多かれ少なかれ嘘というものはあるもので、それは自分に対しても他人に対しても然りだ。そういう嘘を本当だと信じてしまわないように、それか他人に見せている自分が本当の自分であるかのように錯覚してしまわないように、別に元々そういう意図ではじめたわけではないのだけれど、結果として今はそういう役割を買ってくれている。
それで最近は、どうも昔の頃を思い出すことが多くて、それについてつらつらと、一挙に何千字も書いたりするわけだけれど、どうもその嘘をつかない場所があるせいか、普段外界の自分もどうも自分を隠したり偽ったりするのが嫌になったような気がする。いや、書いているからというのか、それともそういう風になったからそういう場所が生まれたのか、どちらが先かよくわからない。少なくとも、3月に博論を提出したあたりから普段の生活態度もやけっぱちになっているところは自覚があるし、酒の量も増えた。来年には40歳になることもあって「人生の半分くらいか」と思うと、なおさら将来のためではなくて今の自分のために生きなければいけない気がしていることもある。
ではさて、今の自分のために生きるというのはどういうことなのか、という自問自答も生まれはじめた。言ってしまえば、大学に勤める自分の未来というのは、実現するかしないかは別にして修士課程ぐらいから思い至らないわけではなかったし、通訳の仕事も前職でひとしきりやった。大学教員になった以上は博士号はとらなければと思って書いたけれども、それはあくまでもケジメの問題で、もっとつまらん言い方をすれば(順序は逆だけれど)キャリアのためで、この先にある研究というものが自分のなかでどういう扱いになっていくのか、それは博論提出が視野に入った頃から少し危ぶんでいたところではある。無論答えらしきものはまだない。もちろん、引き続き書籍化を目指したり、博論執筆中に新たに出てきた課題、宿題に取り組んで論文を書くこともある。けれども、なにか若い頃に想像し得た未来(現実)がここに来て頭打ちになってしまったようなところがあって、もっと自分の知らない枠を超えたところを目指さなければならない焦燥感のようなものもある。思えば、自分は将来のことで悩んだことも進路で躊躇したこともなかった。就活に挑んで自分探しに苦慮する学生を見ていても「なぜ?」と首を傾げるばかりだった。ところがどうも最近では、ああこういうことなのかなと少し共感できるような気もしないではない。昔のことをやたらと思い出すのは、要するに路頭に迷っているのだ。同僚(同級生)のFには「博論がおわって力みが取れたせいで」という言い方をしたけれど、どちらも同じ意味のようで少し違う。

まあつまらない言い方をすれば「燃え尽き症候群」のようなものだろう。無論、やたらとこういう言葉に集約するのは好きじゃないけれど(他人が「燃え尽き症候群みたいなもんですかね」とかいったら相当腹たつと思う、そしてそういう野暮な奴は結構いる、そして自分もたまにやってしまう)。燃え尽きた気がするから何か別のことを頑張って次の目標を見つけて、ということになるのだろうけれど、目標を決めればそのあとどうなるかは明白で、つまりは頑張ることになるわけで、で、いずれば確かにそうなるわけで、その意味では今のとにかくモヤァっとしている時間が本当は一番幸せなのかもしれない。不満はあれど、「ちょうどいい」ということは人生においてないものだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?