かける言葉
今学期最後のゼミナールが終了した。初めて担当した4年生が、再来週の研究報告会を以って卒業することになる。今日はその予行演習をした。
ゼミ生、といっても何かを教えた気はしない。こちらはいつも彼女らが調べて発表したものに、自分のかつての恩師の真似をしてコメントするだけだった。具体的にこうした方がいいとかいうよりも、関連してこんな見方もあるよと色々提示してみるだけだった。なんとなく出来上がって満足しているものを、その満足をほんの少しだけ壊してあげる、その程度のことしかできないような気がしたからだ。
それでも21、2歳の青年たちは成長するし、学んでいく。学生としても、人間としても、社会人としても。時には学業に身の入らない彼女らの姿に、初中年の自分の方がずっと勉強していると、しょんもない自負を抱いて不満を抱くこともある。しかし所詮はつまらぬ嫉妬に過ぎず、つまるところは何をしていても、時には何もしなくても、成長する余地のある彼女らが羨ましいだけでもある。
「先生からは何もないんですか」
と、ある蟹座の学生が言った。最後の授業だからみんな一言ずつ4年間の感想を言おう、と促して、全員が終わった後だった。同じゼミにいた2年間、コロナ禍でいま一つ青春を分かち合えなかった彼女らは、同窓たちに何を表現すればいいのか分からず戸惑っているようだった。私自身、彼女らに共通してかけられる言葉はなんだろうかと逡巡した。
「勝つことは目的であるが、勝とうとすることはある意味で欲である」
苦し紛れに出た言葉は、コンビニで買った有名人の名言集にあった羽生善治氏の言葉だった。同じ将棋の藤井聡太氏が蟹座だったことを思い出して、「先生からは……」と聞いてきた学生と繋がったのだ。
「何か明確な目標を決めて頑張れば、それを成し遂げられる、なんてことはない。むしろ僕は間違いであるとすら思う。この先、色々なことがあると思うけれど、生きてる限りは人生だ、良くも悪くも。くれぐれも、どんなに辛いことがあろうと死んだりしないこと。おわりというものはないのだから、いい4年間を送れたと思う人は油断せず、いま一つだと思った人は、これからどんなにもいいことが待っているか。そう思ってこれからも」
いったい何が言いたいのか、自分でも判然としないまま、その日の授業を終えた。いったい何を言いたかったのか。この言葉は誰に向けたのか。果たして卒業を控えた学生への言葉だったのか。それとも自分自身に向けたのか。
教卓のPC周りを片付けていると、蟹座の学生ともう一人別の学生が、それぞれ手に三冊ずつ本を持ってやって来た。卒論の参考資料に借りていた本を返しに来た、という。どれも中国の女性史やジェンダーに関わる本で、彼女らのために入手したもので自分は読んだことがなかった。
「おかげで高い本を買わなくて済みました」
二人はそう言うと、肩の荷が降りたというような顔をしてその場を離れた。
汚さないように慎重に捲ったのか、それとも参考にならなかったのか、まだ新しい六冊の書籍を手元に眺めながら、これらが彼女らの卒論執筆に却って重荷にならなかっただろうかと考えた。すると不意に先ほどの自分の発言が首をもたげ、問いかけた。もしかして自分は、彼女らの重荷にならない言葉を選んでかけたのではないだろうか。かつての自分の指導教官の顔が脳裏によぎり、15年前、先生が私たちにどのような言葉を掛けようとしたのか思い出そうとした。もっと希望に満ち溢れた、活躍の願いを託してくれたのではなかったか。
「先生」
不意に遠くから蟹座の彼女が声をかけた。
「先生、半年ぐらい暇があったら何をしますか」
私は一瞬考えて、彼女がこれから内定先に入社するまでに2ヶ月以上も猶予があることを思い至った。それからどんな時間を過ごせるだろう、自分だったらどうだろう、と考えた。ほんの一瞬の間、心の鏡に映る自分に問いかけて、「何もしないよ」と答えた。
「旅行とかしないんですか」
「何かしたくなるまで何もしないんだ。これまで、何かしなくちゃいけない4年間だったでしょう。何かしなくちゃいけない間は、身体は却って動かないままだ。何もしなくていい時、人間は何かしたくなる。何かをしたい、と思えるまで待つことだ」
怪訝な顔で首を傾げる彼女に、
「頑張らない、を一生懸命やることは難しい」
と加えると、こちらの動揺を知ってか知らずか、彼女は表情を崩して、「先生いいこと言いますね」とお世辞めいたことを言った。
――頑張るな。
――何もするな。
それを伝えることは難しい。でも、難しいと思うことは、伝えたい。
「いいこと言いますね」
と言った彼女の言葉は、なんとなくそのことを指摘した、不甲斐ない初中年の教員に向けた容赦ない励ましのようにすら、感じられた。
じゃあまあ、気をつけて。そう言うと、彼女らは「大丈夫ですよ、何もしませんから」と皮肉った。
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