戦時下と終戦直後の雰囲気

「戦後」というと要するに1945年の日本の敗戦、あるいは「かの戦争」の終戦以降指すのが一番わかりやすい線引きとしてある。そして教科書なんかを見てみると、戦後最初に日本が歩んだのは、戦争責任の追及やGHQの指導下における民主化や非軍事化だ。しかしそれは後々になって戦後がそうしたものからはじまったという解釈が都合がいい人の立場によって語られたものだともいう。それはよく短絡的に保守だ革新だ、右翼だ左翼だ、資本主義だ共産主義だ、民主だ独裁だと短絡的に議論したがるくだらないネット掲示板のような議論の話ではなく、歴史とは常に「語られる」ものであって、であればこそ語る者の立場によって解釈は異なるという根本的な問題の話だ。そういうことは成田龍一著『戦後史入門』でわかりやすく書かれていた。もう少し言えば、教科書に上のような出来事が戦後の最初の出来事として強調される背景には、そういうものをスタートに置くことが学校教育上、都合(これには教科書の紙幅も含まれるだろう)がいい、という立場に基づく。例えば戦後民主化の中で農地改革が代表的なものとしてあるが、それはGHQの改革によって突然はじめられものではなく(もちろんそれによって急速に進んだに違いないが)、戦中から日本国内の食料配分の事情からそういうことが起こっていた。だから安易に戦後と聞いて1945年8月で分断することが短絡的で思考停止に陥った危険な発想かは言うまでもないことだ。

とはいえ、戦時下から玉音放送を聞いて、多少の解釈を経ていきなり終戦を迎えた一般民衆にとって、それは紛れもない戦中と戦後の線引きだ。

最近、渡辺清著『砕かれた神』を読んだ。著者は終戦時、海軍の少年兵で、マリアナ、レイテ沖海戦に参加し、戦艦武蔵の沈没に際して奇跡的に生還した。年齢的にも純粋培養の皇国少年だった著者は、突然の終戦に戸惑い、復員して静岡県裾野の実家に帰省してからも複雑な心境の変化の中に身を置く。戦中、誰かが出征するにあたっては「護国報恩」を掲げ万歳して見送った地元の人々は、早々に昭和天皇は軍部の傀儡に過ぎなかったのだと言い捨て、それを著者は俄には信じがたいながらも昭和天皇とマッカーサーの2ショット写真を見ながらその情けない姿に憤慨する。東條英機ら戦犯が裁かれる中、昭和天皇が戦犯に含まれなかったことを知ると、天皇はマッカーサーに取り入ったのではないかと疑うほどだった。皇国少年が迎えた終戦は紛れもなく、8月15日を境にしたもので、その前後を分かつ時の流れは、海上で一度は死んだはずの人間にとって別世界を表現したとすら言えるかもしれない。

一方で、皇国少年ほどには8月15日を明確な線引きとしなかったのは彼の周囲の大人たちだ。もちろん、玉音放送の前日まではポツダム宣言受諾の事実を知らされず、日本は勇猛果敢に戦果を挙げているものと宣伝されている中での突然の無条件降伏であったことは仰天の事態だったろう。しかし一方で、戦時下にあって困窮に喘ぎ、軍や政府、一部の特権階級に不信感を抱いていた人も存在していたし、戦時下の緊張からくる疲弊感も、降伏以前から多くの人々に厭戦意識をもたらした。そこにきて突然の降伏は、驚きとともに悔しさとともに、間もなくある種の解放感や安堵にすり替わったのではないだろうか。もちろんそこには先行き不透明な不安も混在していたに違いない。しかし『砕かれた神』で昭和天皇が単なる操り人形であったと平然と言う人の顔を想像するにつけ、当時の、特に終戦間際は表面上ほどには当時の戦争推進の空気に髄まで感化されていたわけではないのではないかと思う。もちろん感化はされていたにしても、やはり情勢や空気に巻き込まれる中で否応なく浸透せられざるを得なかったという方が妥当な気がする。

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