堀田善衛のこと

堀田善衛の名前が出てきたので、少し調べてみた。堀田といえば国際派の作家(何をもって”国際派”というかはよく知らないが)として知られるが、特に有名なのは戦中、戦後の経験から描かれる中国であったり、画家の生涯を描いた「ゴヤ」、アジアアフリカ作家会議の事務局長を務めた経験などだ。

はたして堀田にとって中国とはどんなものだったのか。もちろん特別なものには違いない。堀田といえば戦中上海に渡航すると間もなく日本の敗戦を迎え、中国国民党宣伝部に流用された。帰国したのは1947年1月だが、その間、日本の占領下にある上海や、日本が戦争において中国にもたらした影響や責任というものについて様々思索して書いている。特にその代表作が「上海にて」だが、他にも南京大虐殺を題材にした「時間」をはじめ、堀田の作品と彼自身の戦前から連なる中国体験は常に併せて論じられてきただろう。

しかし一方で、堀田にとって中国が先天的にどれほど特別な意味を持っていただろうか。堀田はやはり自身の中国体験を元にしたルポルタージュ小説「断層」で、中国への渡航はあわよくばヨーロッパまでもいってみたいという欲張った気持ちをも有していたと書いている。晩年は夫婦でスペインにも滞在し、作品「ゴヤ」にもみられるように、堀田にとって中国とは作品世界に多大な影響を及ぼした一方で、個人の文化的な関心としては突出していたわけではないようでもある。アジアアフリカ作家会議やインド、被植民地への関心などにもそうした一面は表れているだろうか。堀田にとって世界に様々なテーマを抱え、偶然にも(時宜的には必然ともいえるが)戦時、戦後の上海体験が濃厚な熱量を持ったに過ぎないともいえる。一方でそれは後の評価において堀田の名刺の一つともなるほどともいえた。

堀田と戦後、ということで私自身読んだ堀田の数少ない作品の中からいえば、印象深いのはいくつかある。一つには日本による戦争、占領下において中国人社会が地下において複雑なものになり、国民党、共産党、重慶、延安、袁世凱政権など様々な立場の中国人が時には複雑な身分をもって入り乱れていたことに、堀田は敗戦直後から気付き、意識し出したことである。果たしてこのような複雑な社会を中国に生み出したのは誰なのか、その原因の一端を日本に見出しているようでもある。

次に、戦前の上海を知る堀田の、上海という街に対するノスタルジーである。堀田はかつての上海を混沌としたものであり、賭博や浮浪者やギャングや売春など様々な悪、時に社会悪が存在していたことを挙げ、それに比べると1957年に再訪した上海は「がらーんとしとる」と表現し物足りなさを表した。そこに一人に生活者としては社会主義は理想的だが、作家としての感じる資本主義的な一面を魅力的に感じているともしている。それはおそらく戦後中国を訪れた日本人がかの戦争に対する贖罪を心の底で意識するときある種のタブーとして存在するもので、それを隠さずエッセイにして発表した態度は、堀田の迎合のなさと心情を現実の作品に反映させることに対する遠慮のなさを感じる。また再訪したのが1957年という50年代においては比較的旅行者の表現が自由な傾向を呈した時期だということもあるかもしれない。

3つ目に、堀田はまだ上海滞在中、日本国内で「赤いリンゴに唇寄せて」という歌詞が流行っていることを聞いて戸惑いをみせる。それはある種、(敗戦ではなく)終戦を迎えた日本が間もなく一種の希望を抱いて新しい時代を歩み始めたことを表しているのだが、堀田にはそれが酷く不謹慎に思えたようだ。いわゆる贖罪意識、というものは対外的なもの、日本が侵略をした国や地域に対して抱くものであり、日本でただ戦時下に喘いだ人々の間には希薄なものである。一方で、各地で侵略に直接的に触れる機会のあった人々にとっては争いようのない現実で自身の良心や後ろめたさと深く結びついていたといえるだろう。従軍経験ではないが、上海にいて戦後は国民党に流用され、日本占領下の中国人社会に思いを馳せた堀田ならではの強烈な違和感が「赤いリンゴ」にはあったのかもしれない。

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