戦後を調べようと思う、について(導入)
現職に就く前、ある日中友好団体に務めていた。そこは1950年代の半ばに創立した団体で、日本は吉田茂政権から日ソ国交回復を果たした鳩山一郎政権になり、講和問題で政治外交関係が断たれた日本と中華人民共和国(新中国)との将来に正常化の機運がわずかに漂った時代だったようだ。そんな時代から国交正常化、80年代の蜜月期、その後の日中関係悪化を経験してきた古い先輩方から伝わる日本と中国の関係は、靖国神社参拝や領土問題といった相対的に最近の話題でしか聞くことのなかった自分のような世代にはまるで実感の湧かない空想の世界のようだった。
特に2012年の尖閣国有化問題では、それまでなし崩し的に語り継がれてきた「日中友好」という言葉の白々しさが明らかにされるようになり、私個人の心情においても、それまで密かに胸に秘めていた勤務先の友好団体に対する胡散臭さとも好奇心ともつかない疑問が社会問題に入り混じって表出したようなものだった。
大学に戻って教員になるという話になった時、かつて修士課程で学んでいた通訳や翻訳ではなく、日中関係をよく学びたいと思ったのはこうした経緯があったからだ。だから自分は戦後の日中関係、特に自分が働いた友好団体を含む民間交流や文化交流を中心に研究したいのだと思っていた。
かつて勤務した友好団体にはよく知られた文化人が名前を連ねていた。そうでなくても、戦前から様々な形で中国と関わった文化人、知識人は多い。戦後の日中の関わりにおいて、交流の実態を調査することも大事だが、その動機を戦前、戦中に求めなければいけないのは当然のことのように思われた。また、日中関係のみならず、戦後の日本人の態度というものはあらゆる面において戦前との連続性で考えなければいけない。例えば戦争に対する反省や贖罪、戦争責任、講和問題に対する態度、戦後復興に向けた意識の変化など。どれも、当然ながら1945年8月から戦争が終わって日本人はこうなりましたと、時代と人間を分断することはできない。
では戦後の日中関係を学ぶ、ということはどういうことなのか。民間交流に焦点をあてるというのは可能なのか。早々に壁にぶつかった(ている)。上述の事柄に加え、「日中関係」というからには中国側の視点も欠かせない。果たして自分はそんな壮大なテーマにどこか落ち着く軸足を見つけ、論を展開することなどできるのだろうか。文献を読んでも、自分がいま近代日本人の精神史に向かっているのか、日中の政治関係に向かっているのか、単なる日本人と中国人の心温まるヒューマンストーリーに浸ろうとしているのか見当もつかない。これらを見い出した一つの方向性に束にして向かわせ、筋の通った一本にすることなどあり得るのだろうか。迷えば迷うほどに文献を読む手も止まり、思考も複雑化して論文に手が付かない。悩みが悩みを呼んでいる、というほどいいものではない。悩みは悩みを停滞させている、そんな心境で足踏みしている心地の悪さだ。
それでも何かしなければと思い、先日、ある学者Aについて短い論考の書きかけを、博士課程の学生として在籍している大学のゼミで提出した。その場でゼミ生や複数の教員から意見を受け、その中である問いかけをされた。
「これは、日中関係の話ですか、それとも日本戦後史の話ですか」
その場では言い訳がましいことをたらたらと述べて、要するに戦後史の話のような気がする、というようなことを言った。ちょっとおかしなことを言ったな、などと思いながら胃袋にでかい石でも飲み込んだような気持ちの悪さでゼミを終え、帰りの車の中で考えるともなしに考えた。
次第に、気持ち悪さは消えないまでも、なるほど戦後史か、という気になった。もちろん、今までの方向性の悩みの中に戦後史の問題がなかったわけではない。しかし人に言われるのと、自分で思っているのとでは違う。何よりも自分が戦後史と思って書いたわけではないものに、戦後史ですか、と問われたことの意味は少し違ったような気がした。
一体自分は何を見ようとしているのだろうか。前職の友好団体の古い先輩方の顔、それは日中関係に対する問題意識のように錯覚していただけで、自分の知らない戦後のある時代を生きた老人たちの、その人間に対する反応だったのではないか。そう思うようにもなった。
大学教員になったばかりの頃、少しでもその世代のことを知ろうと1960年頃の安保闘争と文化人について調べたことがあった。それまでは友好の歴史でしか聞かされなかった日本と中国の当時の交流が、そうした社会運動の盛んな時代と結びついていることを初めて意識した。その頃は、そういうものを日本人民と中国の共鳴の一部のように捉えて研究テーマになり得るかどうかばかり気にしていたものの、今にして思えば、こういう時代を扱って思い浮かべていたのはこの時代をリアルタイムで生きた両親の姿もあったのだと思う。かつて父が東京で浪人生だった頃、下宿先が社会派作家の吉村公三郎の自宅に近かったと聞いた。吉村という人物がどういう人物かはわからなかったが、漠然と、友好団体に勤めた自分との時代的な接点が現実に目の前にあるように感じられた感動は微かに覚えている。別に親の来た道を追っているという話ではない。単に、自分にとってリアリティを持って感じられる歴史、それが「戦後」なのかもしれない。
ともすれば、研究というものを仮に自分の人生そのものと重ね合わせていいものなのだとすれば、私が一番首を突っ込みたい穴の先にあるものは日本の戦後なのかもしれない。そこに経歴という恣意的な要素を足していいのであれば、日本の戦後における中国とは何だったのか、ということなのかもしれない。
そんなことに思い至りながら、あくまでも実験的に、まずは戦後史を勉強しかけている。前にも言ったように、これまでの模索の中に戦後史という発想がなかったわけではない。でもそれはどんなに頭の中の片隅にあったとしても自発的には辿り着くことはないもので、無意識の準備と、外部のさりげないきっかけで始まるものだ。もしかしたらこれも何かの無意識の準備に過ぎなくて、後々になって「ここを目指してたのか」と気付くことになるかもしれない。でもまずは、ここからを始めてみようと思う。
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