戦後初期の日本と中国について
戦後、という話と全く関連がないわけではないが、少し脱線して日本と中国との交流の話にしたい。
中国共産党が国民党との内戦に勝利して北京で中華人民共和国(新中国)の建国を宣言したのは1949年10月だが、新中国はその後まもなく朝鮮戦争に突入する。中国共産党は建国当初、国共内戦の経験から武装闘争路線を歩むことを目指していたわけだが、相次ぐ戦争に国家建設は停滞していた。
1953年7月に朝鮮戦争が休戦となると、中国はそれまでの外交方針を転換して平和外交路線を歩むようになった。同年にインド、ミャンマーとの間で平和五原則を提唱し、翌年のアジア・アフリカ会議でもインドのネルーとともに中国の周恩来が存在感を示し、帝国主義の植民地、半植民地であった国々の一体感をアピールするようになった。中国はそうした平和思想を共有する国々との関係を重視したが、その相手として日本も含まれていた。
国際関係における日本の立場は複雑で、東西冷戦においては紛れもなくアメリカに追随する西側諸国の一員である。一方で、戦後の平和思想の広がりは日本国民の間でも根強く、戦後民主化の浸透はある意味でインドや中国が標榜する「第三世界」に通じるものがあった。戦後の平和政策、民主化の傾向は、短絡的に東側諸国の社会主義思想と結び付けられたこともある。日本共産党はGHQを「解放軍」と定義してもいた。いわゆる左翼とか、進歩派とか言われた人にはそういう傾向が強い。
中国の朝鮮戦争以後の平和路線に呼応したのは、当然日本政府ではなく、平和の思想に共鳴する日本国民であり、更には左翼、進歩派の人物もこれに含まれる。1953年後半に日本の平和運動家で早稲田大学教授の大山郁夫が北京を訪問し、周恩来と初めて会見するが、この時には既に周恩来から日中文化交流、経済交流、代表団の相互往来の重要性が指摘されていた。翌1954年10月の国慶節では国会議員、学術文化、婦人、労働者の代表約100名が行事に招かれ、以後1957年まで年間約1000名前後の日本人が中国に招待されている。
最初に中国を訪問したのは1952年6月の高良とみ、帆足計などで彼女らは北京で日中民間貿易協定を結んだ。同年10月にはアジア太平洋地域平和会議が北京で開催され、歌舞伎役者の中村翫右衛門、社会心理学者の南博、ほか亀田東伍といった労働運動家ら総勢10名余が訪中している。
1957年までの間に多いのは経済関係者で、これには政治家も多く含まれる。経済関係に政治家を含むのは、1950年代当時は日中間に政治外交関係はないながらも貿易協定を結ぶことで交流拡大を目指したがこれの調印と履行が完全に民間に頼られるわけにもいかず、政治と経済を容易に分かつことができなかったからだろう。一方、民間主体であったといえるのは貿易協定といった大きな流れとは別の個別の商社である。啓明貿易、東邦商会などがこれにあたる。また大規模な商品展覧会が武漢や広州で開催されたり、その準備や交渉のために日中貿易促進会や日中輸出入組合の人物が訪中したケースも多い。
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