記憶の衛星となる話

 2年ぶりに両親に会った。コロナ禍で帰省を控えていたわけだが、前日の夜になっていきなり電話をかけてきて東京にぶらぶらしに来るという。明日は週末だけど推薦入試がある、夜も用事があるからダメだと言うと不満そうに次の日はどうだ、月曜はどうだと惜しそうに追い詰めてきた。
 結局仕事が昼過ぎに終わったものだから、電話して稲城のウチに寄ってもらった。去年から飼い始めた犬の“おこげ”を見せてやると、母親は大喜びで腹を撫でていた。
 おこげはプードルとチワワの間の子で、真っ黒だからおこげと名付けた。人間が大好きだから、知らない人を見ると二本足で立って飛びついて顔を舐め回す。あまりにしつこく体をよじ登って肩から首の裏にまでいくものだから、母は最初こそ盛大に可愛がっていたものの、少し辟易した様子だった。それでも最後まで猫撫で声でおこげを撫でていた。
 父はベランダの外を見て「ありゃなんの畑だ」と言った。稲城は梨畑が多いと教えてやると、興味なさげにふぅん、と呟いた。
「そういえば、ここに来る前に気がついた。昔、じいちゃんとばあちゃんは浜松に来る前、ここに住んでたらしい」
 稲城に?じいちゃんとばあちゃん、というのは父親の両親のことを指していた。元々は八王子の人間で、いつか親戚を伝って浜松に来たという話を聞いたことはあった。
「八王子の後、戦中のことらしい。火薬工場があってそこの官舎にいたんだと」
 稲城に火薬工場があったなんて話は知らなかったし、その場でスマートホンで調べると確かにそういうことが書いてあった。ここから車でちょっと行けばすぐの距離にあったらしい。戦中、といえば、実家の仏壇には線路の脇に佇む曽祖父の写真が飾られていたのを、なぜか最近よく思い出していた。自分が戦後のことに興味を持っているからかもしれないが、あの鉄道はいったいどこのものだったのか、確認しようと思っていながら日々の雑事に忙殺されて後回しになっている。いつしか父に「満鉄かな」と聞いたことがあるが、満州には言っていないと思う、と返された。しかしどこかと聞いても曖昧にしか知らない風情であった。

 父親は、ちょっと何かのきっかけで昔の記憶を掘り起こすことがあるようだった。以前、自分が世田谷の桜というところに引っ越したというと「昔おれが住んでいた場所かもしれん」といってきたことがある。今回のようにふらりと東京に来た折、50年も前の記憶を頼りにかつての下宿先を探していたら、今もその家屋はあった。道路の脇に車をとめ、降りて路地の奥に入って行った父は、出てくるなり声には出さず口の動きだけで「あった」と伝えた。まるでガラクタのタイムカプセルを壊さないように持ち上げる仕草であった。その家屋はある古い社会派作家の家が隣接していて、今でもその表札がかけられていた。かつてミーハーな気持ちで隣に住んでいたという父の話は、社会主義的な理想に燃えた未熟な若者たちが青春を謳歌した時代の名残を感じた。
 今度の稲城の件にしても、息子がそこに住んでいるからと調べたわけではないだろう。浜松から200キロ弱、高速道路なら3時間程度のたったそれだけの距離を回送しながら、わずかにかつて昔に聞いた自身の両親の出自を、土地の匂いと風の便りに刺激されて引き出したに過ぎない。
「おれが今でも物入れに使ってる箱、じいちゃんもそうして使ってた箱なんだけど、古い人が見た時に、なんだ火薬箱じゃねえか、て言ったんだよ」
「今じゃ貴重な代物かもね」
「そうかもなぁ」
 古いものとは捨て難いものだ。時間が経てば経つほど。火薬工場は今はない。世田谷桜の家屋もいつか老朽化で取り壊されるだろう。残るのは時代ゆえの丈夫さを誇る火薬箱ばかりだが、この記憶は誰が受け継ぐものなのか。あるいは自分が偶然にも父の衛星となったように、どこか知らない誰かが他の誰かの忘れ去られた記憶を掘り起こすものだろうか。その時火薬箱は誰のために、どんな役割を果たすのだろうか。

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